【7対29】1985年夏の甲子園で屈辱的敗戦の東海大山形【どんな試合だったのか】
2017年6月20日 更新

【7対29】1985年夏の甲子園で屈辱的敗戦の東海大山形【どんな試合だったのか】

1985年の第67回夏の甲子園2回戦で、桑田・清原率いるPL学園に7-29というすさまじいスコアで敗戦した、東海大山形高校。甲子園は魔物が住む、と言われますが、この試合を機に高校野球というものが変わり始めた、意義のある試合でもあります。

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7対29の歴史的敗戦。

東海大山形 001 000 015= 7
PL学園  254 362 52X=29

東海大山形高校 傷だらけのエース。

1985【記録ずくめ】PL学園×東海大山形 - YouTube (1880925)

山形県大会で強力なライバル、日大山形を決勝で7-6で破り、晴れて1985年の甲子園出場を果たした東海大山形高校ですが、よりにもよって甲子園での相手は、現在でも史上最強とも言われるPL学園。
しかも、エースの藤原投手はこの時故障を抱えていました。
そんな4番・ピッチャー・背番号1の物語ですが、この中で印象に残ったのが藤原安弘(東海大山形)の話です。彼はもともと姫路の出身で、山形へ野球留学をしたのでした。そこで彼は瞬く間に主戦となり活躍します。2年夏も決勝まで行くが、日大山形に敗れ、3年春のセンバツも逃し、あとは夏のみ。もちろん最後なので必死に戦い、勝ち上がり、そして迎えた決勝は再び日大山形。

試合は途中まで4対2と東海大山形がリードするものの、8回表藤原のヒジがブチっと切れ、棒球を打たれ、ついに試合は4対6とひっくり返され、そのまま9回ウラに突入。この回2死一・二塁から藤原に二塁打が出て1点を返します。続く5番打者がヒットを放ち、二塁走者の藤原まで還りとうとう7対6で逆転サヨナラ勝ち。東海大山形は3年ぶり2回目の甲子園出場を果たすのです。

しかし喜びはここまで。藤原の右ヒジは腫れあがり、練習でろくにキャッチボールもできないのです。そんな中大会の組み合わせ抽選があり、日程は大会第7日の第2試合、これはまあ藤原のヒジが少しでも良くなるかなあと思っていた矢先、相手がなんと桑田・清原最後の夏であるPL学園(大阪)に決まりました。藤原は「決して勝てる相手ではない。せめて自分の納得できるボールを投げられれば」。ただそれだけの思いでマウンドに立ったのでした。

どんな試合だったのか。

PL学園 初回からホームラン

PL学園 初回からホームラン

初回から、ホームランを打たれ、東海大山形の地獄の1ページが始まります。

ホームラン連発ではなく、つなぐ野球で点を取られた。

ヒットが止まらない

ヒットが止まらない

特筆すべきなのは、32安打のうち4分の3にあたる24安打が単打だったということだ。中村監督が「大振りしていた打者はほとんどいなかった」というように、コンパクトに振りぬく打撃を実践していた。清原のような特大アーチだけでなく自在に攻撃できるのがPLの強みだった。
この年は、「桑田・清原のいたKKコンビのPL学園」とひとくくりにされがちですが、この試合に関しては、清原だけで取ったわけではなく、ナインのヒットに次ぐヒットで得点を重ねていったという試合だったのですね。
20点取ってもまだセーフティーバントを決めるPL学園。

20点取ってもまだセーフティーバントを決めるPL学園。

まさに「容赦ない」攻撃ですね。

東海大山形がだらしなかったわけではない。

東海大山形の一番右上の数字に注目。

東海大山形の一番右上の数字に注目。

この後、惜しくもエラーが出てしまうのですが、7回まで、両チームのエラーは「0」です。これだけの点差がついても、両チームともだれることなく、真摯にプレーをしていたことがうかがえます。

最終回は桑田投手に替わって「清原投手」。

清原「投手」。

清原「投手」。

なんと、清原が「投手」に。
これを単に見ただけでは、「あまりにもスコアが開きすぎて、PL学園は遊びに出た」という非難がありますが、どうもそうではなさそうです。

この点差があるので、さすがに桑田投手を温存したかったのか、あるいは桑田がなんらかの不調があったのかはわかりませんが、桑田を降板させ、2番手の投手を送ります。

しかし、この投手が東海大山形打線に捕まります。
この点差でも最後まで野球を続けようという、東海大山形の打線には敬意です。

そのため、収拾がつかなくなり、PL学園はあわてて、かつて投手経験のあった清原を投手として送ったという説が有力です。

そして、清原投手から押し出し四球を出させ、PL学園から7点の得点を、東海大山形はもぎ取ります。
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