はじめに
1960年代から国鉄が無煙化政策を打ち出し、日本全国からSL(蒸気機関車)が廃車となっていきました。
このことにより、鉄道ファンはもとより、多くの人が日本から消えてゆくSLを追いかけ、別れを惜しんだというのがSLブームです。
このブームの期間は、1965年からSL全廃の1975年までの約10年間とされています。
このことにより、鉄道ファンはもとより、多くの人が日本から消えてゆくSLを追いかけ、別れを惜しんだというのがSLブームです。
このブームの期間は、1965年からSL全廃の1975年までの約10年間とされています。
鉄道ファンの裾野を広げた
このSLブームでは、日本の経済成長に伴い、カメラや録音機材が一般に普及したことも大きく影響し、SLを写真に収める者や線路脇から車両の音を録音する者、実際にSLに乗る者など、SLの見た目以外の鉄道ファンも増えたのでした。
そんな中、岡山県の伯備線・布原信号場(現・布原駅)や北海道の函館本線・上目名駅(現・廃駅)は有名撮影地となっており、伯備線・布原信号場では1972年までD51形3両で貨物列車を牽引する蒸気三重連の撮影名所となりました。函館本線・上目名駅は当時から鉄道でのアクセスが良く、お目当てのSLを撮影する名所となっていました。
伯備線は現在でも鉄道ファンの撮影名所であり、秋の紅葉の時期は多くのファンが訪れています。
そんな中、岡山県の伯備線・布原信号場(現・布原駅)や北海道の函館本線・上目名駅(現・廃駅)は有名撮影地となっており、伯備線・布原信号場では1972年までD51形3両で貨物列車を牽引する蒸気三重連の撮影名所となりました。函館本線・上目名駅は当時から鉄道でのアクセスが良く、お目当てのSLを撮影する名所となっていました。
伯備線は現在でも鉄道ファンの撮影名所であり、秋の紅葉の時期は多くのファンが訪れています。
via ja.wikipedia.org
動力近代化計画と無煙化計画
1959年に答申された「動力近代化計画」には、「昭和35年度から50年度までに主要線区5,000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行い、蒸気機関車の運転を全廃すべきである。そして、投資額は電化施設955億円、車両関連施設その他765億円(電化費338億円、ディーゼル化費427億円)、車両3145億円(電化費1420億円、ディーゼル化費427億円)で合計4865億円としている」とありました。
この背景には、151系や101系に代表される1957年(昭和32年)以降の新性能電車の登場や、液体式変速機の実用化で1953年(昭和28年)のキハ10系以降、長大編成運転可能となった気動車の台頭などが挙げられます。
この背景には、151系や101系に代表される1957年(昭和32年)以降の新性能電車の登場や、液体式変速機の実用化で1953年(昭和28年)のキハ10系以降、長大編成運転可能となった気動車の台頭などが挙げられます。
via ja.wikipedia.org
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この動力近代化計画に伴い、国鉄の無煙化計画は、明治・大正時代に製造された古参の機関車と幹線用の大型機関車、次いで地方線区と支線区の中・小型機関車を電車やディーゼル車に置き換えていったのでした。
特に東海道・山陽本線は新幹線開業に伴い電化は早期に進められました。両線で使用されていた大型機関車の一部は、呉線・函館本線などの非電化の幹線に転用されたり、軽軸重化改装を施されて他の路線に転用されたりしましたが、小回りが利く小型機関車もDD16形などに代表される軽量ディーゼル機関車の登場により、存在価値を失っていったのでした。
構内入換用の蒸気機関車は後継機の開発が上手くいなかったので、後年まで生き残っていましたが、1970年代に入ってDE10形などの入換用のディーゼル機関車が登場すると、次々と置き換えられていきました。
特に東海道・山陽本線は新幹線開業に伴い電化は早期に進められました。両線で使用されていた大型機関車の一部は、呉線・函館本線などの非電化の幹線に転用されたり、軽軸重化改装を施されて他の路線に転用されたりしましたが、小回りが利く小型機関車もDD16形などに代表される軽量ディーゼル機関車の登場により、存在価値を失っていったのでした。
構内入換用の蒸気機関車は後継機の開発が上手くいなかったので、後年まで生き残っていましたが、1970年代に入ってDE10形などの入換用のディーゼル機関車が登場すると、次々と置き換えられていきました。
実用機関車とSLブームの終焉
SLブーム最盛期の1972年に「鉄道100年記念」として京都に梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)が開館しています。これはブームに乗ってということではなく、産業遺産の保存にと建設されたものですが、SLブームを連想させる建物の一つとして挙げられますね。
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SLの運行末期となる1973年に、小海線(山梨県から長野県を結ぶ路線)にてファンの熱意に答えた形で、国鉄がC56形の旅客列車を復活運転しました。
ですが無煙化計画は進み、SLは1974年11月に本州から、1975年3月に九州から相次いで姿を消し、1975年12月14日「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57 135による室蘭本線室蘭 - 岩見沢間の225列車が運行されたの最後に、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消しました。
その後、入替え作業車両などの旅客以外のC57形・D51形・9600形は残りましたが、1975年12月24日に夕張線(北海道)をD51 241による石炭列車が運行されたのち消滅し、1976年3月2日に9600形による入換え作業を最後に国鉄から姿を消し、ブームも終焉を迎えたのでした。
ですが無煙化計画は進み、SLは1974年11月に本州から、1975年3月に九州から相次いで姿を消し、1975年12月14日「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57 135による室蘭本線室蘭 - 岩見沢間の225列車が運行されたの最後に、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消しました。
その後、入替え作業車両などの旅客以外のC57形・D51形・9600形は残りましたが、1975年12月24日に夕張線(北海道)をD51 241による石炭列車が運行されたのち消滅し、1976年3月2日に9600形による入換え作業を最後に国鉄から姿を消し、ブームも終焉を迎えたのでした。
知ってましか?最新国産SL
日本では通常営業しているSLは消滅していますが、実は消滅後に日本製のSLが誕生しているのです。
それは、1983年に開園した東京ディズニーランドのアトラクションである「ウエスタンリバー鉄道」の1Bテンダー機関車両です。燃料は重油専燃ですが、協三工業が製造しました。テーマパークのアトラクションですが、本物の蒸気機関車です。
それは、1983年に開園した東京ディズニーランドのアトラクションである「ウエスタンリバー鉄道」の1Bテンダー機関車両です。燃料は重油専燃ですが、協三工業が製造しました。テーマパークのアトラクションですが、本物の蒸気機関車です。
via www.amazon.co.jp
SLの保存と観光SLの活躍
鉄道に全く興味のなかった者までSLを追いかけるようになったSLブーム。こうしたことにより、消滅するSLを保存しようという動きが生まれ、これに先駆けて行動を起こしたのが大井川鉄道(現:大井川鐡道)です。1970年8月にはSLの動態保存運転を開始しています。
via ja.wikipedia.org