極真分裂.03 他流試合
2020年11月4日 更新

極真分裂.03 他流試合

大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。

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1997年4月20日、第1回世界ウエイト制大会が開かれた。
旧ソ連圏、ヨーロッパ、東アジア、中東・東南アジア、アフリカ、オセアニア、北米、南米で、軽量級、中量級、軽重量級、重量級の4階級で予選が行われ、勝ち抜いた選手たちが両国国技館に集った。
フランシスコ・フィリョは重量級で優勝。
2位は、グラウべ・フェイトーザだった。
「世界ウエイト制大会は、ランキング制の導入を考えています。
今回の第1回大会で初代のランキングが決まります。
大会自体は4年に1度のスパンで行いますが、毎年1回、ランキング1位の選手と挑戦者によるタイトル戦を開催する構想もあります。
どのように挑戦者を選ぶのかなど課題はありますが、タイトル戦はワンマッチで行います」
大会後、松井章圭はそういったが、その後、特別試合やエキシビジョンなどワンマッチは行われたが、ランキング制やタイトル戦は行われなかった。
体重無差別トーナメントである世界大会の優勝者と世界ウエイト制ランキング1位はどちらが真のチャンピオンなのか?
最強の意義や極真のヒエラキーが崩れることを懸念したためだった。
もしそれらが実現できば、極真のプロ部門の創設、プロ極真ができたかもしれないが、それは叶わずK-1など格闘技イベントに参戦することによる選手個人のプロ化が進んだ。
同日(1997年4月20日)、大山派、実質、支部長協議会派が、東京都文京区の護国寺で大山倍達の4回忌法要を行った。
1997年7月、黒澤浩樹に試合のオファーが入った。
3ヵ月後、東京ドームでヒクソン・グレイシーと高田延彦の試合が行われる格闘技イベント、「PRIDE1」への参戦を求められた。
完全燃焼できなかった世界大会。
変わっていく極真空手。
そして何より自分の力を信じて絶対に退かず前進する、未知の領域に果敢にチャレンジするという自分のスタイル。
「PRIDE1」は、格闘技を志す後輩にとって非常に有益なものに思えること。
さまざまな思いから、黒澤浩樹はこれを受けた。
しかし「PRIDE1」へ参戦すること、またKRS(格闘技レボリューション・スピリット、PRIDEの主催団体)と関りを持つことに松井章圭は反対した。
2人は激しく口論した。
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1997年5月、鈴木国博(大山派所属)は地元のチンピラ2人にケンカを売られた。
手を出さないように対応していたが
「空手の師範?
んじゃお前の道場連れてけ!」
といわれ刺激しないように、2人を深夜誰もいない「国際空手道連盟極真会館 神奈川厚木道場」に連れて行った。
すると2人はいきなり道場においてあった鉄アレイを手にして鈴木国博に殴りかかった。
鈴木国博は、防御に勤めていたが、いつまで経っても収まらないので相手の腹部に正拳突きや回し蹴り。
2人の相手の内臓は破裂。
胃の2/3と十二指腸切除を余儀なくされた。
ことの流れを聞く限り、いたし方がないと思われるところもあるが、鈴木国博は逮捕された。

K-1 アンディフグvsフィリオ  空手対決  格闘技

1997年7月20日、レーザー光線が飛び交うナゴヤドームの花道を、白い空手着をまとい両手にグローブをはめた2人の空手家が入場した。
極真空手の道着に黄色と緑のブラジルカラーのキックパンツのフランシスコ・フィリョ。
正道会館の道着に赤と白のスイスカラーのキックパンツのアンディ・フグ。
極真の世界大会での因縁に、いつも以上に緊張感を漂わせたアンディ・フグは、少し硬い動きで顔面パンチを見舞おうと間合いを詰めていった。
そして1R2分37秒、フランシスコ・フィリョの放ったフックで沈んだ。
極真空手時代と同じ負け方だった。
その後、フランシスコ・フィリョは、KO勝利を続け「一撃」ブームを巻き起こした。
「いつの時代も新たな挑戦に批判はつきもの」
と分裂騒動にも負けず組織改革を進め、K-1と連携した松井章圭は多くの支持を得た。
極真会館は勢いを増した。
この後、松井章圭は、自派の記事の扱いや大山派の記事の掲載についてクレームを入れたり取材を拒否するなど。マスコミに対する強硬な姿勢が目立ち始めた。
「K-1との関係が密接になっていくに従い松井派極真会館の知名度も急上昇しました。
遺言書の棄却、総本部返還、2代目の正当性の崩壊は陰に隠れてしまいました。
この頃から松井君は急激に変わっていった。
彼の強権的な態度に支部長たちは怯え、いつしか松井君は独裁者になってしまった」
(盧山初雄)
「あの頃の松井さんは裸の王様」
(山田英司)
「もう少しマスコミや後援者など周囲の人に気遣いがあれば、松井さんはもっと大きくなれるのに・・・と感じるようになったのが1999年、フィリョがK-1に出てフジテレビとの関係が強くなったころからです」
(北之口太、「一撃の拳」著者)

