伊東 浩司 100m10秒00 アジアで初めて9秒台をノックした男。
2018年3月2日 更新

伊東 浩司 100m10秒00 アジアで初めて9秒台をノックした男。

伊東浩司は、100m10秒00のアジア新記録を出した。 この記録は、日本では2017年に桐生祥秀が9秒98を出すまで19年間、破られなかった その間、大きな壁となり多くのスプリンターをはじき返した。

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報徳学園では、例えば坂道なら、ダッシュで上がり、ジョグで下り、また上って下りてを繰り返すような、質より量の練習だった。
しかし大学からは、タイムトライアル(走る前に何秒で走り切るか、タイム設定をして走ること)など、1本に集中して出し切る、質の練習に変わった。
また
メディシンボール(腹筋、背筋)×300回
レッグカール10~15㎏×20回×5セット(左右)
チューブ(引き上げ、戻し)左右15回×5セット
腕振り(2㎏ダンベル)×300回×5セット
ハーフスクワット 60~140㎏×15×7セット
ボックススクワット 15㎏×15×7セット
ベンチプレス 55㎏×15回×10セット
アームカール 15㎏×15×7セット
肩車カーフレイズ×15回×7セット
デッドリフト 40~80㎏×15回×7セット
チューブトレーニング 3歩、5歩、10歩バウンディング×各10~20セット
・・・・・・・・・・・・
など本格的なウエイトトレーニングも始まった。
通常、大学の練習は1日3時間くらい。
高校時代に比べ練習量が減ったのに食べる量を変えなかったため体重が一気に8㎏増えた。
ウエイトトレーニングは60㎏のベンチプレスが挙がらず、100㎏のスクワットでフラついた。
周りは桁の違う重さを挙げていた。
タイムを計る練習やウエイトトレーニングに対して強い抵抗感があった。
スランプに陥り、400mのタイムも48秒台まで落ちた。
この壁を乗り越えるまでに大学1年から3年までを費やした。
伊東浩司は、毎日、合同練習の後、坂道を10本、20本と走り出した。
坂道を走って上ってジョグで下りて、また上がって下りての繰り返す長距離走的な練習だった。
大学3年の9月に行われた4大大学対校戦で、宮川千秋に
「(400m走を)47秒台で走らないと陸上部をやめさせる」
といわれ47秒8で走った。
神戸に帰りたくてエントリーした国体の兵庫予選の200mで優勝。
そして福岡国体で2位になった。
11月、浜松中日カーニバルの400mは47秒09。
(高校で出した記録は46秒52)

世界陸上1991 東京大会 総集編

大学3年の冬は翌年の世界選手権に向け練習量が増えた。
ウエイトトレーニングが3~4時間。
走る量も増え2~3時間。
大学4年になり、日大との対抗戦で200mを20秒8。
初の20秒台だった。
春にはスーパー陸上で400mを46秒53。
関東インカレでも400mで3位になったが、その後に出た200mの準決勝で左ハムストリングスが断裂し、脚の筋肉を陥没させながら倒れ頭を打ち意識を失った。
その後、行われた日本選手権は棒に振ったが、リハビリでアイシングやストレッチを教わりケガを予防する大切さを学んだ。
8月23日の世界選手権の直前、8月11日に南部記念で日本人トップになり辛うじて世界選手権の代表となった。
真夏の東京で行われた第3回世界選手権で、高野進は、準々決勝を44秒91で走り、決勝で7位に入った。
その高野進が2走、伊東浩司がアンカーで出た4×400mリレーでは、予選で3分01秒26の日本新記録を出したが、着順は4着で決勝には進めなかった。
伊東浩司は、バックストレートで抜かれた。
3着でゴールしていれば決勝に残れたので悔やまれた。
高野進は伊東浩司にとって雲の上の人だった。
東海大学内での練習でも高野進は学生と離れ1人体操し淡々とドリルをやって練習に入っていった。
オリンピック前に一緒に練習したこともあったが、物音を立てるのも悪いような、ピリピリとしたオーラを放っていた。
自分が高野進と同じような立場になるとは思っていなかった。

屈辱のバルセロナオリンピック

Men's 4x400m Relay Final Barcelona Olympics 1992

伊東浩司は、大学卒業後、実業団に入り陸上を続けるために就活を行い、富士通に入った。
富士通の陸上部は千葉県の幕張にあったが、伊東浩司の勤務先は神奈川県の厚木市にある研究所だった。
神奈川県平塚市にある母校:東海大で練習するための配慮だった。
午前中は研究所に出勤し仕事をし、いったん家に帰って着替え、午後、東海大に向かい練習をした。
社会人1年目はバルセロナオリンピックの年だった。
伊東浩司はマイルメンバー(1600メートルリレー)のメンバーには選ばれたが試合に出る4名には入れず、スタンドの選手席で悔しい思いでレースをみた。
そして日本チームは予選を通過できなかった。
以後、「上位に入ればリレーに選ばれるかもしれない」から「予選会でも絶対に1番にならなくちゃいけない」と考えが変わった。
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オリンピック直後の9月に行われたスーパー陸上の400mで順位は3着だったものの、伊東浩司は46秒28の自己新をマークした。
高校3年の46秒52から5年ぶりのことだった。
ちなみに1位はカール・ルイスだった。
10月の全日本実業団選手権でも、200mの予選を20秒96、決勝を20秒99で走り優勝した。

