ヤクルトのリーグ初優勝・日本一に貢献
マニエルは1976年、新天地として日本を選びヤクルトへ入団しました。193cm90kgという巨漢に赤ら顔、毛むくじゃらで丸太のような腕…。まさに赤鬼のような姿で来日を果たします。初年度こそパッとしない成績でしたが、翌1977年には日本野球に順応したのか、114試合に出場し打率.316、42本塁打97打点をマークしチームの2位躍進に一役買いました。1978年も127試合で打率.312、39本塁打103打点と爆発!大杉勝男、杉浦亨とともに豪快なバッティングで球団創設以来初のリーグ優勝、日本一に貢献しました。
当時ヤクルト監督だった広岡達朗は1978年シーズンが終了次第、優勝を置き土産に生え抜きの武上四郎コーチへ監督の座を禅譲し、自身は熱烈アタックをかけてきていた阪神監督に就任することを考えていたといわれています。しかし松園オーナーが「日本一監督と契約しないのは格好がつかない」という理由で広岡監督との契約延長を図りました。広岡監督は契約の条件として自身の希望するチーム作りのための大幅なトレード実施をフロントに飲ませ、守備と足に難のあるマニエルを放出することを認めさせました。こうしてマニエルは2年連続で大きな実績を残しながらも近鉄へトレードされてしまいました。
”アメフット”スタイルで復活し、近鉄でもリーグ初優勝
開幕から大爆発したマニエルはチームを引っ張り、近鉄は独走態勢を築きます。しかし好事魔多しとはよく言ったものです。1979年6月9日、日生球場でのロッテ戦で八木沢荘六から顎に死球を喰らいそのまま病院送りという大怪我…。顎部複雑骨折と診断されシーズン中の復帰は絶望視されました。マニエルは母国での治療を主張しましたが、あまりの大怪我で航空会社に搭乗を拒否される可能性が高かったため、結局日本での治療と相成りました。このときマニエルは病室に砕けた自らの顎のレントゲン写真と八木沢の写真を貼り付け、回復に立ち向かったといわれています。
見出しには「マニエルあとは任せろ!」と書かれているが、マニエルの欠場後近鉄は苦戦した
マニエル欠場後の前期終了までの14試合を5勝6敗3分という成績でかろうじて前期優勝。「マニエルおじさんが残してくれた貯金を使い果たしてしまうんじゃないかと心配していた」(西本監督)
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マニエルが欠場する前の近鉄は34勝13敗4分で勝率7割2分3厘。欠場後は12勝14敗3分で同4割6分2厘。前年の78年、ヤクルトを球団創設以来初の日本一に導き、近鉄でも前期優勝の立役者となった赤鬼の復活はチームに勇気を与えた。79年は97試合出場で37本塁打を放ち、ホームランキングを獲得。阪急とのプレーオフでも大爆発し、近鉄は悲願のリーグ初優勝を果たした。
「ヒーローは自分ではない。全員だ。投球に対する恐怖心がわかなかったし、打席に立っても緊張しなかったことが何よりうれしい」と、トラブルメーカーともいわれた問題児にしては、神妙なコメントを残し足早に球場を後にした。多くを語らずそそくさと球場を出たのは、西本監督より怖いワイフとの夕食の約束に遅れそうだったからだ。
近鉄で2連覇、再びヤクルト移籍後自由契約となり引退、そして帰国
1980年もマニエルは、打率.325、48本塁打、129打点で本塁打王と打点王の2冠を獲得し、近鉄のリーグ2連覇に貢献した。そのオフの契約更改では、マニエルは複数年契約を要求するが36歳という年齢から球団側は単年契約を譲らず、広岡監督から武上四郎監督になったヤクルトが2年契約を提示したため古巣ヤクルトに戻ることとなった。しかし、1981年は出場81試合、打率.260、12本塁打という成績で終わってしまった。マニエルは当時恐妻家で知られていたが、離婚問題を抱えており、加齢だけでなく精神的に良い状態でなかったようだった。そして、そのオフの81年1月に自由契約となり現役を引退し米国へ帰国した。
監督としてワールドシリーズで優勝
マニエルは、現役時代は将来自分が監督やコーチになるなんて考えてもいなかったらしい。帰国後1982年ツインズのスカウトに就任し、その後83年から87年まではツインズ傘下のマイナー球団で監督、88年から89年にはインディアンズの打撃コーチ、90年から93年まではインディアンズ傘下のマイナー球団、94年から99年までインディアンズの打撃コーチ、00年にはとうとうインディアンズの監督に昇格した。
2001年にはアメリカンリーグ中地区優勝を果たしたが、翌2002年に成績不振を理由にシーズン途中で解任された。
2003年にフィラデルフィア・フィリーズGM特別補佐に就任、その後、2005年からは監督として現場でチームの指揮を執っている。2007年は独走するニューヨーク・メッツを終盤戦に猛追。残り17試合で6ゲーム差という状況から逆転して地区優勝する。2008年には、リーグチャンピオンシップシリーズでロサンゼルス・ドジャースを破ってナショナルリーグ優勝を果たし、チームをワールドシリーズに導いた。そのワールドシリーズでもタンパベイ・レイズを破り、見事チームをワールドチャンピオンへと導いた。