Pride 1 HIroki Kurosawa vs Igor Meindert

1997年9月、「PRIDE1」まで、1ヵ月を切っても対戦相手もルールも決まらず、黒澤浩樹は焦った。
総合格闘技対策として東海大学のレスリング部へ出稽古したが、具体的な相手もルールもわからないため、にわか仕込みの感が否めなかった。
やがて対戦相手は決まった。
イゴール・メインダート。
しかしその容姿や格闘技歴は不明だった。
黒澤浩樹は、試合が決まれば、それに向けてトレーニングを積み、様々な場面を想定した稽古を行ってきた。
アバウトな形で試合に出ていくことはなかった。
「こんなんじゃできない」
焦って、夜中、1人道場にいき受け身の練習をして、逆に首を痛めた。
試合2日前、ルールミーティングで初めてイゴール・メインダートと会った。
203cm、130㎏の巨体を見上げたとき、首が痛くて仕方なかった。
ルールミーティングを終え、帰ろうとしたときKRSのスタッフがいった。
「黒澤さん。
リングのRの文字のところで戦えば倒されてもすぐにロープへ逃げられるから、常にRの上で戦ってください」
ロープブレイクありのルールのため、
立ち技主体の黒澤浩樹はリングの端のほうで戦えば、倒されても、すぐにロープにふれることができる。
そしてレフリーのブレイクがかかり、苦手な寝技は止められ、再度立ち上がって戦い直すことができる。
そういうアドバイスだった。
しかし純粋な極真空手家には、この言葉はそう思えなかった。
(この人は何をいっているんだ。
俺はそんなレベルの戦いに出ていかなければならないのか)
同日、松井章圭から電話があった。
「黒澤君、どうなってるの?」
「どうもこうも2日後に試合をします」
1997年10月11日、突然、黒澤浩樹が、総合格闘技「PRIDE」のリングに上がった。
東京ドームで行われた「PRIDE1」は、高田延彦とヒクソン・グレイシー戦がメインだったが、黒澤浩樹が総合格闘技のリングに上がったことはそれ以上のインパクトがあった。
はたしてあのローキックは通用するのか?
かつて大山倍達はいった。
「世界で1番強い格闘技は空手。
その空手の中で1番強いのは極真だ」
リングに向かう黒澤浩樹の道着には「極真」の文字があった。
しかし松井章圭も山田雅稔も観に来ていなかった。
試合は、3分×5R。
基本的には総合格闘技ルールだが、顔面パンチなし、ロープブレイクありという変則ルール。
1R、黒澤浩樹は、イゴール・メインダートの投げ技をこらえようと踏ん張ったときに
「ブチッ」
という音がして右膝十字靱帯を断裂。
前十字靱帯は、膝の過伸展を抑制する靱帯。
このとき黒澤浩樹の膝は180°以上の伸びて靱帯が切れたと思われる。
黒澤浩樹は戦い続けたが、右膝が壊れたことで本来のアグレッシブでパワフルな攻撃が出ない。
戦い続けていると
「ブチッ」
という音がした。
このままでは右膝の靱帯がすべて切れてしまうかもしれない。
しかし黒澤浩樹が思ったことは、ただ
「やめない」
3R1分26秒にレフリーが試合を止めたのは妥当な判断だった。
TKO負けとなった黒澤浩樹は、自力で一歩も歩けず、両肩を抱えられ花道から控室へ移動。
「これが現実だったのか」
やり切れぬ思いと激痛だけがあった。
全試合終了後、松葉杖をついてリングに上がって挨拶。
それが済むとすぐに自衛隊病院へ直行。
レントゲン撮影して膝を固定してから帰宅。
松葉杖をつきながらトイレに行ったとき、油断して右足を床につけてしまった。
