井原正巳(1996-1999)
・代表や所属チームの横浜では4番をつけていて代名詞みたいになっていましたが、ドーハの時は7番をつけていました。とあるクイズ番組で早押し問題として出題された際に、センターバックでは珍しい番号だからか全然正解が出ていませんでした。
柱谷哲二(1991-1995)
・オフト監督時代は本人を含め選手のほぼ全員が指導法に反発していましたが、徐々に結果が出ても最後まで反発していたラモスを孤立させなかったのはこの方がチームのまとめ役だったからではないかと思います。
加藤久(1985-1987)
代表でも国際Aマッチ61試合に出場し1987年のソウルオリンピック予選までの2年間キャプテンを務めた。現役時代に異色の経歴があり、筑波大学大学院の修士課程に進学するため選手活動を休止しその後早稲田大学に籍を置き後に准教授に就任したり、1991年に日本サッカー協会の強化委員に選出されたりしていた。また執筆活動も行いサッカーの技術書を出版している。
1994年に現役引退。その後は指導と協会に携わり、現在はジュビロ磐田のゼネラルマネージャーを2014年から務めている。
・サッカー選手でキャプテンのイメージが強い人の一人で、引退してからもキャプテンと紹介されることが多いですね。経歴もですが雰囲気が知的に感じますね。
田口光久(1982-1984)
・引退後はとんねるずの生でダラダラいかせてのPK対決企画で木梨憲武とコンビを組んで当時の名選手と対戦していたことでご存知の方も多いのではないでしょうか。
前田秀樹(1980-1981)
現役引退後は解説者や水戸ホーリーホックの監督などの指導者を務める。現在は東京国際大学のサッカー部監督に2008年から就任している。
・1993年にはテレビ東京で中継されたアメリカワールドカップアジア地区最終予選のイラク戦(ドーハの悲劇)で解説を務めていましたね。
落合弘(1978‐1980)
📕誌面公開📕
— URAWA MAGAZINE →好評発売中 →表紙 長澤和輝 (@Uramaga) October 17, 2017
浦和レッズの前身である三菱重工、その歴史を辿る連載。
第8回は、三菱重工で前人未到の連続出場記録を成し遂げた、落合弘氏にお話を伺いました。
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・60年代後半には得点王になるなど攻撃の柱でしたが、70年代半ばになってからは守備的なポジションを主に任されユーティリティプレイヤーとして活躍していましたが、日本リーグのベストイレブンや日本代表に定着したのはDFにコンバートしてからで、当時のサッカー界を引っ張っていったのはそのころからのように思います。