2021年5月27日 更新
【谷沢健一】1970~80年代の中日ドラゴンズを牽引。首位打者2回、通算打率3割超えの安打製造機
谷沢健一といえばわかりやすく歯切れのよい解説でおなじみの知性豊かでちょっと渋味のあるプロ野球解説者といったイメージを持つ方が多いことでしょう。そんな谷沢健一、実は首位打者を2回、通算2000本安打達成、通算打率は3割を超えているすごい選手なのです。今回は、その野球解説同様、玄人好みの渋い打撃術でプロ野球ファンを魅了した天才スラッガー谷沢健一の現役時代の活躍を中心に紹介していきたいと思います。
早大卒業後、ドラフト1位で中日に入団
谷沢健一は1947年に千葉県で生まれ、千葉県で少年時代を過ごし、習志野高校に入学しました。甲子園出場はならなかったものの高い打撃技術を持つ左バッターとして高く評価され、ドラフト4位で阪急に指名されましたが、これを拒否し、一般入試で早稲田大学第二文学部に進学しました。その後、早稲田大学野球部に入部した谷沢は東京六大学野球リーグでは2回の優勝を経験。大学通算で打率3割6分、本塁打18本を記録し、天才スラッガーとしてその名をほしいままにしました。
そして1969年ドラフト1位で中日ドラゴンズに指名され入団、以後、17年間の現役生活をドラゴンズ一筋で送りました。
東京六大学野球で輝かしい成績を残し、ドラフト1位で中日ドラゴンズへ
プロ一年目から活躍して新人王を受賞
谷沢健一はプロ入り一年目、1970年の開幕試合、7番レフトで先発出場し、第一打席にセンター前ヒットを放ちました。そしてそのままレギュラーを確保し126試合に出場、天才スラッガーという前評判にたがわぬ活躍を見せ、1年目のシーズンで打率2割5分1厘、本塁打数11、打点45を記録し、新人王のタイトルを獲得しました。
2年目以降、谷沢はさらなる活躍を見せ、毎年、コンスタントに3割近く打ち、アベレージヒッターとしての地位を着実に築き上げていきます。
入団7年目で首位打者のタイトルを獲得
プロ野球の階段を順調に上っていった谷沢健一、1976年のシーズンでいよいよ頂点に立ちます。谷沢はこの年、読売巨人軍・張本勲とのし烈な首位打者争いを演じます。先に張本勲は3割5分4厘7毛という成績で全日程を終え、最終戦前の時点で谷沢健一の打率は3割5分1厘6毛。そして迎えた最終戦、谷沢は4打数3安打を放ち、3割5分4厘8毛となり、一毛差で首位打者の座をつかみ取ったのです。
アキレス腱痛に悩まされ続けた現役生活
首位打者を取った翌年の1977年も3割以上の成績を残し大活躍した谷沢ですが、実は大学時代からずっとアキレス腱痛に悩まされてきました。これはアキレス腱のそばにある小さな軟骨が神経にぶつかることで起こる痛みで、当時は治療法がなかったので痛みが激しいときは痛み止めの注射を打ちながら出場していたそうです。
痛みをこらえながら出場してきた谷沢ですが、1978年、プレーが不可能なほどアキレス腱痛が増悪し、ついにシーズン中盤に戦列離脱。それまで入団以来ほぼ毎年フル出場に近い状態でしたが、この年は70試合の出場にとどまります。
シーズンが終わってもアキレス腱のひどい痛みは続き、数々の治療を施しても治まる気配がなく、1979年のシーズンに入りました。谷沢は試合に出るも痛みは激しく代打がやっと。結局この年は11試合しか出場できず、打席に立ったのはたった13回。本人はもちろん、それまで谷沢の活躍に熱狂してきた中日ファンにとってもショックで残念な年になりました。
「酒マッサージ」でアキレス腱痛を克服、2度目の首位打者に
慢性的なアキレス腱痛に対する有効な治療を長らく求め喘ぎ続けていた谷沢。そんな谷沢を見かねた熱烈なドラゴンズファンが小山田秀雄というマッサージ師を紹介します。彼は日本酒をマッサージオイルのように患部に塗布して施術を行う酒マッサージの創始者で、谷沢は小山田の施術を受けることで何とか試合に出られるくらいまで痛みを和らげることに成功しました。
そして野球ができる喜びを噛みしめながら120試合に出場した1980年、谷沢は3割6分9厘という高打率を記録し、2度目の首位打者とカムバック賞を獲得したのです。
谷沢はその後もレギュラーとして出場を続け、1981年から引退する1986年までの6シーズンで3割を超す成績を残しました。1985年には2000本安打も達成しました。そしてこの活躍の裏には小山田の酒マッサージがあったことを谷沢自身が開設しているYouTubeでも述懐しています。
現役引退後は知性あふれるキャラクターを活かし多方面で活躍
谷沢健一は1970年から1986年までの17シーズンを中日ドラゴンズ一筋でプレーし、通算2062安打、273本塁打、打率3割2厘という輝かしい成績を残しました。
研究熱心で知性豊かなパーソナリティの持ち主であるため、現役引退後は野球評論家としてテレビやラジオで活躍しました。その語り口は渋味がありながらも優しく落ち着いており、話す内容はわかりやすく受け手に心地よさを与えるので、今もなおテレビ、ラジオ、新聞で引っ張りだこです。
また、谷沢健一は野球指導者としてはプロアマの垣根を越えて活躍していることも特筆すべき点でしょう。西武ライオンズでの打撃コーチというキャリアの他に、西多摩倶楽部という社会人野球クラブの監督に就任したり、谷沢野球コミュニティ千葉の理事長を務めたりして、野球というスポーツの裾野を広げる活動にも注力しています。
谷沢健一が設立、谷沢野球コミュニティ柏
選ばれし猛者たちが集うプロ野球界において、細身の身体で痛みと共存しながらも卓越した成績を残した谷沢健一。「人一倍旺盛な研究心」と良いものを積極的に取り入れようとする「進取の精神」を持ち合わせる彼だからこそそれができたのです。そして、その培ってきた自身の経験を、彼は「野球の伝道師」として今後もさまざまな人に知らしめていくことでしょう。
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