フランスW杯で日本と対戦したアルゼンチン代表の問題児・オルテガ!
2016年11月25日 更新

フランスW杯で日本と対戦したアルゼンチン代表の問題児・オルテガ!

ディエゴ・マラドーナの再来と言われたドリブラー・オルテガは問題児だった。プレイではマラドーナ程のインパクトは残せなかったものの、W杯には1994年、1998年、2002年とメンバー入りしている。また、フランスW杯では日本代表と対戦している。

14,298 view

ポスト・マラドーナと期待された「アリエル・オルテガ」

デビュー当時は「ディエゴ・マラドーナの再来」と騒がれた天才ドリブラー。小さな身体をフルに使った大きな切り返しと緩急の効いたボール運びで、敵DFラインに“ズレ”を生み出した。
アリエル・オルテガ

アリエル・オルテガ

他にも「マラドーナの後継者」「マラドーナ二世」などと言われ期待された。
実際にはマラドーナ程のインパクトは残せなかったものの、W杯には1994年、1998年、2002年とメンバー入りしており、アルゼンチン代表で長らく活躍した。
若い頃のオルテガ

若い頃のオルテガ

また、オルテガにとって初めての1994年W杯アメリカ大会では、ディエゴ・マラドーナがアルゼンチン代表に復帰し、試合に出場していた。
そのマラドーナが豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決めたグループリーグ・対ギリシャ戦。

その後、マラドーナは試合の途中でオルテガと交代する。
これはマラドーナにとってはじめて途中交代を指示された試合となった。

そして、ドーピング検査で使用禁止薬物が検出され、マラドーナは大会を去ることとなる。
ギリシャ戦の交代シーンは、アルゼンチン代表にとって新旧ドリブラーの交代をも印象付けるかのようなシーンとなった。
1994年のワールドカップに出場したディエゴ・マラドーナ

1994年のワールドカップに出場したディエゴ・マラドーナ

マラドーナから受け継いだ問題児っぷり!

マラドーナと似ている点は、ドリブルだけではなく、”問題児っぷり”も挙げられる。
前述した1994年のW杯で、悪童マラドーナが代表を去ったが、チームに迷惑を掛ける選手としてはオルテガが台頭していく。

それを象徴するシーンは、1998年のW杯フランス大会、準々決勝のオランダ戦だろう。

オルテガはアルゼンチン代表の主力メンバーとして活躍し、チームの決勝トーナメント進出に貢献。
しかし準々決勝のオランダ戦、ペナルティーエリア内でオルテガが意図的にダイブ(シミュレーション)。それを抗議しに来たオランダ代表GKファン・デル・サールの顎付近に頭突きを見舞い、一発退場(明確に言えばシミュレーションで警告を受け、ファン・デル・サールに頭突きを食らわしたプレーで警告となり退場)。となってしまう。

そして、試合も1-2で敗れ、戦犯として大きな批判を受けることとなった。

オルテガ頭突き退場

オルテガはクラブチームでも問題を起こしている。
1997年にリーベル・プレートから当時クラブ史上最高の移籍金(20億ペセタ)で、スペイン・リーガエスパニョーラのバレンシアに移籍した。
しかし、練習のやり方を巡って監督のクラウディオ・ラニエリと衝突してしまい、レギュラーを外された。

また、2002年にはトルコリーグのフェネルバフチェに移籍。ここでは環境に馴染めず、僅か半年でアルゼンチンに無断帰国してしまう。
この行動がクラブ側の逆鱗に触れ、多額の違約金を請求されることとなった。
そして問題は泥沼化し、最終的にFIFAが介入。結果、オルテガに長期間の出場停止処分が下されるなど、身勝手な行動で周囲を困惑させた。
ピッチ内外で目立ったオルテガ

ピッチ内外で目立ったオルテガ

1998年、日本代表とフランスW杯で対戦!

