「ドクターK」日本人メジャーの道を切り拓いた野茂英雄の足跡を辿る!
2016年11月25日 更新

「ドクターK」日本人メジャーの道を切り拓いた野茂英雄の足跡を辿る!

ドラフト8球団指名、トルネード投法、日本人メジャーで初めての成功。輝かしい栄光に包まれた野茂英雄。でもその野球人生は決して平坦ではありませんでした。メジャー先駆者の足跡を追います。

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ルーキーイヤーに圧倒的な存在感を示す

新人イヤーに主要タイトルを総ナメ

新人イヤーに主要タイトルを総ナメ

「ドクターK」の異名で呼ばれ、圧倒的な強さを誇った。
1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。
その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利。

同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。
5試合連続2桁奪三振、三振奪取率10.99など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。

野茂より前の時代、ルーキーイヤーに大記録を打ち立てた投手「木田勇」

近鉄球団との確執

1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放ったとされている。

球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に仰木彬監督時代から球団に対して様々な不満があったことを語っている。

球団は野茂が近鉄でプレイする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレイは出来ないためであるが、これがメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。

鈴木啓示監督との確執

投手出身の監督・鈴木啓示との確執

投手出身の監督・鈴木啓示との確執

野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督の仰木彬はこれを快諾し、調整方法も本人に任せたため、仰木を信頼して尊敬するようになった。
これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。

更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。
練習や調整方法などの考え方の違いが元で野茂と鈴木は反りが合わず、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。

結果、交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦。

メジャー挑戦

年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円に

年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円に

1995年2月8日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。
年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。

野茂が渡米した当時のMLBは前年(1994年)からの長期ストライキで1995年シーズンの開始が1ヶ月近く遅れていたものの、5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。

29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月はピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。

後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。

日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。シンシナティ・レッズとのディヴィジョンシリーズでは第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。

1995 野茂英雄(Hideo Nomo) 1 メジャーデビュー戦 全投球 - YouTube

3年430万ドルで契約を延長

1996年のスプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。
4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球で日米通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。

メッツ移籍→タイガース→レッドソックス→ドジャース復帰

メジャーを渡り歩いた「ドクターK」

メジャーを渡り歩いた「ドクターK」

1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約

しかし3月24日に40人枠から外れ、30日に解雇。4月1日にカブスとマイナー契約を結ぶが、3登板で解雇され、4月29日にブルワーズと1年25万ドルで契約。5月9日にメジャー復帰。前半戦を13試合の登板で7勝2敗・防御率3.95・WHIP1.37の成績で折り返す。

8月2日のメッツ戦ではドジャースとメッツでバッテリーを組んだマイク・ピアッツァと対戦。9月8日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。

2000年1月22日にデトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約(2年目は年俸550万ドルの球団オプション)

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