幼少期~中学校卒業まで
長与千種は
長崎県大村市に生まれた
大村湾沖合いには長崎空港がある
家は祖父の代から漁業をしていた
父、繁さん(2012年7月逝去)は
学校は小学校2年生までしかいかず
船で独学で勉強し
戦中は軍隊にも入った
長崎県大村市に生まれた
大村湾沖合いには長崎空港がある
家は祖父の代から漁業をしていた
父、繁さん(2012年7月逝去)は
学校は小学校2年生までしかいかず
船で独学で勉強し
戦中は軍隊にも入った
via n-seikei.jp
そして繁さんは
大村市に日本初の競艇場ができると
ボートレーサーになった
競艇では
すべてのレーサーには登録番号があり
出走表はレーサー名とともにその番号が記 されるが
繁さんの登録番号は56番、2桁代の第1期生である
大村市に日本初の競艇場ができると
ボートレーサーになった
競艇では
すべてのレーサーには登録番号があり
出走表はレーサー名とともにその番号が記 されるが
繁さんの登録番号は56番、2桁代の第1期生である
56 長與繁 勝率:5.18 事故率:0.59 1着:20 2着:16 3着:22 出走:119
繁さんは
4階建ての家を建て
7軒の飲食店を経営した
娘には
「勉強するより友達をつくれ」
といい
家の黒板で
自ら高学年の算数を教えた
長与は小2で掛け算割り算まで進んでいた
母、スエ子さんも
気が強かったが
常に一歩下がって父をサポートしていた
7軒の店を実際に仕切っていたのはスエ子さんで
「ママ」と呼ばれていた
4階建ての家を建て
7軒の飲食店を経営した
娘には
「勉強するより友達をつくれ」
といい
家の黒板で
自ら高学年の算数を教えた
長与は小2で掛け算割り算まで進んでいた
母、スエ子さんも
気が強かったが
常に一歩下がって父をサポートしていた
7軒の店を実際に仕切っていたのはスエ子さんで
「ママ」と呼ばれていた
「父のお店で働いているキレイなお姉さんたちがいつも集まっていた
私は7歳上の姉と7歳下の弟がいるんだけど
10歳になるまではいつも10人以上で暮らしていたんじゃないかな?
常に人が出入りしているにぎやかな家だった
あの時のきらびやかさ、艶っぽさっていうのかな、今でも忘れられない
当時は軍艦島(長崎・端島)の炭鉱が盛んな時期で
そこから来たお姉さんたちも父の店で働いていた
父は「俺のところに来た以上、ちゃんとした人間として社会に出してやる」と、礼儀作法を厳しくしていた
だから家族だけでの食事の思い出なんてない
休日とかは40~50人でカニとかシャコエビとか焼き肉とか食べにいっちゃうんだから」
空手をはじめる
via www.jka.or.jp
小4の時
空手をはじめる
小児喘息を患っていた娘を心配した母が自衛隊の道場に通わせたのがきっかけだった
空手をはじめる
小児喘息を患っていた娘を心配した母が自衛隊の道場に通わせたのがきっかけだった
一家離散
via terrarum.xyz
長与が小5の時
友人の借金の保証人になっていた父は億単位の借金を背負ってしまった
4階建ての家を出て
小さな借家に引っ越し
長与は親戚の家をたらい回しにされた
友人の借金の保証人になっていた父は億単位の借金を背負ってしまった
4階建ての家を出て
小さな借家に引っ越し
長与は親戚の家をたらい回しにされた
「10歳の時、一家は離散した
姉はもう働いていたので
2歳の弟と私はそれぞれ別の大村市内の親戚の家に預けられ
父と母は関西へ働きに出かけた
人生が一変した
この記憶はね、これから先へ進む以上、開けてはいけない扉なんです
人生の中でもデリートしたい時期
本当ならもう話したくない
それほどつらい時期でした。
その時のトラウマが残っているのか私は今でも人見知りする
人と深く付き合うのが怖い
食事の席でも相手の顔色をうかがっちゃうから、遠慮して自分から食べることができない」
「私は何で生まれてきたんだろう?」
あるとき親戚の家で鶏のから揚げを食べているとき
「あんたは食い過ぎる
送ってもらうお金じゃ足りない」
といわれた
たとえ家はあっても長与に帰る場所はなかった
「私は何で生まれてきたんだろう?」
自問自答が続き
勉強をしなくなった
最終的には4年間で5軒、親戚の家を転々としたが
成績も転げるように落ちていった
「あんたは食い過ぎる
送ってもらうお金じゃ足りない」
といわれた
たとえ家はあっても長与に帰る場所はなかった
「私は何で生まれてきたんだろう?」
自問自答が続き
勉強をしなくなった
最終的には4年間で5軒、親戚の家を転々としたが
成績も転げるように落ちていった
koryu 2018/11/25 08:33
スゴいわ。