大山倍達の真実   Truth of  God Hand
2017年6月26日 更新

大山倍達の真実 Truth of God Hand

空手バカ一代とい漫画で、初めて知った実在の男:大山倍達。 日韓併合、朝鮮半島分断、戦後という特殊な事情から彼の素性はすり替えられた部分もあった。 最近になって、それらが明らかにされ、クリアになってきた。 しかしいくらクリアになっても、変わらなかったのは、大山倍達という人の圧倒的な強さと人間的魅力だった。

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妻に改名させる

 (1881216)

栃木から東京に戻った大山倍達は早稲田大学に入学した。
(2年後に退学)
ある講演会の会場でお手伝いをしていた智弥子夫人に出会った。
大山智弥子の元の名は「照子」だった。
そこから「置八子」、「智弥子」と2度、名を変えた。
大山倍達が、ほかの男から呼ばれていた名を嫌ったのである。
大山智弥子は、ミス東京に選ばれ、芸能界や宝塚からも誘いがあった。
父は県会議員で、お嬢さん育ちの大山智弥子は、大山倍達と結婚後、トイレもないボロ屋で暮らし始めた。
大山倍達はほとんど家に帰ってこず、どこに行っているのかもわからず、近所から「愛人ではないか」と疑われたこともあった。
電気代が払えず電気が止まると、切ったりはがしても大丈夫な家の板や柱を燃料にしてしのいだ。
京都で武道大会が開催され、大山倍達はこれに優勝した。
優勝カップを持って家に帰ると、妻:智弥子は長女を出産していた。

あいつは狂っている。

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大山倍達は、巻き藁を突き、バーベルを挙げ、板やレンガを割り、組手をして稽古に没頭した。
そしてケンカが起こると真っ先に飛んで行った。
それは決して民主主義思想のためではなかった。
1人で何人倒せるか。
自分の技の威力はどれだけか。
戦うこと、強い自分が好きだった。
空手も、型より組手、技より力主義だった。
あるとき、建青の訓練所の剣道の先生が大山倍達を一目みて曺寧柱に忠告した。
「あいつは狂っている。
精神を鍛錬しなければいつか殺されるかダメになってしまう。」
こうして大山倍達は、曺寧柱の指示で数か月間、身延山の久遠寺に入り、修業を行った。
山を下りてきたときには地元の猟師や農家と仲良くなってお土産をもらって行く前よりたくさんの食料を持ち帰ったという。

目白の野天道場

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やがて大山倍達は、7年に及ぶ在日朝鮮人同士の抗争から身を引いた。
建青を抜けて、千葉から東京へ引っ越した。
そして山口剛玄の道場に入り稽古を積んだ。
(2年後には剛柔流6段となる)
空手一筋になったのはよかったが、収入がなくなったため、ヤクザの用心棒をしてしのいでいた。
そんなときにアメリカ遠征の話が舞い込んできた。
アメリカに渡ってプロレスのリングで戦ってみないかという。
このとき受け取った契約金で、東京都豊島区目白に大きな家を建てた。
この家の庭で空手の稽古と指導を行った。
「目白の野天道場」と呼ばれた。

