斉藤仁  エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。
2021年11月23日 更新

斉藤仁 エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。

まるで北斗の拳だ。天は2人の天才を同時代に送り出し、まるでラオウとトキのように、斉藤仁は山下泰裕を超えることに人生をかけた。

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打倒!山下に燃える斉藤仁は、全柔連の合宿などで一緒になると、進んでその胸を借り、乱取りになると離さなかった。
「イヤでした。
やればやるほどこちらの技がかからなくなるんです。
とあまりメリットがない山下泰裕は、最初は斎藤仁から離れた場所で練習するなどして逃げたが、どこまでも追ってくるので
「もう来るな」
とばかりにあえて大勢の前で投げて恥をかかせた。
しかし斉藤仁は何度も
「お願いします」
と頭を下げてぶつかっていき、練習後のトレーニングでも山下泰裕と競い争った。
闘志むき出しで迫ってくる後輩に、「まだ負けるわけにはいかない」と山下泰裕もヒートアップ。
燃えるように練習に打ち込んだ。
そして翌年の1983年の全日本選手権でも再び斎藤仁の挑戦を退け、7連覇を達成した。

The Genius of Judo - Hitoshi Saito【斉藤 仁】

1984年4月、全日本選手権決勝で斎藤仁は8連覇を狙う山下康裕と4度目の対決し判定負け。
直後、東海大学湘南キャンパスで行われた全日本の合宿に2人は一緒に参加。
ハードな稽古の後、合宿で出された食事だけでは物足りない山下泰裕は、斎藤仁を誘って行きつけの寿司屋にいった。
そして1時間、寿司、焼き鳥、ウナギのかば焼き、天ぷら、ビールも大ジョッキでたいらげながら、真剣に柔道について語り合った。
畳の上では敵だが、降りればお互いを信頼し尊敬し合う、よき先輩後輩の関係だった。
8月、23歳の斉藤仁は95kg級、山下康裕が無差別級に日本代表としてロサンゼルスオリンピックに参加。
斉藤仁は柔道競技の7日目、山下康裕は最終日が出番だった。
日本は初日と2日目に金メダルを獲ったが、その後、4日間は銅メダル1つ。
そして7日目、斉藤仁は試合に行くまでに山下康裕の部屋を訪ね
「先輩、行ってきます。
勝ってきます」
練習の準備をしていた山下も
「頼んだぞ」
と応じ、2人はガッチリ握手。
山下康裕が無差別級にエントリーしたため、多くの強豪外国人が95kg級で出ていた。
しかし斉藤仁は準決勝までALL1本勝ち。
決勝は判定になったが、前大会王者、アンジェロ・パリジに圧倒的な強さで勝利し、金メダル獲得。
試合後、まず山下康裕のところにいき
「先輩、勝ちました」
と報告した。

山下泰裕   (84`ロサンゼルス五輪)

そして最終日、無差別級の山下泰裕が登場。
1回戦、27秒で1本勝ち。
2回戦、相手の背負い投げを潰し寝技で1本勝ちしたが、内股をかけたとき右ふくらはぎが肉離れを起こし、足をひきずって畳を降りた。
準決勝、193cmのデルコロンボ(フランス)に大外刈りで「効果」のポイントをとられた。
「山下が負ける!!」
日本中が思う中が、痛む右足に体重を乗せて大内刈りで「技あり」
そのまま寝技で1本勝ちした。
決勝戦ではモハメド・ラシュワン(エジプト)の払い腰をかわし、崩れた相手を横四方固めで抑え込み。
一瞬のスキを逃さない柔道で、でに勝って金メダルを獲得。
劇的なドラマに人々は感動。
斉藤仁の強さと活躍はあまり注目されなかった。
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誰もが『右足の大ケガした山下は金メダルを花道に引退するだろう』と思っていたが、山下泰裕は
「ロスで勝って引退するのは勝ち逃げのような気がしました。
彼(斎藤仁)がずっと打倒、山下で一生懸命努力してきたのはわかってましたから・・・
とにかくもう1回全日本選手権に出て斎藤選手の挑戦を受ける
それが自分の最後の戦いだと・・」
と現役を続行。
斎藤仁は最後のチャンスに燃えた。
山下泰裕を研究し、得意技である大外刈りをかけるときに軸足が倒れるのを発見。
左足を振り上げて踏み込むとき、軸足となる右足が大きく傾き不安定になっていて、この軸足に向かって全体重を浴びせ倒す「大外返し」で勝負するという作戦を立てた。
山下泰裕のパワーを想定し、2人がかりで大外刈りをかけさせ、それを返す練習を繰り返した。
失敗すると2人にのしかかられて投げられ、斎藤仁は何度も脳震盪を起こした。
一方の山下泰裕は、オリンピック後、お祝いやあいさつ回り、イベント、講演会、取材、テレビ出演などで、ケガの治療とトレーニングに専念できず、試合4ヵ月前から練習を再開。
しかし調子は全く上がらない。
それは稽古相手を務めた東海大学柔道部員は
「山下先生は棄権して引退するんじゃないか」
と思うほどだったが、
3週間前くらいからようやく調子が上がっていき、なんとか戦える状態になって当日を迎えた。

