鷹の男、【佐々木誠】はメジャーに最も近い男と言われる凄い男だった。
2016年11月25日 更新

鷹の男、【佐々木誠】はメジャーに最も近い男と言われる凄い男だった。

トリプルスリーを意識した3拍子揃った男、ホークスの主力選手だった佐々木誠は、全盛期にはMLBに最も近い男と言われていました。そんな80年代に活躍した佐々木誠の軌跡をご紹介いたします。

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南海ホークスの一番バッターとして盗塁王も2度獲った佐々木誠

佐々木誠(ささき まこと)

佐々木誠(ささき まこと)

1965年10月3日生まれ
身長181㎝、体重85㎏
左投げ、左打ち
ポジション:外野手

90年代のホークス核弾頭として、大活躍した佐々木誠
2度の盗塁王も獲得し、先頭打者で本塁打を放つなど3拍子揃った選手で有名でした。MLBに、すぐでも連れていきたいと、メジャー監督を唸らせた男です。

佐々木誠の獲得タイトルや主な表彰と記録

首位打者:1回 (1992年)
盗塁王:2回 (1992年、1994年)

ベストナイン:6回 (1991年 - 1995年、1997年)
ゴールデングラブ賞:4回 (1991年 - 1994年)
月間MVP:1回 (1991年4月)

オールスターゲーム出場:6回 (1988年、1991年 - 1995年)

佐々木誠のプレースタイル?

トリプルスリーを目指した男

トリプルスリーを目指した男

走攻守の全てを完璧にできる選手として、全盛期には最もメジャーに近い男として称された男だった。
1990年の日米野球の終了時にもメジャー監督に、今からでも連れて帰りたい選手の一人として紹介されたほどである。
実際、目標とする選手に蓑田浩二を挙げて、トリプルスリーを目指していたほどである。
俊足で長打力もあり、1番打者とクリーンナップのどちらでも十分に任せられると川上哲治には評されている[44]。また、パワーとバネを兼ね備えた優れた身体能力があり、正確さがあれば毎シーズン首位打者を狙えるとも言われた[44]。土井正博は「ケガさえなければコンスタントに打率.350を達成できる、イチローにも劣らない打撃技術の持ち主」と評している[45]。

最も自由に打たせてもらえる打順だとして1番打者に対するこだわりが強かった[46]が、西武移籍に際してはそれを続けるのは無理だろうと語っている[14]。1番打者としては珍しく、積極的に早いカウントでも打ちにいき[8][44]、対戦した投手から嫌がられていた[47]。自身をアベレージヒッターとして認識してライナー性の打球を放つことを心がけており、その延長として長打が加われば良いと考えていた[48]。

足を高く上げる一本足打法のような、独特の打撃フォームが特徴だった[1][44]。

佐々木誠の生い立ちからプロに入るまでの軌跡

1965年に岡山県倉敷市に生まれ、水島工業高校で甲子園を目指す高校球児だった。高校野球時代は投手として活躍したが、投手ではなく打者として見込まれ1983年のドラフトに6位で南海ホークスに指名を受けて入団する運びとなった。

一年目のプロ生活は、まだ高校生気分が抜けない部分があり、4年間プロでやって、活躍できなかったら野球をやめるつもりだったらしい。

しかし、山本一義コーチ陣に厳しい練習を受けて2年目の1985年には早くも1軍で54試合出場する活躍を見せることになる。

プロに入ってからの佐々木の活躍。

4年目の1987年には6月30日の対日本ハム戦でリーグ10人目となる2試合連続初回先頭打者ホームランを達成する[3]など、レギュラーとなって125試合に出場し、リーグ9位の打率.288を記録している[1]。1988年は初めてオールスターゲームに出場した。夏場にダイエーへの球団売却が決まり言葉にできないほどショックを受けた[2]ものの、同年の大阪球場最後の試合やシーズン最終戦でともに本塁打を放つなどの活躍で人気選手となっていった[1]。さらにオフの日米野球では翌年から本拠地となる平和台球場で同年のワールドシリーズMVPのオーレル・ハーシハイザーから本塁打を挙げている。ダイエーホークスのユニフォーム発表会では加藤伸一とともにモデルを務めるなど注目を集め、監督の杉浦忠からも全国区のスターになれると評された[2]。なお、新ユニフォームの写真を用いた垂幕広告が博多駅の井筒屋の壁面に飾られていた。