初動負荷トレーニング

イチローが実践する初動負荷トレーニングを小山トレーナーが解説

伊東浩司は、神戸の池野憲一に、鳥取にあるトレーニングジム、「ワールドウイングス」を薦められた。
伊東浩司はウエイトトレーニングが嫌いだったが、バルセロナで走れなかった悔しさが新しいチャレンジの原動力となった。
伊東浩司が会社に相談してみると、同じ富士通の競歩の今村文男も1年前から通っていて、すぐに許可が下りた。
そして1992年11月、バルセロナオリンピックの年の秋、初めて鳥取にあるワールドウイングスの門を叩いた。
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ワールドウイングスは、かつてボディビルアジア選手権で2連覇を果たした小山裕史が主宰するトレーニングジム。
小山裕史は「初動負荷」という理論とその情熱で独自のトレーニングを展開した。
それまで伊東浩司はトレーナーに「筋力が弱い」といわれ続けた。
しかし小山裕史は
「弱いんじゃなくて使えないだけ」
といいグリップの握り方、足の位置や置き方、背中の伸ばし方、ポジションのつくり方などを教えた。
また捻れて上がっていく伊東浩司のベンチプレスをみて
「伊藤君はこうやって着地しているでしょう」
といい当てた。

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小山裕史講師 初動負荷理論

水道にホースをつなぎ水を出すとき、ホースの出口をつまむと水の勢いが増す。
ホースの末端が広いとそうはいかない。
人体も根幹の大きな筋肉で大きな力を発生させ、それを末端へ流していけば大きな出力が得られる。
だからトレーニングでは四大筋群と呼ばれる脚、背、胸、腹、そして末端への流れが重要視される。

キリンラガービール(飛び込み)元渕幸

伊藤浩司は、最初はフォームづくりに専念した。
女子飛び込みオリンピック代表の元渕幸が60㎏、70㎏、80㎏とスクワットをこなしている横で、腰に手を当ててスクワットをした。
ワールドウイングスで行うスクワットは股関節スクワットで、膝ではなく股関節で体を支え、股関節を中心に動いて体を上下させ、背中とハムストリングスに負荷をかける。
伊東浩司は、ワールドウイングスでトレーニングを始め2年後には何十㎏も重いベンチプレスを挙げられるようになった。
上半身をウエイトトレーニングで鍛えることに疑問を感じるスプリント選手は多い。
しかし肩甲骨の近くには心臓や肺がある。
肩甲骨周辺の筋肉が硬くなり動きが制限されると血液を送り出すポンプが動かない。
ポンプの機能を高め勢いよく血液を送り出せば、勢いよく流れ、全身の血液循環が良くなり身体の出力も高まる。
そういう意味で肩甲骨周辺のトレーニングは重要で、肩甲骨周辺のトレーニングが成功すれば、血液の循環が良くなり疲労物質がたまりにくくなる。
例えばスクワットを何十セット、ダッシュを何十本繰り返しても、汗は出るが、一定の血圧と心拍数を維持しながら疲れずにいつまでも運動を継続できた。
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また小山裕史は、スキップを指導した。
それは踵から着地し母指球に抜けるスキップで、着地した足に腰が乗って体が前に移動していく。
腿はあまり上げず、脚を股関節を中心に振り子のように使って、滑らかなすり足に近い体重移動で前に出た脚の上に腰を乗せていく。
伊東浩司は30~50mをスキップで何本、何十本と行った。
1992年に初めてワールドウイングスを訪れ、1週間ほどの滞在を2回行った。
翌1993年の春には東アジア大会の選考会で200mで20秒87の自己新。
1994年、スーパー陸上での20秒66は、自己新であると共に日本歴代2位。
全日本実業団選手権では、100mで10秒34で自己新。
広島で行われたアジア大会の200mでは、100m3連覇のタラル・マンスールとバルセロナオリンピックで高野進より先着し7位に入賞したイブラヒム・イスマイルが出ていたが、伊東浩司は20秒70で銀メダルを獲得した。
4×100mリレーでは、アンカーの伊東浩司は中国を抜き、39秒37でフィニッシュし1位。
この種目のアジア大会優勝は40年ぶりだった。
広島アジア大会の1週間後、熊本の水前寺競技場で行われた日本グランプリファイナルで、伊藤浩司は200mを20秒44で走り日本新記録を樹立した。
1995年、日本選手権で100mを10秒21で自己新で2位。
200mでは20秒61で日本選手権で初優勝した。
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