JUDO DOCUMENTARY: Excellent Game of Heroes: Yamashita 山下泰裕 vs Saito 斎藤 仁

1985年4月、全日本選手権の決勝戦で2人は再び対戦。
斎藤仁は、これまで相手の肘の下の袖を握っていた右手(引き手)を、山下泰裕のわきの下を持って突いた。
そしてニヤッと笑った。
「山下先輩との試合では投げられないでチャンスを活かそうと思ったけど、そのチャンスが出てこない。
投げられないということは防御の間合いということ。
山下先輩は常に投げようという攻めの間合いで、俺は防御の間合い。
攻めの間合いにはどうしてもなれなかった。
それが最後の試合で自分の攻撃の間合いになれた。
なんかそれが嬉しくて嬉しくて、ニヤッと笑ったんですよ。
自分の攻撃の間合いになって「おー、攻めれるじゃん!」って」
斉藤仁は、大内刈とか大外刈と攻めた。
山下泰裕は攻めあぐねながらも、一瞬のスキをうかがっていながらアクションをとり続けた。
「それまでは攻撃の間合いでしかこなかった山下先輩がちょっと防御の間合いになった。
そしたらまた入れなくなったわけよ。
それでしょうがないから奥襟を切って、「大外来い、大外来い」って誘った」
斎藤仁はひたすら大外刈りを待った。
その瞬間は4分過ぎに訪れた。
山下康裕が大外刈のフェイントから支釣込足。
大外刈りがきたと思った斉藤仁は大外返し。
結果、斉藤仁が巻き込みながら浴びせ倒すような形で、山下康裕は背中から畳に倒れた。
「来たっと思って前にガーンと出て、足が掛かんないなと思ったらドーンと倒れていた」
(斉藤仁)
審判は、山下泰裕の転倒をスリップとみなし、ポイントをとらず
寝技に入っていた2人に
「待て」
をかけた。
ポイントこそなかったが、この時点で斎藤仁が圧倒的に有利になった。
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斎藤仁は、ここで主審にタイムを要求。
倒れこんだときに痛めた右膝をドクターにチェックしてもらったが、おそらく本当の目的は、浮かれすぎないように自分を落ち着かせることだった。
一方、この時間に山下泰裕は気持ちを立て直した。
「今の流れと仁ちゃんの圧力では、俺はどうやっても投げることはできないだろう。
勝つための唯一の策はとにかく攻めて攻めて仁ちゃんを精神的にプレッシャーを与えて追い込むことだ。
そうすればミスするかもしれないし、チャンスが生まれるかもしれない」
再開後、山下泰裕の動きが変わった。
物凄い形相で技を出し続けた。
斉藤仁は「勝ちたい」という気持ちが逆に守勢をとらせ、技が出ない、いや出せない。
試合終了と同時に斉藤仁はガッツポーズ。
しかし判定は判定は主審が斉藤、副審2名が山下。
山下康裕がこの大会9連覇を達成。
非常に微妙な判定であったことを認めつつ、
「タイムをとったことは彼(斎藤仁)の過ちだった」
といっている。
一方、斉藤仁は

1979年、全日本学生選手権
1981年、日本国際大会
1982年、全日本体重別選手権
1982年、嘉納杯
1983年、全日本選手権
1983年、全日本体重別選手権
1984年、全日本選手権
1985年、全日本選手権

と山下泰裕と8戦8敗で1度も勝てなかった。

JUDO 1985 World Championships: Hitoshi Saito 斉藤 仁 (JPN) - Yong-Chul Cho (KOR)

