大山倍達は指で硬貨を曲げることができた。
人差し指と中指に親指の3本で曲げてしまうという。
人差し指と中指に親指の3本で曲げてしまうという。
牛の角折り
大山倍達は、牛と戦うことを空手家の宿題と考えた。
1953年、アメリカのシカゴで、牛と格闘し、手刀で角を折った。
1954年、千葉県館山の八幡海岸で「猛牛と戦う空手」という記録映画が撮られた。
1000名以上の見物客と4台のカメラが見守る中、大山倍達は、トランクスに上半身裸で登場。
そして450㎏を超える牛の根元の太さは10㎝超、長さ約40㎝という大きな角をつかみ、ねじり倒そうとした。
牛の角で腹部から出血しながらもなんとか倒し、起き上がろうともがく牛の頭を押さえ込んだ。
そして牛の角を左手でつかみ、右手を振り上げ、もう一方の角に振り下ろし、角を叩き折り、表皮だけでつながった角をもぎとり高々とかかげた。
1956年にも田園コロシアムで「牛との格闘」が公開された。
そして「牛殺しの大山」といわれた。
1953年、アメリカのシカゴで、牛と格闘し、手刀で角を折った。
1954年、千葉県館山の八幡海岸で「猛牛と戦う空手」という記録映画が撮られた。
1000名以上の見物客と4台のカメラが見守る中、大山倍達は、トランクスに上半身裸で登場。
そして450㎏を超える牛の根元の太さは10㎝超、長さ約40㎝という大きな角をつかみ、ねじり倒そうとした。
牛の角で腹部から出血しながらもなんとか倒し、起き上がろうともがく牛の頭を押さえ込んだ。
そして牛の角を左手でつかみ、右手を振り上げ、もう一方の角に振り下ろし、角を叩き折り、表皮だけでつながった角をもぎとり高々とかかげた。
1956年にも田園コロシアムで「牛との格闘」が公開された。
そして「牛殺しの大山」といわれた。
via www.youtube.com
ウエイトトレーニング
大山倍達は、若木竹丸を訪ね、ウエイトトレーニングを習った。
若木竹丸は中学時代に相撲で関東学生選手権2位。
ウエイトトレーニングは相撲の鍛錬の1つとして始めた。
大学ではボクシングや柔道を学びウエイトトレーニングの研究を続け、日本腕相撲選手権で優勝。
著書「怪力法(怪力法並びに肉体改造体力増進法)」を出版した。
そのトレーニングは合理的で、バーベルの重量が限界に近づいてきたら、トタン板のプレートを使いグラム単位で増やしていった。
こういった方法に加え、大山倍達はバーベルが挙げられなくなると、お尻に畳針を刺してもらい、飛び上がるような痛みで、瞬発力をつけて、バーベルを挙げた。
若木竹丸は中学時代に相撲で関東学生選手権2位。
ウエイトトレーニングは相撲の鍛錬の1つとして始めた。
大学ではボクシングや柔道を学びウエイトトレーニングの研究を続け、日本腕相撲選手権で優勝。
著書「怪力法(怪力法並びに肉体改造体力増進法)」を出版した。
そのトレーニングは合理的で、バーベルの重量が限界に近づいてきたら、トタン板のプレートを使いグラム単位で増やしていった。
こういった方法に加え、大山倍達はバーベルが挙げられなくなると、お尻に畳針を刺してもらい、飛び上がるような痛みで、瞬発力をつけて、バーベルを挙げた。
via blog.livedoor.jp
大山道場
大山倍達は目白の家から板橋区のアパートに転居し、大山道場を立ち上げた。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
彼ら自らを「極真会」「極真空手」と名乗った。
その由来は「千日をもって初心とし、万日をもって極とする」という格言に因む。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
彼ら自らを「極真会」「極真空手」と名乗った。
その由来は「千日をもって初心とし、万日をもって極とする」という格言に因む。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。
力道山
via wpwbook.com
力道山は朝鮮半島の北方で生まれ、大山倍達と同じ年に渡日。
翌年、二所ノ関部屋に入門。
10年間で大相撲で関脇まで昇進しながら、自らマゲを切って力士を廃業した力道山光浩は、プロレスラーになるためにアメリカに渡った。
そして帰国後、日本プロレスリング協会を立ち上げ、自らの道場で若手を育成し、日本でプロレスの生みの親となった。
日本プロレスの初興行は、シャープ兄弟を招聘し、テレビで全国中継された。
力道山は外国の大男を次々に倒していった。
日本はプロレスブームに沸き、力道山は英雄視された。
文藝春秋新社が発行する「オール読物」1952年7月特別号に、大山倍達と力道山の対談が掲載された。
対談は互いに相手を尊重し、和やかな雰囲気で進んだ。
そして最後に記者が2人に腕相撲をリクエストした。
力道山は120㎏。
大山倍達は82㎏だったが自信はあった。
しかしお互いの顔を立て引き分けにしようと申し合わせた。
記者が写真を撮るためシャターを切った瞬間、力道山は突然力を入れて勝ってしまった。
この行為を大山倍達は終生許さなかった。
翌年、二所ノ関部屋に入門。
10年間で大相撲で関脇まで昇進しながら、自らマゲを切って力士を廃業した力道山光浩は、プロレスラーになるためにアメリカに渡った。
そして帰国後、日本プロレスリング協会を立ち上げ、自らの道場で若手を育成し、日本でプロレスの生みの親となった。
日本プロレスの初興行は、シャープ兄弟を招聘し、テレビで全国中継された。
力道山は外国の大男を次々に倒していった。
日本はプロレスブームに沸き、力道山は英雄視された。
文藝春秋新社が発行する「オール読物」1952年7月特別号に、大山倍達と力道山の対談が掲載された。
対談は互いに相手を尊重し、和やかな雰囲気で進んだ。
そして最後に記者が2人に腕相撲をリクエストした。
力道山は120㎏。
大山倍達は82㎏だったが自信はあった。
しかしお互いの顔を立て引き分けにしようと申し合わせた。
記者が写真を撮るためシャターを切った瞬間、力道山は突然力を入れて勝ってしまった。
この行為を大山倍達は終生許さなかった。
木村政彦
via ja.wikipedia.org