1998年、日本がW杯初出場となるフランスW杯の初戦でアルゼンチン代表と対戦した。
オルテガをはじめ、シメオネやベロンなどのスターを揃えたアルゼンチンは、意外にも試合序盤はゆったりとしたスタートだった。
初シュートは日本の山口素弘が放ち、日本ボールの時間帯も多くあった。

しかし、要所要所ではやはり強豪チームの片鱗を垣間見ることができた。
フランスW杯のアルゼンチン代表

フランスW杯のアルゼンチン代表

前列右から2番目がオルテガ。
フランスW杯の日本代表

フランスW杯の日本代表

この時の日本の司令塔は中田英寿

この時の日本の司令塔は中田英寿

黒髪の多い日本代表にあって、目立つように金髪にしたとされる中田。
25分、フリーだったオルテガから左サイドのクラウディオ・ロペスにボールが回され、ピンチを迎えるなど徐々に主導権を握られていった。
そして、28分にオルテガからシメオネへとパスが通り、バティストゥータへ縦パスが送られた。
その縦パスに名波が反応しカットするも、ボールはバティストゥータのもとへとこぼれてしまう。そして、バティストゥータはGK川口能活をヒラリとかわすように柔らかなシュートを放ち、ゴールを決めた。

この試合はオルテガを含め、アルゼンチン代表は全体的に力をセーブしながらプレイしている印象があった試合だが、ワンチャンスを確実にものにしたアルゼンチンが1-0で日本に貫禄勝ちした。

アルゼンチン代表vs日本代表の試合

※英語での実況です。
31 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

多彩なパスで魅了したベロン!仏W杯で日本と対戦!ラツィオで活躍!

多彩なパスで魅了したベロン!仏W杯で日本と対戦!ラツィオで活躍!

アルゼンチン代表として3大会に出場したファン・セバスチャン・ベロン。父親も名選手だった。セリエAのパルマ、ラツィオで活躍した。長短織り交ぜたパスで世界中のサッカーファンを魅了し続けた。
ひで語録 | 4,038 view
「ドーハの悲劇」から30年が経過!ラモス瑠偉公認のコラボアイテムが発売!ドキュメンタリー「ドーハ1993+」も話題に!

「ドーハの悲劇」から30年が経過!ラモス瑠偉公認のコラボアイテムが発売!ドキュメンタリー「ドーハ1993+」も話題に!

オンラインショップ「キーレジェンド」にて、ドーハの悲劇を象徴するシーンをイラストデザインした「ラモス瑠偉」公認のコラボアイテム「VINTAGE CULTURE BASE / FOOTBALL COLLECTION」の第1弾(Tシャツ、プルパーカー)が現在好評発売中となっています。
隣人速報 | 169 view
「外れるのはカズ、三浦カズ」から20年。カズの当日の様子と合宿地から金髪で帰国するまでの空白の足取りを追う

「外れるのはカズ、三浦カズ」から20年。カズの当日の様子と合宿地から金髪で帰国するまでの空白の足取りを追う

1998年6月。サッカー日本代表初のワールドカップ出場となるフランス大会直前。エース・カズ(三浦知良)の代表落ちが話題をさらった。スイス「ニヨンの屈辱」とも言われるカズの落選から、成田空港に金髪で現れるまでの空白の足取りを振り返ってみる。
ひで語録 | 13,608 view
あれから20年・・・1997年11月16日『ジョホールバルの歓喜』に至る激闘史を時間軸に沿って振り返る

あれから20年・・・1997年11月16日『ジョホールバルの歓喜』に至る激闘史を時間軸に沿って振り返る

ワールドカップ出場が夢のまた夢だった時代があった。それはついこないだのようだが、1997年11月16日の『ジョホールバルの歓喜』から20年が経つ。サッカー日本代表の1997年アジア最終予選を時間軸に沿って振り返ってみる。
ひで語録 | 5,553 view
「ジョホールバルの歓喜」から20年!決勝ゴールの岡野氏を迎えたトークイベントが6月1日に開催!

「ジョホールバルの歓喜」から20年!決勝ゴールの岡野氏を迎えたトークイベントが6月1日に開催!

サッカー男子日本代表が、1997年に悲願のワールドカップ出場を決めてから20年という節目に合わせ、トークイベント「朝日新聞紙面でみる『炎の70日』と『ジョホールバルの歓喜』」が6月1日(木)に開催される。ゲストにはイラン代表との試合で、延長戦で決勝ゴールを決めた岡野雅行さんが招かれている。

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト