西武とダイエーの大型トレード
1993年、前任の田淵幸一監督に代わり、福岡ダイエーホークスの監督に就任したのは根本陸夫監督。根本は、1年間チームを観察し、チームが勝てない原因は、同好会のような体質にあると考えました。そして、その年のオフ、チームの体質を変えるべく、西武ライオンズ・森祗晶監督との間でトレードを敢行します。両チームとも、活躍選手3人が動いた大型トレード。対象者は次の通りです。
西武ライオンズ(3名) | 福岡ダイエーホークス(3名) |
---|---|
秋山幸二(外野手) | 佐々木誠(外野手) |
渡辺智男(投手) | 村田勝喜(投手) |
内山智之(投手) | 橋本武広(投手) |
ダイエーにとっては、主力選手の佐々木、村田を放出してまでのトレード。根本は、犠牲を払ってでも、常勝集団・西武のマインドを取り入れることを重視しました。そのマインドを持つ一人が、自身が西武の監督時代に獲得した秋山幸二です。
西武→ダイエー(3名)
秋山幸二
秋山幸二は、森・西武時代、6度の日本一、2度のリーグ優勝に貢献した球界を代表する強打者です。清原和博とのAK砲は、当時最強のクリーンナップと評されました。走攻守を兼ね備えた身体能力を持ち、1987年には本塁打王、1990年には盗塁王を獲得。「バック宙ホームイン」は、秋山の代名詞ともいえる彼ならではのパフォーマンスでした。1993年オフ、西武入団当時の監督だった根本監督から熱望され、3対3の大型トレードでダイエーに移籍します。
ダイエーでは、成績はあまり伸びなかったものの、弱小チームの体質改善に貢献します。秋山の背中を見て、小久保裕紀、松中信彦、井口資仁、城島健司ら多くの若手選手が育ちました。そして、移籍6年目の1999年、王貞治監督のもと、西武時代の盟友・工藤公康とともにチームを(ダイエーとしての)初優勝に導きます。中日との日本シリーズでは、MVPを獲得する活躍を見せました。その後のチームの成長は周知の通りで、常勝集団・ダイエー→ソフトバンクの礎を築いた第一人者と言っても過言ではないでしょう。
2002年に引退。2022年終了時点で、437本塁打は歴代16位、1312打点は歴代15位、1231得点は歴代13位、303盗塁は歴代30位です。
ダイエーでは、成績はあまり伸びなかったものの、弱小チームの体質改善に貢献します。秋山の背中を見て、小久保裕紀、松中信彦、井口資仁、城島健司ら多くの若手選手が育ちました。そして、移籍6年目の1999年、王貞治監督のもと、西武時代の盟友・工藤公康とともにチームを(ダイエーとしての)初優勝に導きます。中日との日本シリーズでは、MVPを獲得する活躍を見せました。その後のチームの成長は周知の通りで、常勝集団・ダイエー→ソフトバンクの礎を築いた第一人者と言っても過言ではないでしょう。
2002年に引退。2022年終了時点で、437本塁打は歴代16位、1312打点は歴代15位、1231得点は歴代13位、303盗塁は歴代30位です。
1995.5.7 西武vsダイエー7回戦 2/6
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渡辺智男
渡辺智男といえば、まずは、高校時代に伊野商のエースとして、KKコンビのいたPL学園を(準決勝で)破り、選抜優勝を果たした甲子園のヒーローとして有名です。卒業後はNTT四国で社会人野球を経験し、1988年オフにドラフト1位で西武に入団。奇しくも、高校時代のライバル、清原和博とチームメイトになります。
西武では、入団から3年連続で二桁勝利を挙げる活躍で、1991年には最優秀防御率のタイトルを獲得。1990年の日本シリーズでは、巨人の桑田真澄と選抜以来の投げ合いとなり、完封勝利を果たしました。しかし、1992年以後はイップスと怪我により成績が低下。1993年オフ、ダイエーに移籍します。
ダイエーでは、初年こそリーグ最多の無四球試合を記録しますが、成績は下降の一途。1998年に西武に復帰し、その年に引退しました。