「グチャッ」
固定したばかりの膝が崩れ、倒れそうになった。
それだけで気持ちが悪くなり貧血を起こし、気がつくとトイレの床に倒れていた。
寝たら最後、動けなかった。
少しでも動こうとすると膝に激痛が走った。
不完全燃焼のまま敗れ大ケガを負った。
「何だったのか」
一晩中自問自答した。
その後、右膝靱帯断裂の手術を受け2ヵ月間、入院。
松井章圭が見舞いに訪れたとき、2人は再び激しく口論した。
黒澤浩樹は病院のベッドの上で極真会館を辞めることを決めた。
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1997年12月、突然、
「医師からの指示で休養の必要があるため、健康上の理由により、国際空手道連盟極真会館環跳を辞任する」
という大山智弥子名義のFaxがマスコミに送られた。
しかし1週間後には
「体調は崩しているが一時的に静養しているだけ」
という訂正のFaxが送られた。
三瓶啓二と大山喜久子(三女)の関係を知ったとき、大山恵喜(次女)は激怒した。
そして三瓶啓二がいる大山派に見切りをつけ、松井派の大会に顔を出すなどこれまでと矛盾する行動も起こした。
それは母親の経済的なことを考えた上でのことと思われる。
このFax騒動には、大山恵喜(次女)と大山喜久子(三女)が母親を引っ張り合いをしたという説、1枚目のFaxは大山恵喜(次女)が、2枚目は大山派が送ったという説がある。
1998年1月、帝国ホテルで松井章圭と黒澤浩樹が会い話し合った。
2人はいいたいことをすべて吐き出し周囲の客が振り返るほど大喧嘩になった。
話は平行線で終わったが最後に互いに気持ちをぶつけ合うことはできた。
黒澤浩樹は翌日、退会届を書いて送った。
その後、中野区に新道場「黒澤道場(現:聖心館)」を開いた。
極真を離れるというのに多くの弟子が黒澤浩樹についていった。
極真は黒澤浩樹にとって青春のすべてだった。
自分のすべてを賭けた。
黒澤浩樹の気持ちは、極真を辞めても
「俺は極真」
だった。
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1998年2月6日、メトロポリタンホテルで
「改めて分裂の真実や今後のことについて話しをしたい」
という大山智弥子に呼びかけにより3年ぶりに支部長協議会派と松井派が会合を持った。
参加者は、
大山智弥子、
大山喜久子(三女)、
西田幸夫、
三瓶啓二、
三好一男、
小林功、
緑健児、
大濱博幸、
松井章圭、
郷田勇三、
盧山初雄、
浜井識安、
山田雅捻、
廣重毅
の14名。
「私はこの現状がよくわからないんですよ。
だけどこのままじゃいけないんじゃないかなと思って。
この数年、体の具合もよくないんです。
神経の使いすぎなんですよ。
だから少し休ませてもらいたいというわがままから、今日は皆さんにお目にかかって、もう1度話し合ったらいいんじゃないかと思ったの。
そんな深い意味はないのよ。
どっちが悪いから謝りなさいとかそういうことではないの」
そういう大山智弥子には
「自分たちは事務長が健康で長生きして楽しい生活を送ってくれればいいんですよ」
「事務局長が納得できるようにしてください」
と気遣いをみせながらも松井派と支部長協議会派派は、数年前同様、話し合いではなく言い合いを始め、分裂騒動の責任を押しつけ合い、極真会館、商標権、大山倍達の墓石建立の権利を主張し合った。
また大山派は
「統一戦というのも面白いと思います」