オリンピック、世界選手権、全日本選手権、この3大大会で優勝することをグランドスラムと呼ぶ。
ロスオリンピックが終わった時点でグランドスラム達成者は猪熊功、岡野功、上村春樹、山下康裕の4人のみ。
斉藤仁は、オリンピック、世界選手権と世界の頂点に立ちながら、全日本選手権ではずっと2位。
ずっと
「俺はエベレストには登ったけど、富士山はまだだ」
と思っていた。
山下泰裕の引退後は、それもすぐに果たされ、斉藤仁の時代が来るはずだった。
しかし1985年9月、ソウルで開催された世界選手権の決勝戦で地元・韓国の趙容徹と対戦。
試合開始早々、趙容徹が立った姿勢からいきなり腕挫腋固。
斉藤仁は左腕の肘を脱臼。
どうみても反則技だったが、審判は試合続行不可能となった斉藤仁の棄権負けとした。
山下泰裕コーチをはじめ日本代表の首脳陣は抗議したが認められなかった。
(斉藤仁は、翌日の無差別級も欠場し、代わりに出た正木嘉美が優勝)
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この後、ケガが回復すると左腕は細くなってしまい、肘にチューブを巻いて保護しながら練習。
翌1986年4月の全日本選手権では準決勝で正木嘉美に判定負け。
1987年の同大会では、試合1ヶ月前の練習で軸足となる右脚の膝を捻って十字靭帯および外側靭帯の断裂、半月板損傷という大ケガ。
試合を棄権し手術を受けて、リハビリ生活に入った。
翌年のソウルオリンピック出場が危なくなってしまった斉藤仁は、自暴自棄になってしまい
「周囲から見たら不快な患者だったのではないか」
という。
しかし老人が不自由な懸命に動かそうとしている姿をみてハッとなった。
「リハビリ病院でおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にリハビリして、絶対に生きるんだという執念を見せてもらってね。
あれで俺は這い上がれたと思います。
俺はなんてちっぽけなことで悩んでいるんだろうって。
手術して、その病院に行ったときは「俺はもう終わった」って、諦めながらリハビリしていたんです。
そしたら、俺の近くで、自力で必死にリハビリしていたおじさんがあるとき「斎藤さん、ここまで動くようになった」というわけよ。
「やればできるんだ」って。
「斎藤さんも頑張ってくんなよ、俺たちも頑張るから」っていわれて初めてハッと気がついた。
俺は膝と肘しか悪くないし、松葉杖はついているけど、ピンピンしている。
そのときトンカチかなんかで、ガーンと頭を叩かれるような衝撃を受けたんですよ。
それで初めて、学療法士の先生が汗をダラダラかきながら無理やり硬直した身体を引き裂くようなリハビリをしている様子が目に入ってきて、音、悲鳴というのが聞こえてきた。それまで、俺の目には全然周囲は映らなかったんですよね。
あの出来事がなかったら、俺はここまで頑張れなかったと思う」
その後は懸命にリハビリに取り組んだ。
それでも右脚は左脚よりも10cmも細くなった。
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26歳で独身の斉藤仁は金メダリストでありながら国士舘大学の近くのアパートに住んでいた。
リハビリトレーニングに通う日々は、身体だけでなく精神的にも辛く、夜はよく飲みにいった。
飲むととにかく明るくなって店で逆立ちで歩いて
「サーカスの熊みたい」
と盛り上げた。
「格闘技にはリズム感が大事だ」
とディスコでダンス!
焼き鳥店に行くとメニューをみながら
「ここからここまで」
と頼み、それを数回繰り返し、信じられない量を食べた。
金メダリストサービスがあって数千円ですむこともあったが、毎晩飲み歩いた結果
「ロスオリンピックのときにあった貯金は全部なくなった」
という。
飲み友達が部屋に泊まることもあったが大きなイビキのために朝起きたらいなくなっていたという。

斉藤仁 vs 正木嘉美、斉藤が初の日本一で男泣き(全日本柔道選手権1988)

1988年の全日本選手権は、大会3連覇を狙う正木嘉美、前年準優勝の元谷金次郎、世界選手権無差別級王者、まだ学生の小川直也と勢いのある3人が出場していた。
左肘と右膝、2つも大ケガが重なり、年齢的にもベテランの斉藤仁には
「もう斉藤は終わった」
と限界説も囁かれていた。
実際、試合前、ガチガチに緊張し、鬼のような形相をみせて戦った。
元谷金次郎、小川直也が3回戦で敗退し、決勝は斉藤仁 vs 正木嘉美となった。
激しい攻防となったが、斉藤仁は気迫の攻めをみせ判定勝ち。
山下泰裕が引退してから3年、27歳、7度目の挑戦で悲願の全日本選手権初制覇。
そしてグランドスラム達成。
その後、全日本選抜体重別でも小川直也を破り優勝した。
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