西武では、入団から3年連続で二桁勝利を挙げる活躍で、1991年には最優秀防御率のタイトルを獲得。1990年の日本シリーズでは、巨人の桑田真澄と選抜以来の投げ合いとなり、完封勝利を果たしました。しかし、1992年以後はイップスと怪我により成績が低下。1993年オフ、ダイエーに移籍します。
ダイエーでは、初年こそリーグ最多の無四球試合を記録しますが、成績は下降の一途。1998年に西武に復帰し、その年に引退しました。
1995 渡辺智男 1
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内山智之
内山智之は、1990年オフにドラフト5位で西武に入団。1992年に初登板を果たすと、1993年には、先発・中継ぎで31試合に登板し、リーグ優勝に貢献しました。その年のオフ、ダイエーに移籍します。
ダイエーでは、初年から先発ローテーションに入り、開幕第2戦のオリックス戦で登板。エース野田に投げ勝ち、初戦を白星で飾ります。その年、成績は6勝11敗と大きく負け越すも、その後は先発・中継ぎとして低迷期のチームを支えました。
1997年にダイエーを退団し、なんとMLBに挑戦。フィラデルフィア・フィリーズ傘下の2Aのチームでメジャー昇格に挑戦しますが、機会はなくそのまま引退に至っています。
ダイエーでは、初年から先発ローテーションに入り、開幕第2戦のオリックス戦で登板。エース野田に投げ勝ち、初戦を白星で飾ります。その年、成績は6勝11敗と大きく負け越すも、その後は先発・中継ぎとして低迷期のチームを支えました。
1997年にダイエーを退団し、なんとMLBに挑戦。フィラデルフィア・フィリーズ傘下の2Aのチームでメジャー昇格に挑戦しますが、機会はなくそのまま引退に至っています。
1996.6.13 近鉄vsダイエー12回戦 6/23
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ダイエー→西武(3名)
佐々木誠
佐々木誠は、南海時代から在籍した選手で、秋山同様、走攻守兼ね備えた身体能力の高さが特徴です。入団3年目の1987年にリーグ8位の打率.288を記録すると、1991年には3割に到達。1992年には打率.322で首位打者、40盗塁で盗塁王のタイトルを獲得します。9年間、チームの中心打者として活躍しました。西武からトレードの打診があったこともあり、根本監督のチーム改革の一環で、西武に移籍します。
西武では、清原の前の3番や1番を打つことが多く、移籍初年の1994年には、37盗塁で盗塁王のタイトルを獲得します。さらに、20本塁打、84打点を挙げ、リーグ優勝に貢献しました。1997年には、リーグ8位の打率.304を記録。しかし、その後は怪我や腰痛の影響で成績が下降し、1998年オフに阪神に移籍しました。
西武では、清原の前の3番や1番を打つことが多く、移籍初年の1994年には、37盗塁で盗塁王のタイトルを獲得します。さらに、20本塁打、84打点を挙げ、リーグ優勝に貢献しました。1997年には、リーグ8位の打率.304を記録。しかし、その後は怪我や腰痛の影響で成績が下降し、1998年オフに阪神に移籍しました。
1994.6.10 西武vsダイエー9回戦 3/10
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村田勝喜
村田勝喜は、星稜高からドラフト6位で南海の最終年に入団。2年目の1989年から先発ローテーションの一員となり、1990年にはエースナンバー背番号18を引き継ぎます。その期待に応え、1991〜1993年は3年連続二桁勝利を記録。ダイエー初期のエースとして活躍しました。しかし、根本監督は、チーム改革断行のため、その村田をトレードに出す英断を下します。
チーム事情の良い西武ではダイエー以上の活躍が期待されましたが、移籍後は不振を極め、1年目4勝、2年目0勝に終わります。1995年オフ、2対2の交換トレードで、中日に移籍しました。
チーム事情の良い西武ではダイエー以上の活躍が期待されましたが、移籍後は不振を極め、1年目4勝、2年目0勝に終わります。1995年オフ、2対2の交換トレードで、中日に移籍しました。