南海・佐々木誠のホームラン - YouTube

(再アップ) 1988.10.10
約80%の大幅増の年俸3,200万円(推定)[4]となり、結婚もして[5]迎えた1989年はハーシハイザーから打った本塁打のイメージを引きずり、長打を狙って打撃のバランスが崩れ、打率が.235と大きく悪化し三振も激増した[1]。翌1990年は2番打者を任されたがバントやエンドランなどを打席で考えすぎてパニックに陥ったという[6]。後に打順は1番に変わり、同年はリーグ最多の33二塁打を記録し、日米野球では21打数9安打の活躍で敢闘賞を受賞した[7]。1991年は初の3割となる打率.304を記録し、1番打者ながら21本塁打を放った。また、初のゴールデングラブ賞とベストナインに選ばれている。

福岡ダイエーホークス 佐々木誠-加藤哲 - YouTube

89年近鉄優勝決定試合
前年の成績で自信を付けた[8]、1992年は念願だったという開幕戦での初回先頭打者アーチを達成し[9]、オールスターゲームでは第3戦で北別府学からソロ本塁打を放つなどの活躍で優秀選手賞を受賞した[10]。同年は 1964年の広瀬叔功以来NPB史上2人目となる首位打者と盗塁王の同時獲得[9]を達成し、前年に続いてゴールデングラブ賞も受賞など、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。なお、同年の平和台球場における対西武戦でレフトへの打球がワンバウンドして外野フェンスと上部の金網との間に挟まり、三塁まで到達したもののボールデッドのため二塁に戻るよう塁審から指示が出されてベース上でへたり込んだシーンがプロ野球珍プレー・好プレー大賞で取り上げられた。オフの契約更改では3,300万円増でチーム最高となる年俸9,800万円(推定)となっている[9]。
1993年は前年苦手にしていた渡辺久信から開幕戦で猛打賞を記録する[11]など好調なスタートを切ったが、5月22日に打撃練習で右肋間筋に挫傷を負い、一軍登録を抹消された[12]。同年のオールスターゲームでは第1戦で決勝点となる本塁打を含む3安打を挙げ、好返球による補殺もあって優秀選手賞を受賞している[13]。レギュラーシーズンでは3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインを受賞した一方この年から本拠地になった福岡ドームの広さにチーム全体で苦しみ佐々木も本塁打はわずか7本に終わる。オフに秋山幸二、渡辺智男、内山智之との大型トレードで村田勝喜、橋本武広とともに西武ライオンズに移籍し、2,200万円増の年俸1億2,000万円(推定)で契約を更改している[14]。このトレードに際しては、チームが求めている長打力のある左打者で[15]、かつ秋山と同等の守備能力を持ち[16]、年齢が若くFA権取得まで2年ある点[15]などが西武側から評価されたという。一方、佐々木は自分が唯一尊敬する外野手である秋山とのトレードという点で驚いた[6]が、リーグ4連覇中の強豪に移籍する事を前向きに受け止めたという[17]。秋山については1年後にFA宣言して移籍する可能性も指摘されており、村田と佐々木という若い主力を獲得した西武側にメリットが大きいトレードだとも言われた[15]。

西武、阪神で過ごしたプロ生活の後半戦

西武に移籍した佐々木を待っていたのは、2番打者だった平野兼の退団に伴って、1番辻に続く平野の後を任せられることだった。

実際には、2番を任せられたのは、数試合のみであり、ほとんど3番打者を任せられることが多かった。オールスターゲームでも斎藤雅樹から2ラン本塁打を放つなどMVPも受賞する活躍を見せたが、ファンからは秋山の代わりを期待され、本塁打を期待したが、自分の持ち味を生かすことに専念して、自己最多の84打点を挙げて、2度目の盗塁王も受賞した。

1994.6.10 西武vsダイエー9回戦 3/10 - YouTube

木村恵二 田辺徳雄 佐々木誠 清原和博
1995年には、腰痛に苦しみながらも全試合に出場した。オフにはFA権を取得するとMLBからのオファーもあったが、家族との生活を考えてMLBを断った。

FA権を宣言したうえで、西武に再契約金1億円と年棒2億円で西武に残留した。

1996年からは故障が増えて、1998年のオフには阪神タイガースに金銭トレードで移籍となった。
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