と提案したが、松井章圭は、まずは組織の問題が先決と拒否した。
「今日は智弥子館長の呼びかけで集まり我々の関係をわかってもらうというのが目的です。
館長、おわかりいただけましたか」
(西田幸夫)
「よくわかりました。
こうしなさい、ああしなさいということは私は絶対にいいませんから。
どうも皆さんありがとうございました」
(大山智弥子)
「ありがとうございました。
押忍」
最後は全員がそろった。
極真を愛している気持ちは同じだった。
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1998年4月18日、、フランス・パリのベルシー総合体育館で極真カラテ・ワールドカップ・パリ大会が開催された。
軽量・中量・軽重量・重量・無差別の5階級、5人1チームの団体戦で、世界8つのエリアで予選が行われ、パリで行われた決勝トーナメントの決勝戦で、日本Aチームとブラジルチームが対戦。
中量級で福田達也がアンデルソン・ダ・シルバに延長1回判定勝ち。  
その延長戦でシルバが掴みの反則で減点1を取られたためブラジルは、-3ポイント。
重量級で高尾正紀がグラウベ・フェイトーザに上段膝蹴りで合わせ1本負けし、日本Aは、-5ポイント。
勝ち数は並んだが、2ポイント勝るブラジルは、引き分けでも優勝という場面で、無差別級の数見肇がセルジオ・コスタに本戦判定勝ち。
日本Aチームが優勝した。
試合後、数見肇ら日本チームは街を歩いた。
そこで海外の支部長たちに出会い、
「ついてこい」
とジェスチャーされレストランに入った。
オゴッてもらえると思った数見肇は腹がはち切れんばかりに食った。
食べ終わり、支部長を探すと彼らはすでに帰ってしまっていた。
お金もない、言葉もわからない数見肇たちは、仕方なく1人、1人とレストランを出た。
パリで食い逃げをした数見肇たちは翌日、松井章圭に怒られた。
1998年4月25日、松井派が総本部道場で、「大山倍達の4年祭」を行った。
外部からの参列者はなく少数で行われた。
4月26日、大山派が、東京都文京区の護国寺で「大山倍達5回忌法要」を行った。
遺族、遺族派、支部長協議会派、真樹日佐夫や杉原正康(白蓮会館館長)、佐藤勝昭なども100名以上が参列。
この中で、大山倍達の墓のお披露目式も行われた。
そして4年経ってやっと建ったお墓に遺骨が納められた。
「この風を起こしたのは誰でしょうか?
今でも瞼を閉じれば総裁の大きな背中が語りかけてきます。
大山総裁の息吹にふれた心を伝える者の1人として責任を感じています。
強さとは何か?
答えはまだ出ていませんが、極真の旗のもとに集う者は1つと信じています。
墓石、記念碑の建立も皆様のご協力の賜物です。
この場所を聖地として1人でも多くの青少年に大山総裁の心を継承して欲しいと思います」
そう挨拶したのは、墓碑建設委員会長となった緑健児だった。
西田幸夫は、資金援助などは協力はするが、基本的に遺族が建てるべきいうスタンスで、あまり積極的ではなく、緑健児が資金集めに奔走した。
松井派は誰も参列していなかったが、三瓶啓二や緑健児は、もし松井章圭が来れば1番後ろに座らす予定だった。
松井章圭は立派な墓を建てたかったが叶わなかった。
「ご遺族の意志が優先されなければならない。
そしてなぜかご遺族は私に遺恨を抱いていらっしゃる。
何度もお墓を建てさせていただきたいと奥様に申し上げても、どういう理由か協議会派から拒否の返事が来る」
 (2233507)

