駒澤大学から、1975年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。このとき1位は篠塚和典、5位は山本功児でした。4年目の1979年、高田繁から三塁のレギュラーを奪いスタメンに定着するが、1981年に同じ三塁手の原辰徳が入団したため一塁手にコンバートされました
以降、原辰徳やウォーレン・クロマティとともに中軸打者として活躍。典型的な中距離打者で打撃タイトルには縁が無かったが、毎年安定して3割前後の打率を残しました。一塁守備でも7年連続ゴールデングラブ賞を受賞。日本プロ野球選手会の初代会長も務めた人です。
巨人時代はいつも原辰徳、クロマティ選手達とスタメンで野球人の私はナイターを見ていると絶好調な中畑清の元気いっぱいのプレーに勇気つけられたものでした!
絶好調ーー!!を世に流行らせ ゴールデングラブ賞7回の中畑清
中畑 清
出身地 福島県西白河郡矢吹町
生年月日 1954年1月6日(61歳)
身長
体重 185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手、三塁手
プロ入り 1975年 ドラフト3位
初出場 1977年7月17日
最終出場 1989年10月29日
生年月日 1954年1月6日(61歳)
身長
体重 185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手、三塁手
プロ入り 1975年 ドラフト3位
初出場 1977年7月17日
最終出場 1989年10月29日
常に絶好調な安定成績!!
via sharp78.com
中畑清の現役時代の成績は!
・1975年 (21歳) ドラフト3位 (読売ジャイアンツ)
・1976年 (22歳) 率.000 本0 点0
・1977年 (23歳) 率.400 本0 点0
・1978年 (24歳) 率.333 本0 点1
・1979年 (25歳) 率.294 本12 点45
・1980年 (26歳) 率.268 本22 点57
・1981年 (27歳) 率.322 本16 点66
・1982年 (28歳) 率.267 本25 点78
・1983年 (29歳) 率.300 本15 点68
・1984年 (30歳) 率.294 本31 点83
・1985年 (31歳) 率.294 本18 点62
・1986年 (32歳) 率.273 本14 点69
・1987年 (33歳) 率.321 本6 点40
・1988年 (34歳) 率.295 本10 点46
・1989年 (35歳) 率.221 本2 点6
*通算成績 1248試合 1294安打 率.290 本171 点621
*主な表彰:ゴールデングラブ賞7回 (1982年~1988年)
毎年安定した素晴らしい成績ですね、目立ったホームランなどなかったもののいい場面での堅実なプレーが印象的ですね。
プレースタイルは?
その当時の巨人軍は江川卓、原辰徳、クロマティや駒田徳広など有名選手が数多く在籍し毎日のナイター試合を観るのがとても待ち遠しかったですね。中畑清のチャンスに強い打撃もいい場面でのエラーもwキャラもとても好きでした。グールデングラブ賞7年連続受賞はとても価値のあるそして守備が上手な証ですね。
中畑清 現役時代のバッティング&ハッスルプレー集! [元・横浜DeNAベイスターズ監督] - YouTube
中畑清氏の現役時代のプレー集です。ホームランを集めたバッティング集、守備走塁のハッスルプレー、そしてインタビューまで。現役の時から今と変わらない、明るく元...
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中畑清応援歌!!
G 読売ジャイアンツ[巨人] 24 中畑 清 応援歌 - YouTube
【読売ジャイアンツ・東京読売巨人軍】 オールドファンのみなさまお楽しみください。懐かしい!!
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有名なエピソード
一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その一方で、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられたこともあった。勇者のスタジアムの2000年年末スペシャルで江川と中畑が共演した際に中畑がこの件に触れ、江川が「牽制球取れないんだもん」とコメントすると「取れるかそんなもん!!!!」と声を荒げて言い返している。結果、その時のランナーは三塁まで進んでしまったと江川のコメントより。
面白すぎますね、わざとではないにしろタイミングが神がかってます。w
現役引退後は?
via sub.hamaspo.com
引退後は日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポンの野球解説者、評論家を経て、1993年から巨人の監督に復帰した長嶋監督の下で打撃コーチに就任。
しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、また駒田の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執がその原因として取り沙汰されるなど[7]、コーチとしての評価は低かった。翌1994年は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。チームはリーグ優勝・日本一になったが同年オフに退団。その後は再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家となり、日本テレビでスポーツニュースのキャスターも務めた。
2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチを務め、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執った[8]。本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため正式に監督に就任し[9]、銅メダルを獲得した。同オフ、巨人から助監督を要請されたが固辞した。
そして選挙への挑戦!!
選挙への挑戦は議席が足りなくて落選してしまうがのちに落選して良かったとコメントしており当選してしまったら震災の後に自由に故郷を訪れる事が出来なくなっていただろうからともコメントしています。
第22回参議院議員通常選挙・第二次公認候補者 中畑清 / たちあがれ日本 - YouTube
5月11日 参議院選・第二次公認候補者 中畑清 / たちあがれ日本
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