ゴッドハンド伝説

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アメリカの招聘に応じ、大山倍達は海を渡った。
戦後、すでに柔道はアメリカにも普及していたが、空手は初めてのことだった。
そして初戦は、シカゴの1万人を超えるプロレスファンが集ったホールだった。
初戦といってもプロレスをするのではなく、あくまでもプロレスのリングで空手のデモンストレーションを行うのが目的だった。
その控室でのこと。
控室といっても、壁で仕切られているわけではなく、大きな部屋にたくさんの外人レスラーが入っていた。
大山倍達はその巨体と筋肉に圧倒された。
「空手のデモンストレーションのために、何か準備するものはありますか?」
主催者の質問に対し、大山倍達は、1インチの板を5、6枚とレンガを数個を注文した。
やがて時間が来て、大山倍達はリングに上がった。
そして一礼してから、まず型を行った。
わけのわからないダンスに対しブーイングが起こった。
次は試し割り。
板を持つパートナーが大山倍達に聞いた。
「こんな板、割れるのか?」
そこには板が2枚あり、1枚は注文通り1インチほどの板だったが、もう1枚は5インチ(約12㎝)もある板だった。
1インチの板は難なく割れた。
続いて分厚い板。
深く息を吸い込み、それを吐き出し、半歩下がって構え、拳を放つと板は真っ二つになった。
そしてすでに拳は、そこにはなかった。
一瞬の出来事だった。
歓声が起こった。
続いて、手刀でのレンガ割り。
しかしリングの柔らかいマットのせいで2度失敗。
3度目は、台座をリング中央からコーナー寄りに移して、衝撃吸収を少しでも下げ、かつ肘に替えてなんとか成功させた。
客の溜息と拍手を聞きながら、大山倍達は礼をしてからリングを下りた。
初めてのアメリカでの空手のデモンストレーションは成功した。
翌日、新聞のスポーツ欄には、「KARATE」の文字が躍った。
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日増しに高まる「KARATE」人気を面白く思わない人もいた。
ある日、控室にいた大山倍達がビジネスパートナーと打ち合わせをしていると1人のプロレスラーが近づいてきて、大山倍達の足に唾を吐いた。
そして仁王立ちになって挑発した。
ビジネスパートナーは囁いた。
「このまま引き下がったらダメ。
なにかこの男脅す方法ない?」
大山倍達は躊躇いながらも、両手の親指と人差し指だけで逆立ちをした。
「ヘイ・ユー・ルック」
丸太のような腕を組んでみていたプロレスラーは、冷蔵庫から瓶のコーラを取り出した。
そして歯で栓を抜き、中身を飲み干し、肘に白い布を肘にかぶせ、そこに瓶を挟んで、呻き声を上げながら肘を曲げて瓶をバリバリと砕いた。
退いたら負け。
次は大山倍達の番だった。
中身を半分ほど残したコーラ瓶をテーブルの上に立てた。
その前に立って、深く息を吸い込み、カーッと吐き出した。
そして脚と腰を決めて、手刀をつくって首の後ろに振りかぶり、気合もろとも瓶口めがけ打った。
すると小さな塊が壁に飛んで、床に転がった。
テーブルには首がなくなったコーラ瓶が立っていた。
瓶切りが成功した。
首が吹き飛んだ瓶をみて誰かがいった。
「オー・マイ・ゴッド・・・」
こうして大山倍達の手は「ゴッドハンド」となった。

空手 大山倍達 MAS OYAMA - THE GOD HAND

アメリカで爆発的人気

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その後、大山倍達は、シカゴ、イリノイ、アイオワ、ミシガン、ミネソタ、カナダ、インディアナ、ジョージア、サウスカロライナ、フロリダ、キューバと全米を周った。
そして5セント銀貨を指先で握って潰したり、手の甲の拳ダコをハンマーで叩かせたり、自然石を手刀で割ったり、アトラクションとしてプロレスと試合を行った。
飛び入りの挑戦者を相手に賞金を賭けて対戦したこともあった。
アイオワ州では、警官の挑戦を受けたときは、相手の乱暴な攻めに怒った大山倍達が組みつこうとする相手の右手を左手で払いのけ飛び込み、右手で相手の両目を突き上げ、右膝で金的を蹴り上げた。
そして相手の胸板に拳を叩き込み、肋骨を7本折った。
なんでもアリのルールだったが、観衆は怒り出し、リングになだれこもうとしたため、大山倍達は警備員の力を借りてリングを去った。
しかし群衆はホテルまで押しかけ、ここでも警官に護衛されてシカゴまで護送された。
プロレスのレフリーをつとめていたジャック・デンプシー(元プロボクシングヘビー級チャンピオン)が、大山倍達がデモンストレーションをみて、控室を訪ね、その拳をさすったこともあった。
2度目の渡米時には、シカゴで牛を相手に角折のデモンストレーションを行った。
「KARATE」と「Hand of Got」は、全アメリカで爆発的な人気を得た。

Mas Oyama In New England, last trip to U.S.

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