3度活躍した輪島大士
わじま-ひろし
1948- 昭和時代後期の力士。
昭和23年1月11日生まれ。
日大で2年連続学生横綱。
昭和45年花籠(はなかご)部屋に入門し,幕下付け出しで初土俵。46年7場所で入幕。48年21場所で54代横綱となる。
左下手からの投げは「黄金の左」とよばれ,北の湖とともに一時代をきずく。56年引退。優勝14回。
花籠部屋をついだが,61年廃業。
プロレスラーをへて,学生援護会顧問。石川県出身。日大卒。本名は輪島博。
輪島大士は3つのカテゴリーで活躍しました。
まずは大相撲で横綱にまで昇進し、一躍大スターとなります。
現役時代は好敵手の貴ノ花や北の湖と激しい取り組みをみせました。
引退後は一時親方を務めますが、その後プロレスの世界へ飛び込みます。
元力士である天龍との一戦は激闘となりました。
そして、プロレス引退後はバラエティ番組「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」で、石橋貴明に輪島大士の天然ボケを見抜かれ、イジられます。
しかし、それが功を奏して、人気タレントとなりました。
本稿では、3つのカテゴリーに分けて、輪島の魅力に迫ります。
まずは大相撲で横綱にまで昇進し、一躍大スターとなります。
現役時代は好敵手の貴ノ花や北の湖と激しい取り組みをみせました。
引退後は一時親方を務めますが、その後プロレスの世界へ飛び込みます。
元力士である天龍との一戦は激闘となりました。
そして、プロレス引退後はバラエティ番組「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」で、石橋貴明に輪島大士の天然ボケを見抜かれ、イジられます。
しかし、それが功を奏して、人気タレントとなりました。
本稿では、3つのカテゴリーに分けて、輪島の魅力に迫ります。
1.大相撲時代
型破りな横綱
2年連続学生横綱の看板を引っさげて鳴り物入りでプロの世界にデビュー、幕下付け出しで2場所全勝で十両へ、そして当時角界のプリンスと言われた貴乃花とともに大関に昇進、マスコミ史上空前の”貴輪”人気と騒がれ、のち角界の常識を覆す(輪島以前角界では下手で横綱は張れないというのが定説だった)
必殺技”黄金の左”からの下手投げを切り札に48年5月場所全勝優勝し、横綱審議委員会において満場一致のもと見事第54代横綱に推挙された
その後も相撲の歴史上初めて黄金の廻しをしめ、ランニングを中心としたマイペースのトレーニングで”怪童”、”不沈艦”と歌われた第54代横綱北の湖とともに相撲史に燦然と輝く”輪湖時代”を築き、史上最大の横綱対決のもと14回もの優勝を重ね56年惜しまれながら引退
via aganism.com
型破りな武勇伝としては、関脇当時に高級車で国技館に乗り付け、角界関係者を唖然とさせた事もありました。前例のない横綱でしたね。
大横綱・大鵬と入れ替わるように、大相撲の世界に現れたので、新時代の到来を予感させる力士とのイメージを持たれました。
大横綱・大鵬と入れ替わるように、大相撲の世界に現れたので、新時代の到来を予感させる力士とのイメージを持たれました。
学生相撲出身で唯一の横綱
日本相撲協会によると大学出身力士は、これまで206人。そのうち、十両以上の関取に昇進したのが114人と半数以上は月給が支給される地位への昇進を果たしている。
しかし、最高位の横綱に昇進したのは、1970年初場所で初土俵を踏んだ日大出身の輪島ただ1人。
大関も1961年春場所に東農大から初土俵を踏んだ豊山(時津風部屋)から、2007年名古屋場所後に昇進した琴光喜(佐渡ヶ嶽部屋)まで7人(輪島を含む)しかいない。
成績
1970年初場所、幕下付け出しで初土俵。
1970年夏場所、十両昇進。
1971年初場所、新入幕。
1972年九州場所、大関昇進。博から大士に改名。
1973年夏場所、横綱昇進。
1981年3月、力士引退。
通算成績673勝234敗85休、幕内最高優勝14回、殊勲賞3回、敢闘賞2回。
珍記録
1973年の11月場所。
場所中に休場をしながら優勝してしまった。一場所が15日制になって唯一の「休場しながらの優勝」。
成績は12勝2敗1休だった。
場所中に休場をしながら優勝してしまった。一場所が15日制になって唯一の「休場しながらの優勝」。
成績は12勝2敗1休だった。
2.プロレス時代
大相撲を引退後、花籠部屋を継承した輪島大士。
しかし、1985年に先代から継承した年寄名跡「花籠」を借金の担保(実際には実妹の料亭の借金)にしていた事が判明し、無期限謹慎処分などの厳しい処分が下されました。
この事件が原因となり、花籠部屋は消滅し、輪島本人も相撲界から離れ、38歳にしてのプロレス挑戦へと繋がっていきました。
しかし、1985年に先代から継承した年寄名跡「花籠」を借金の担保(実際には実妹の料亭の借金)にしていた事が判明し、無期限謹慎処分などの厳しい処分が下されました。
この事件が原因となり、花籠部屋は消滅し、輪島本人も相撲界から離れ、38歳にしてのプロレス挑戦へと繋がっていきました。
1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。
身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。
本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったことも事実といえる。
また阿修羅・原のバックドロップを受ける際に恐怖心からか体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷することもあった。
輪島が全日本に入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。