プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編
2020年11月9日 更新

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆ににも投稿してもらいたいわよ!

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1981年12月8日、新日本プロレス・蔵前国技館での新倉史祐戦でデビュー。豪快な勝利で将来のエースを予感させた。翌1982年初め、協栄ボクシングジムより新日本プロレスへ日本人初のボクシング世界ヘビー級王者を誕生させる計画が持ち込まれ、候補として高野がピックアップされた。その後当時WBA世界ライトフライ級王者だった渡嘉敷勝男とハワイでトレーニングを開始するが、毒入りオレンジ事件の余波でプランは中止。プロレスに復帰後すぐにカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに武者修行に出発。1984年、長州力らの離脱による日本人選手層の薄さをカバーするために帰国。未完の大器という扱いでメインやセミでタッグパートナーとして抜擢され、この当時暗黒増殖団としてはびこっていたマシン軍団との抗争の一派に名を連ねる。また一方でビッグネームの外国人選手との対決も多く組まれたが、対戦成績は芳しくなく、デビッド・シュルツやビリー・ジャックとのシングルマッチでは1分前後で敗退という苦い経験もする。しかし、ブルーザー・ブロディには気に入られており、4度のシングル戦のうち後半2回はブロディの希望だったことを、後に雑誌のインタビューで高野本人が語っている。しかし、生来のムラッ気から試合毎の落差が激しく、マシン軍団との6人タッグマッチでのコーナーポストでの戦意喪失によるKO負けや、あまりのふがいなさにアントニオ猪木がリングに飛んできて活を入れるというシーンまであった。1985年、スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤と共にカルガリーハリケーンズを結成し、新日本プロレスを離脱。以降は全日本プロレスを主戦場とし、1986年からはAWA地区への二度目の海外武者修行へ。覆面レスラーのスーパー・ニンジャ(Super Ninja)に変身してマサ斎藤のパートナーとなり、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、カート・ヘニング、レオン・ホワイト、スコット・ホールらと対戦した。1987年にはNWAの傘下団体だった太平洋岸北西部PNWにも出場、7月25日にオレゴン州ポートランドにて、リップ・オリバーと組んでマイク・ミラー&ココ・サモアからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。同地区では「アメリカン・ニンジャ」ことブライアン・アダムスとも抗争を展開した。しかし帰国前後にスーパー・ストロング・マシンとヒロ斎藤の新日復帰を受けてカルガリーハリケーンズは解散となり、「'88エキサイト・シリーズ」から正式に全日本プロレス所属となる。2代目タイガーマスクや高木功、田上明、仲野信市とともに「決起軍」を結成するが、ジャイアント馬場の「全然決起しないから」の一声ですぐに解散となる。しかし、馬場は高野の素材に期待をしており、積極的にジャンボ鶴田とのタッグをマッチメイクしていた。

第9位 キラー・カーン(小澤正志)

キラー・カーン

キラー・カーン

「蒙古の怪人」
「戦うモンゴリア」
via imgur.com
やはり「キラー・カーン」と言えば「アンドレ・ザ・ジャイアント」の足を負った男としても有名よね!あの「モンゴリアンチョップ」はのちの「天山広吉」の代名詞の技になるわけだけど元祖はこの方の技なのよね!

キラー・カーン(小澤正志)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1月28日にはエル・トレオにてミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦した。1979年3月からはアメリカ本土に進出しNWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケアと共闘し、主力ヒールとしてダスティ・ローデスやジャック・ブリスコら大物選手と抗争。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場し、トミー・リッチ、トニー・アトラス、ミスター・レスリング2号、そして当時ジョージアでベビーフェイスのポジションにいたスタン・ハンセンらと対戦。アブドーラ・ザ・ブッチャーやイワン・コロフ、マスクド・スーパースター、プロフェッサー・タナカ、マサ斎藤ともタッグを組んだ。1980年末よりWWFに参戦。12月29日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。凱旋帰国はアンドレ足折り事件の直前となる1981年3月開幕の『ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』。後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。開幕戦ではメインエベントでアントニオ猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガン&ドン・ムラコと対戦。ムラコに反則負けを喫したものの、日本においてもトップグループの地位に着いた。足折り事件直後の6月24日には蔵前国技館において、後にタッグを組むタイガー戸口と対戦(流血戦の末、反則負け)。翌1982年4月1日に蔵前国技館で行われた『第5回MSGシリーズ』の優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権した猪木の代打として因縁のアンドレと覇を争い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ名勝負を演じた。年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』では戸口と組んで準優勝を果たした。その後1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。

8位 マサ・斎藤(斎藤 昌典)

マサ・斎藤

マサ・斎藤

「獄門鬼」
「監獄レスラー」
via imgur.com
やはり「マサ・斎藤」と言えば「バックドロップ」の使い手よね!「ひねりを加えたバックドロップ」こそマサ斎藤の必殺技で「ジャンボ鶴田」「後藤達俊」と並ぶ「日本三大バックドロップの使い手」だと思うわ!

マサ・斎藤(斎藤 昌典)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。アメリカではミスター・サイトーまたはマサ・サイトーをリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

7位 坂口征二

坂口征二

坂口征二

「世界の荒鷲」
via imgur.com
この「坂口征二」の強さをあたしが思い知ったのは「UWF」との5対5時だったかしら?鬼の形相で技と言うよりは投げまくる坂口にリアル戦いを売りにしていたUWFの選手たちの腰が引けていたのを思い出すわ!

坂口征二のキャリア(Wikipediaより抜粋)

プロレス入り後、すぐにアメリカ合衆国に武者修行の遠征を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦し、「ビッグ・サカ」などのリングネームで活躍。ジョージアではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。武者修行からの凱旋帰国後はジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。その後、1971年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にザ・シークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。以降、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、キラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱、それ以降日本プロレスのエースとなった。インタータッグは一旦返上するが、12月2日に大木金太郎とのコンビでジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破り再び戴冠した。1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスを救った。ゴールデンタイムで放送され、猪木・坂口は「黄金コンビ」と呼ばれ、全日本プロレスをしのぐ人気を誇るようになる。しかし、猪木と対等という条件はいつの間にか反故にされ、大功労者の坂口は二番手として猪木をサポートする側に回るようになる。1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がついていた。1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木金太郎との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦した。1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となった。しかし、当時は藤波辰巳が次代を担う新星として台頭していたため、坂口もやや影が薄くなりつつあり、北米王座にしても猪木のNWF王座に比べると挑戦者は明らかに見劣りした。この王座は同年9月21日にタイガー・ジェット・シンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座に挑戦し、これを奪取する。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田馬之助、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手にWWF版の防衛を重ねた。

6位 藤原喜明

藤原喜明

藤原喜明

「関節技の鬼」
「昭和のテロリスト」
「問答無用の仕事師」
via imgur.com
「藤原喜明」と言えば「関節技」のイメージが強いと思うの。でも、あたしがしびれるのはやっぱり「一本足頭突き」よ!頭突きで会場を沸かせるレスラーなんて「大木金太郎」以来見たことがなかったわ!

藤原喜明のキャリア(Wikipediaより抜粋)

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