わが選んだ道に悔いはなし!【大野豊】の広島一筋人生は素晴らしかった。
2021年5月27日 更新

わが選んだ道に悔いはなし!【大野豊】の広島一筋人生は素晴らしかった。

150kmのストレートに、パームボール、まっすら、スラーブ、シュート、ドロップと、様々な変化球を駆使する様は「七色の変化球」の使い手として、球団を代表するスラッガーに恐れられていた。先発、中継ぎ、抑えとすべての役割を全うする投手はまれにみる一人だと言えるであろう。そんな大野豊の現役から引退後までをご紹介しましょう。

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七色の変化球と緩急をつけた類まれな投球術を駆使する大投手!大野豊

大野豊(おおの ゆたか)

大野豊(おおの ゆたか)

1955年8月30日生まれ
身長177cm、体重75kg
左投げ左打ち
ポジション:投手

広島カープ黄金期の投手王国の一人として、ローテーションの一角を担ってきました。
先発投手、救援投手と活躍した選手はなかなかいないでしょう。防御率の素晴らしさ、投球術は一球品の投手で、江夏の教え子としても有名なカープを代表する選手です。

大野豊の獲得タイトル・主な表彰と記録

最優秀防御率:2回 (1988年、1997年)
最優秀救援投手:1回 (1991年)

月間MVP:3回 (1984年4月、1989年8月、1997年4月)
沢村賞:1回 (1988年)
ファイアマン賞:1回 (1991年)
野球殿堂入り(競技者表彰:2013年)

大野豊のプレースタイルはこれだ!

抜群の制球力と投球術を駆使した投手

抜群の制球力と投球術を駆使した投手

100勝100セーブを史上4人目で達成。過去に達成した選手も江夏豊他、斎藤明夫など、制球力が抜群の投手が達成しています。オールスターも10回出場していますので、広島だけではなく、プロ野球ファンに愛された選手です。
大野豊のフォームは、独特なフォームでして決して真似ることの出来ない投球フォームの使い手でした。腰を極端に低くして、大地に踏ん張るように軸足を深く沈みこませるフォーム。沈み込ませてためを作り、打者のタイミングを外すことを持ち味としていた。

他には、優れた制球力と、多彩な変化球の数々で打者を翻弄させる投手でした。

勝手の名打者、王貞治と松井秀樹と対戦した投手であるが、あの松井秀樹が大野さんのボールは一生打てませんと言うほど、松井に嫌がられていた投手です。

大野豊の生い立ちから広島東洋カープに入るまで。

実家は海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった[1]。母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する。」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くための実学が商業高校であれば学べるということで出雲商業高校を選んだ[1]。
高校2年から本格的に投手として投げ、既にプロ入り後と殆ど変わらないフォームであった[1]。高校3年の夏には島根県でも注目され[1]、強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある出雲市信用組合へ就職した[2]。3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを持った[1]。
その3か月後の1976年秋、出雲市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。出雲市信用組合野球部員は手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、高校時代の監督へプロへの道を作っていただけないかと頼んだ[1]。恩師に頼んだ経緯もあり、翌1977年2月に特別に受験することとなり[1]、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭教の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。3月6日、軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした(契約金なし、俸給は月額12万5千円)。

広島東洋カープの大野豊はこうだった!

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1年目のシーズンは、わずか1試合のみの登板で、それもアウトを1つ取っただけで、満塁本塁打を含む、5点を獲られ、防御率135.00という、考えられない成績を残してしまった。

2年目のシーズンが始まり、江夏豊との運命的な出会いが生じる。気難しい江夏に見初められた大野は、フォーム改造から変化球の取り組みまで2人三脚で取り組んでいった。江夏の自分の境遇に似ていたことから、弟として、江夏の後継者になるべく厳しい特訓をしていった。

キャッチボールから始まり、時には、投げ方が悪いと江夏の鉄拳が飛ぶ。当時のことを大野は、江夏には感謝、尊敬の念しかないと語るが、すぐ手が出ることから、ついていけないとも思ったらしい。

江夏との特訓が功を持して、広島の中継ぎ投手の柱に成長していった。その後、江夏がトレードされることとなり、江夏の代わりに大野が抑えの切り札としてシーズンを迎えることとなった。

気が弱いから無理ではないかと言われたが、8勝11セーブと翌年には、10勝11セーブと見事に抑えの投手をやりとげたのです。

1984年には、先発に転向し、日本シリーズ制覇、セ・リーグ優勝。1988年には13勝7敗、防御率1.70と素晴らしい成績で、最優秀防御率と沢村賞の栄冠を獲ったのであった。2010年現在で、史上最少の勝利数で沢村賞を獲ったのは大野だけである。

1984 大野豊 4 日本シリーズ - YouTube

1984 大野豊 4 日本シリーズ 1984 大野豊 4 日本シリーズ. 13年5月22日 西武ドームにて 日本生命セ・パ交流戦 1引分け3連敗のあと、4連勝でライオンズ..... 1984 大野豊 4 日本シリーズ 1981年(対巨人)→1984年(対中日、阪急)→1988年(対巨人)→1991年(対大洋、巨人...
1993年には、メジャーから大野が欲しいとオファーがあった。今でこそ、メジャーに行き来する時代ではあるが、当時は、野茂英雄もメジャー挑戦していない時代であり、それに、38歳の高齢ということもあるので、条件は破格な内容ではあったが辞退しました。

