伊東 浩司 100m10秒00 アジアで初めて9秒台をノックした男。
2018年3月2日 更新

伊東 浩司 100m10秒00 アジアで初めて9秒台をノックした男。

伊東浩司は、100m10秒00のアジア新記録を出した。 この記録は、日本では2017年に桐生祥秀が9秒98を出すまで19年間、破られなかった その間、大きな壁となり多くのスプリンターをはじき返した。

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アトランタオリンピック

伊東浩司 200m 20 29 日本記録 日本選手権 予選 1996年

朝原宣治 100m 10.14 日本記録 日本選手権 優勝 1996年

1996年、アメリカのマウントサックの大会で400mを46秒11の自己新。
そしてアトランタオリンピックの最終選考を兼ねた日本選手権では200mの予選で20秒29の日本新、アジア新記録。
興奮し浮かれた伊東浩司はその夜のスポーツニュースを全部チェック。
一睡もせずに、翌朝4時半にコンビニで新聞を購入し再び自分の記事をチェック。
睡眠不足で準決勝は20秒92、決勝は20秒70に終わった。
日本選手権では優秀選手が男女1名ずつ選出される。
伊東浩司は確実に自分だと思っていたが、100mで10秒14の日本新を出した朝原宣治が選ばれた。
アメリカでもオリンピック代表選考会を兼ねたアメリカ選手権が行われ、200mでマイケル・ジョンソンが19秒66の世界新を出した。

伊東浩司 200m アトランタ オリンピック 準決勝 1996年

アトランタオリンピックスタジアムに入場するとき、伊東浩司は「泣いたらアカン」とサングラスをかけた。
実際には涙は出てこず嬉しくて思わず口もとが緩んだ。
選手村内をカートで移動していたとき、外国の選手がカートが停まらないうちに飛び降りるのをみてマネをして転んだ。
1996年7月31日、男子200mの予選が行われた。
1次予選は11組あり、伊藤浩司は10組目のトップでゴールした。
2次予選は2着。
3位以内に入り準決勝に進出した。
翌日の準決勝は2組あり上位4名が決勝に進めた。
伊東浩司は2組目。
フランク・フレデリクス、マイク・マーショ、アト・ボルドンなど19秒台の選手がズラリと並び、伊東浩司は20秒45で6着。
決勝は選手村のテレビでみた。
金メダルはマイケル・ジョンソンの19秒32の世界新。
7着の選手でさえ20秒2.
世界のファイナルの壁は高く道は厳しすぎた。

Men's 4x400m Relay Atlanta Olympics 1996

翌日は4×100mリレーの予選だった。
伊東浩司は2走を務めたが予選は通過できなかった。
伊東浩司は、4×400mリレーのメンバーにも選ばれ準決勝のアンカーを務めた。
4着までに入れば決勝進出。
伊東浩司は、3走から4着でバトンを受け1人に抜かれ1人を抜いて4着でゴールした。
翌日行われた決勝では、伊藤浩司は2走を走り日本は5位に入賞した。
3分00秒76の日本新、アジア新記録だった。

海外遠征

末續慎吾 100m 10.63 国体少年B 優勝 1996年 全国デビュー

伊東浩司はアトランタオリンピックで200mで準決勝進出、マイルリレーでは5位入賞を果たした。
出番がなかったバルセロナオリンピックの悔しさを見事に晴らした。
しかし100mを9秒台で走る選手と一緒に200mを走り、自分と世界のトップの力の差を実感した。
次に自分がすべきことも次の目標もわからなかったが、とりあえず国体に出て100mで優勝した。
同大会では高校1年生の末續慎吾(九州学院高)が少年Bの100mで優勝した。
「何をやったらいいのだろう?」
悩み続け出た答えは
「世界での経験が少ない」
ということだった。
またアトランタで前半の100mで引き離されたことから、スタートと序盤の走りに磨きをかけるため1997年の冬は国内外の室内大会の60m走に出場した。
そして1997年2月の群馬国際室内60mで5位ながら6秒63の日本新記録を樹立。
朝原宣治が5日前にドイツで出したばかりの日本記録を1/100秒速かった。
優勝はアトランタオリンピック100mの金メダリスト、ドノバン・ベイリーだった。
その後も2月19日の日中対抗室内の北京大会で伊藤浩司が6秒61を出すと、3月1日のドイツの大会で、朝原宣治が6秒55をマークした。

バルセロナオリンピック_陸上男子400m決勝

伊東浩司は、東海大学の先輩で共にオリンピックに3回出場した経験のある宇佐美彰朗(マラソン、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール)、高野進(400m、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナ)に3度目のオリンピックを目指したときの経験や心構えなどを聞いた。
2人は共に
「4年のスパンで考えず1年1年の積み重ね」
と答えた。
また
「今までやったことのないことを練習に取り入れた」
ともいった。

筋肥大で尿道結石

 (1960750)

伊東浩司はどんどん海外へ出ていった。
4月にアメリカで3試合行った。
自分で荷物を持って申し込みをして出場料を払いエントリーした。
紐を張ったコースで走ったり、スターティングブロックがないコースでは人に頼んで押さえてもらった。
記録は発表されないので、聞きに行きにいった。
いろいろ自分でやることで妙な達成感があった。
アメリカでは尿道結石で救急車で運ばれたことがあった。
グラウンドで練習中に急に腹痛になり倒れこんだ。
病院に着くと隣に刃物で刺された人がいた。
検査のために尿を出さなくてはならないのだが
練習で発刊していたため尿が出ず尿管にカテーテルを挿れた。
尿道結石の痛みは点滴で治った。
原因は「筋肥大」と診断された。
筋が尿管を圧迫しているという。
帰国後も治療法はなく、いつも薬を持ち歩くようになった。

Wコウジ

 (1962986)

koji murofushi


アメリカから帰国後、静岡国際に出て、5月には大阪グランプリ。
直後に韓国の釜山で行われた東アジア大会に出場。
釜山から東京に戻り1泊した後、アメリカへ行き、さらにヨーロッパという世界一周転戦の旅に出た。
オレゴン州の試合では、相部屋になった外国選手が女の子を連れ込んできたので眠れずボロボロだった。
遠征中、ホテルは基本的に同じ大会に出る選手同士の相部屋だった。
日本人選手はいなかったので伊東浩司は孤独だった。
その後、サンフランシスコ経由でスペインのセビリアに入った。
サンフランシスコの空港で6時間待ち、イギリスのヒースロー空港でも5時間待った。
やっとセビリアに入り紙に書いてある通りに行くと大会事務局があるホテルがなかった。
タクシーで回ってやっと見つけた。
スペインの後はフランス、イタリア、モスクワと回った。
ほとんどグランプリ大会で、同じメンバーで伊東浩司は後方を走った。
最後のモスクワではハンマー投げの室伏広治に出会い、ダブルコウジで帰国した。
1ヶ月近くの遠征から帰国して3日後、全日本実業団選手権の200mに出場し小野田貴文(七十七銀行)に敗れた。
日本人選手に敗れたのは3年ぶりだった。
さらに1か月後のアテネ世界選手権では、200mの1次予選で落ちた。
足にマメができていた時点で「ダメだ」と思った。
いつもオーダーメイドのシューズなのに靴ズレが起きたということは、バランスを崩して悪い走りになっている証拠だった。
4×100mリレーも、準決勝で38秒31の日本新、アジア新記録を出しながら決勝には進めなかった。
10月の日本選手権の200mでも伊東浩司は決勝前に右脚が痙攣し棄権した。
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