慶應高校での学生生活を捨て、自分自身を鍛え直す為に高校テニス界の名門校として知られていた柳川高等学校への転校を決意
慶應での生活は、中学頃から覚えた麻雀にうつつを抜かすものでした。このままではいけないという思いから周囲の反対を押し切って決意したのが強豪柳川高校への編入でした。
柳川高校ではインターハイのシングル、ダブルス、団体戦の三冠を達成。1985年には柳川を休学してまでヨーロッパ遠征へと旅立ちます。遠征後、東京で練習をしていた松岡はボブ・ブレッドとの出会いを果たします。それが松岡修造のターニングポイントとなりました。
via mainichi.jp
「修造、ボブからの伝言だ。明日にでもアメリカに来い。日本に居たら強くなれないよだって・・・」「やっぱり君の力を認めてくれたんだよ。よかったな・・・」
ボブ・ブレッドの言葉だけでアメリカ行きを決意したのです。
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渡米先の現地のハイスクールに通って卒業し、アメリカの大学に進学するという条件で泣きながら必死の説得を行った。子供の頃から言い出したら絶対に聞かない松岡の性格をよく知っていた母はこの説得で決意の固さを知りようやく納得し、同年10月のジャパン・オープン・テニス選手権でシングルス予選を勝ち上がりツアー本戦初出場を果たした後に松岡は単身アメリカへ渡った。
ボブ・ブレッド
ブレッドは「つまらない恐怖心を持つな!人間には思いもよらない能力がある。5年間頑張ってみろ。運がよけりゃシュウゾーは世界100位内に入る力がある」と松岡を力強く叱咤激励した。実際の所自分の実力がテニス王国のアメリカでどの程度通用するのか試してみたい気持ちもあった松岡は、この提案に乗り本格的にプロ大会への出場を決意する。
引用元:ウィキペディア松岡修造
英語を習得し、高校卒業をした松岡は大学進学をしようとしましたが、ブレッドはプロ大会への出場を勧めました。
意外ながらアメリカに行った時点でもプロを目指した訳ではなかったのです。出場した大会で結果を残した松岡にブレッドはプロ入りを勧めます。
引用元:ウィキペディア松岡修造
英語を習得し、高校卒業をした松岡は大学進学をしようとしましたが、ブレッドはプロ大会への出場を勧めました。
意外ながらアメリカに行った時点でもプロを目指した訳ではなかったのです。出場した大会で結果を残した松岡にブレッドはプロ入りを勧めます。
ブレッドの言葉を受けてプロにはなったものの、父からはプロ転向に際し一切の援助は行わないと条件を付けられていたため、松岡はまず金銭の工面に苦労する事となった。
父はもはや見放していたようですね。母は大反対。
選手生命を危ぶまれる怪我
日本人選手としては1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たし、JTAランキングにおいても1981年から7年連続で年間1位の座を保持してきた福井烈を抜き日本人選手トップに立った。
5年で100位以内に入れたら上出来、というブレッドの言葉でしたが松岡は3年でそれを達成しました。海外を拠点にしてプロのサーキットを回るというスタイルは松岡がパイオニアとなりました。それまでの日本人はあくまでも日本を拠点とした形だったので、国内大会に出場しないプロ選手は初めてです。
1988は好成績を収めてこれからの活躍が期待されていましたが、89年初頭からケガとの戦いが始まりました。
ハイネケン・オープンではスティーブ・ガイ(NZL)と組んで出場したダブルスでは決勝でジョン・レッツ&Bruce Man-Son-Hingペアを7-6,7-6で倒しATPツアー初優勝をする等引き続き好成績を収めていった。
via sportsphoto.pro
両膝の半月板を損傷するという故障に見舞われ、3月のマイアミ・マスターズ2回戦敗退を最後にツアーの一時離脱を余儀なくされる。
松岡修造VSレンドル5-3 1990年ジャパンオープン - YouTube
via youtu.be
1990年のセイコースーパーテニスでは転倒した際に左足首の3本の靭帯全てを断裂するという大怪我を負い選手生命さえ危ぶまれたがこれも諦めずリハビリを続け、1991年にはツアー復帰。
リハビリからの復活そしてウィンブルドン
1992年には4月の韓国オープン決勝で、トッド・ウッドブリッジ(オーストラリア)6-3,4-6,7-5のフルセットで下し、日本の男子選手として初のATPツアーシングルス優勝を達成。
6月のイギリス・クイーンズ・クラブ選手権では2回戦でマラビーヤ・ワシントン(アメリカ)を4-6,7-5,6-3の逆転で、3回戦で第5シードのゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)を6-4,3-6,9-7のスコアでそれぞれ下すと、準決勝では当時世界ランク2位、第1シードのステファン・エドベリ(スウェーデン)と対戦。これを1-6,7-6(6),10-8の接戦で制す番狂わせを演じ、ウェイン・フェレイラ(南アフリカ)との決勝戦に進出。決勝ではフェレイラに3-6,4-6のストレートで敗れ準優勝に終わったが、この活躍により翌週のATPシングルスランキングで自己最高の46位を記録した。