メジャー挑戦はあっても、メジャーから呼ばれることは異例の出来事であった。

1993 大野豊 2 - YouTube

1984 大野豊 1 1981年(対巨人)→1984年(対中日、阪急)→1988年(対巨人)→1991年(対大洋、巨人、阪神)→1998年(対ダイエー、横浜)... 1992... 1984 大野豊 1 1981年(対巨人)→1984年(対中日、阪急)→1988年(対巨人)→1991年(対大洋、巨人、阪神)→19...

引退後の大野豊・・・

引退直後の1999年、広島の一軍投手コーチを務めたが、チーム防御率は4.78(前年のチーム防御率4.01)で3年連続でチーム防御率がリーグ最下位になるなど投手陣が低迷し、同年に責任を取って退団した。退団後はNHKの解説者、スポーツニッポン(大阪本社)の野球評論家を務める傍ら、2001年に始動したプロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに参加。村田兆治同様、引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、マスターズリーグにおいても140km/hを超える直球を投げるなど、50歳を越えても現役時代を彷彿とさせる姿を見せた。開幕初年度、46歳ながら146km/hの投球を見せ、ファンの度肝を抜いた。これはマスターズリーグの最高球速記録である。社会人野球・鳥取キタロウズのアドバイザーも務めた。
2004年のアテネオリンピック、2008年の北京オリンピックにおいては、星野仙一監督の下で野球日本代表の投手コーチを務め、アテネでは銅メダル獲得に貢献したものの、北京ではダルビッシュ有、涌井秀章、川上憲伸、岩瀬仁紀ら、そうそうたる選抜メンバーを擁したが、中継ぎ専門投手を1人も選考せず、代わりに先発投手に中継ぎをやらせるなどした結果、投手陣崩壊を招き、金メダルを期待されながらメダル無しに終わった。
2010年より、野村謙二郎が監督となる広島のヘッド兼投手コーチに就任したが、前監督マーティ・ブラウンが導入した練習時の投げ込み制限等を撤廃し、先発投手には1試合で7~8イニングを投げるよう求めた。さらにストライク先行を奨励していた前年までの配球を根本的に見直し、バッテリーには「ボール球を有効に使って考える」配球を求めた。このように投手陣の改革を断行した。
しかしオープン戦時点において先発投手陣の調子は全く上がらず、それをカバーするためにペナントレース開幕時には中継ぎ投手を多くブルペンに配置したが、「ブルペンでの球数制限」や「試合前にあらかじめ登板する中継ぎ投手を決めておく」等のブラウン政権時の良い点までも撤廃してしまい、代わりに「ブルペンで調子の良い投手から起用する」という方針を取った。しかし、好調な中継ぎ投手は試合展開に関わらず連投となるなど結果的にシーズン半ばにして故障者が続出。
調子が上向かない投手陣については、地元マスコミなどからも、前年と同様に中継ぎ投手の役割分担を明確化するような意見も相次いだが、こうしたマスコミ・ファンの提言・疑問もあったものの、2010年シーズン中は方針を変えることはなかった。また試合後の大野のコメントからも、コーチとしてどのような指導・対策を行うのか、具体策を伺うことはできなかった[10]ことが多かったことに対してはファンやマスコミから批判や疑問の声が相次いだ。
こうして、キャンプから自己流の調整法を貫いた前田健太が投手3冠(勝利数・防御率・奪三振)のタイトルを獲得する奮闘を見せたものの、最終的なチーム防御率は前年から1.5点近く悪化させて4.80となった。以上のように大野が行おうとした投手陣の改革が全て裏目に出てしまい、また柔軟な対応もできなかったことが2010年におけるチームの低迷に直結してしまう。
このような結果に終わったことで、投手陣指導の最高責任者として去就が注目されていたが、広島球団はヘッドコーチの肩書きを外し投手コーチとしての残留を発表した。Aクラスやポストシーズン再び逃した2012年、背番号24を受け継いだ河内貴哉の2年半ぶりの支配下選手登録と5年ぶりの一軍登板を土産に同オフ退団した。
2013年にプレーヤー部門表彰で野球殿堂入りした。同年からは再びNHK野球解説者・スポーツニッポンの評論家を務める。
2014年の秋季キャンプでは阪神タイガースの臨時コーチを務める
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大野豊という人物を振り返って

広島東洋カープに、テスト生で入団し、22年間カープのユニフォームに袖を通した大野豊。島根の英雄でもある大野は、広島市民球場に、モンキーでやってきたことを思い出します。

大野豊の試合を見ていると、打たれる気がしませんでした。江夏に似ている部分はありますが、ああの独特の投球フォーム同様に、大野の野球人生は特別なものではないでしょうか。
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