1998年5月26日、大山派が全国支部長会議を開き、人事の改編が行われ、西田幸夫は特別相談役になり、三瓶啓二が新代表になった。

代表:三瓶啓二
副代表:緑健児
専務:大濱博幸
理事:小林功、柳渡聖人、七戸康博

その後、大山倍達の墓の名義が緑健児であることを知った遺族は、墓の名義を遺族に返すよう求めた。
資金はすべて大山派が出していたが、大山喜久子(三女)は
「父の墓を返して!」
と強く主張した。
大山智弥子はそれほどでもなかった。
大山恵喜(次女)もニューヨークでのスキャンダル以降、三瓶啓二と三女に不信感を抱き距離を置いていた。
大山派と親密だった大山喜久子(三女)が豹変した理由は、三瓶啓二だった。
「すべての元凶は三瓶師範だと思います。
喜久子さんとの関係について、あまりにも無責任すぎました。
三瓶師範への幻滅が喜久子さんの意識を変えたのです。
実際、私たち支部長の多くが協議会派を離れたのもそれが大きな理由だったくらいですから・・・」
(増田章)
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1998年11月、商標権を持つ松井章圭が、
「自分の有する極真の商標を使用することは商標権の侵害に当たるので、自分の許可がない限り使用しないように」
と圧力をかけ始めた。
松井派を脱退後も極真の名前で活動している団体や個人と裁判沙汰が増えた。
1998年12月14日、会館に使用に関する問題で、松井章圭が1度も裁判所に出頭しないままの調停は続いていたが、この日も裁判所に松井章圭が現れなかったため
「もはや相手方に調停する意向はないものといわざる得ない」
と遺族側が調停を取り下げた
1998年12月31日、これまでK-1で一撃旋風を巻き起こしてきたフランシスコ・フィリョが、マイク・ベルナルドのパンチでKO負け。
大山派は
「松井は館長を解任されているので正当な極真会館は我々であり、極真空手は敗れていない」
「我々はアマチュア精神に則り、これからも大山総裁の意志である「最強の空手」を受け継いでいく」
と訴えた。
1999年2月17日、
・3月31日までに極真会館を明け渡す
・明け渡しまで、1日4万円を10日間ずつ遺族に支払う
などの条件で遺族と松井章圭の和解が成立。
この裁判を最後に、大山恵喜(次女)は分裂騒動から身を引いてアメリカに帰っていった。
「三瓶さんが大泉の家に居ついている姿は何度もみました。
悪びれる様子もみせず当たり前のように父が着ていたパジャマを着て、父が使っていた茶碗で箸で食べて、父が使っていた茶碗でお茶を飲み、父が使っていた布団で寝ていた。」
挙句に妹を妊娠させて。
取り巻き連中を集めてお酒を飲んでドンチャン騒ぎするし、妹は女房気取りでいるし、母親は何もいわず笑っているし、私は何もかもが嫌になりました。
妹を責める気も母親も責める気もなくなって・・・
ただ三瓶さんの行為だけは許せなかった。
不倫ですよ、不倫。
子供までつくって。
私は絶対に天罰が下ると信じています。
そんなわけで私は父の遺言書とか極真の問題にかかわるのをやめたのです」
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1999年3月6日、松井章圭は、東京都豊島区西池袋2丁目38-1の6階建てのビルを丸ごと借りて「極真会館総本部」を開設。
新会館にはたくさんの花が届いたが、その中に大山智弥子から贈られたものもあった。
1999年3月13日、移転1週間後、数見肇の100人組手が行われた。
新会館は旧会館に比べ道場が狭いため、対戦相手は10人ずつ入れ替わり、それ以外は階下で待機した。
遺言書は棄却され、正式な2代目館長という法的根拠を失い、総本部も返還することを余儀なくされ、それでも松井章圭は強気な姿勢を崩さなかった。
東京都豊島区池袋に「BODY PLANT」が設立。
その名目は貸しスタジオ。
総合格闘技、キックボクシング、中国拳法など格闘技団体が入った。
また松井章圭を実行委員長とする「Kネットワーク」という組織が創設された。
これはプロとアマチュア、団体と団体、さまざまな垣根を超え、選手や技術の交流のためという名目だった。
これらは、K-1、キックボクシング、総合格闘技などに挑戦する極真の選手のサポートや養成を行うためのものでもあった。
「極真からプロのリングに多くの選手を送り出している現状を考えると出場は認めるが後は勝手にやれではあまりに無責任すぎる。
そこでK-1などへの出場を希望する選手に経験や学習を積ませる場をつくろうということでKネットワークは誕生しました」
(松井章圭)
1999年6月、大山派が第13回全日本ウエイト制大会を開催。
遺族派からは支部長も選手も1人の参加もなかった。
1999年8月、大山智弥子が大山派の館長を辞任。
三瓶啓二と大山喜久子(三女)のスキャンダル、墓の名義問題などによって遺族と大山派の信頼関係は崩れた。
「分裂後、支部長協議会派は「松井が館長を続ければ極真はなくなる」と母を口説き、私たちは彼らを「白馬に乗った王子様」のように思った。
だが自分たちの利益を追うばかりで、母に支払うと約束したお金もいろいろな理由をつけて払わなかった。
やがて生活費に困って、練馬に勝った家のローンが払えず、父の預金通帳まで差し押さえられてしまった。
私たちには墓を建てる資金がなかった。
父名義の大口取引があった銀行の通帳は松井さんに管理されていた。
半ばあきらめかけていた墓だが、若手支部長だった緑健児さんが建設計画を熱心に勧めてくれた。
緑さんは母からも信頼され
「僕を実の息子だと思って墓建設をやらせてください。
総裁への恩返しです」
と母を説得した。
墓碑建設委員会をつくり、母を会長に、緑さんは実行委員長に就任した。
全国の支部長に声をかけ、母名義の通帳に寄付を募ってくれた。
だが父の墓は政治的に利用され緑さんの名義に変えられた」
(大山喜久子(三女))
当初、遺族、遺族派、支部長協議会派が一体となって大山派はできた。
それが次々と離散し、結局、三瓶派となった。
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