【小橋建太インタビュー(前編)】プロレスラーを夢見て「どんなときにも希望はある」
2020年2月26日 更新

【小橋建太インタビュー(前編)】プロレスラーを夢見て「どんなときにも希望はある」

幾多の怪我、病気を乗り越えて多くのプロレスファンを魅了し続けた「鉄人プロレスラー」小橋建太。波乱万丈なレスラー人生を不屈の精神で歩み続けた小橋さん、その真っ直ぐな生き方に迫ります。

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2020年1月、ミドルエッジ編集部(ミド編)は東京・等々力へ。
この日は「鉄人プロレスラー」小橋建太選手をインタビューするため、小橋さんが代表を務める株式会社Fortune KKを訪問することになっていたのです。

普段あまり感情を表に出さないミド編担当者が、この日ばかりは東急大井町線等々力駅を降りたあたりからニヤニヤしています。そう、1980年代の全日本プロレスから2000年代のプロレスリング・ノアまで熱烈なファンであり続けるミド編担当者にとって、小橋選手にインタビューする機会を得たことは、それだけでもう「ミドルエッジやっててよかった~!」な気持ちにさせられる格別な出来事なわけです。

端からみたら「こんな調子でインタビュー大丈夫か?」なんて疑念を抱かれても不思議ではない、ちょっとフワフワした感じでFortune KK事務所前に到着。

【小橋建太インタビュー(前編)】プロレスラーを夢見て「どんなときにも希望はある」をご覧ください。
小橋建太さん

小橋建太さん

1967年、京都府生まれ。
1987年、全日本プロレス入門。
1996年、三冠ヘビー級王座獲得。
2000年、プロレスリング・ノア移籍。
2003年、GHCヘビー級王座獲得。
2006年、腎臓がん発覚により長期欠場。
2007年、546日ぶりに日本武道館にて復帰。

2013年に引退後は個人事務所「Fortune KK」設立。フィットネスジム経営、講演/メディア出演など精力的に活動を続けている。
※前編、中編、後編全3回のインタビュー記事の最後には、小橋さんからのプレゼント情報を掲載します。どうぞお楽しみに。

高齢化社会に向けて、自分の健康は自分で守ろう

ミドルエッジ編集部(ミド編)
小橋さん、本日はよろしくお願いいたします。まずミドルエッジという取り組みについて…(以下、ご説明)
「思い出す」「懐かしい」という感情を軸にした繋がりを生み出し、高齢者が楽しく前向きに生きる社会を創りたいんです。
「僕がフィットネスジムを始めた志と似ていますね。日本はいまや4人に1人が60歳以上の高齢化社会、自分も今年53歳でもう高齢者予備軍といってもよいでしょう。自分の健康は自分で守ろう、体が動かなくなって医者に頼る前に自分の体は自分でケアしていこうと、そんな思いでレスラー引退後はフィットネスジムの経営に挑戦しました。いまも80代のお客様が3人、僕のジムに通ってくれています。」
「ミドルエッジは昔の思い出を活かして頭と心の健康を保とうとしている、僕はフィットネスジムを通して体の健康を保とうとしている。志が似ていますね(笑。」
ミド編)
有難うございます。小橋さんは2013年にレスラーを引退して以降、講演活動などにも精力的に取り組んでいらっしゃいますよね。引退後も充実した日々を過ごされていることと思います。
「ファンの方と昔話に花を咲かせることはとても嬉しいことです。もう引退したからリング上の新しい話題を提供することは出来ない、それでも昔のリング上の自分を応援してくれていたファンと繋がることが出来る。それは幸せなことだと思います。」
 (2170560)

「正直、自分が引退するイメージはなかったんです。師匠のジャイアント馬場さんは生涯現役を貫いた方でしたからね。しかしレスラー人生で体に蓄積されたダメージの深さ、2009年にリング禍で亡くなった三沢さんのこと。万が一、自分自身もリング上で何か起きたとしたら人々がプロレスに夢を抱けなくなるのではないか。そんなことを思いながら、何より小橋建太のプロレスをお見せすることが出来なくなると判断した時、引退を決意したんです。」
ミド編)
小橋さんといえば、現役時代にはプロレスと結婚した男と揶揄されたほどの努力の人でした。引退を決意することは辛い決断だったと思います。
「誰よりも悔しい気持ちでしたね。でもあの頃に戻りたいという気持ちはないんです。昔は昔でかけがえのないものですが、いつでも今を充実させたいと思っています。人間は戻れることはなく時間は誰にでも、お金持ちでも貧乏でも平等に与えられるもの。だから今の時代を一生懸命に生きないといけない。昔やりたいことが出来なかったとしても、今からでもやれるんだったらやればいいし、肉体的に無理であっても年齢を重ねたからこそ出来ることもある。ミドルエッジを見ている人にもぜひそう考えていただきたいです。」
「現役を退いて講演活動を始めたころは台本を書いて何度も練習していましたよ。リングのうえでならどんな会場でも自信がありましたが、講演は自信がないのでトレーニングして。人の講演も聴きに行って参考にしたり、おかげで始めた頃よりは少しは良くなってきたかな(笑。」
ミド編)
(…ああ、レスラーとして応援していたころのイメージ通りの方だなと思いつつ)それでは、そんな小橋さんの半生を振り返っていただきたいと思います。

諦めなかったからプロレスラーになることが出来た

ミド編)
小橋さんがプロレスラーを志したきっかけを教えていただけますか?
「僕がプロレスラーに憧れたのは、幼いころに全日本プロレスの会場で“ジャンボ鶴田VSミル・マスカラス”を観戦したのがきっかけです。当時のプロレスといえば全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスがありましたが、母子家庭で育った僕はジャイアント馬場さんの存在に父親像を重ね、全日本プロレスに憧れるようになりました。」
「高校を卒業する時、家庭の事情で大学進学を断念して就職の道を選びました。地元京都の大手企業だった京セラに就職したのですが、そのときはプロレスラーになりたい気持ちがありながらも一歩踏み出す勇気がありませんでした。」
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