日本に溶け込み野球ファンを魅了させたトーマス・オマリー
トーマス・オマリーの獲得タイトル・主な表彰と記録
首位打者:1回 (1993年)
最高出塁率:4回 (1992年 - 1995年)
最多勝利打点:2回 (1995年、1996年)
MVP:1回 (1995年)
ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
ベストナイン:1回 (1995年)
オールスターゲームMVP:1回 (1993年 第2戦)
日本シリーズMVP:1回 (1995年)
月間MVP:3回 (1994年5月、1995年4月、1995年8月)
優秀JCB・MEP賞:1回 (1995年)
最高出塁率:4回 (1992年 - 1995年)
最多勝利打点:2回 (1995年、1996年)
MVP:1回 (1995年)
ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
ベストナイン:1回 (1995年)
オールスターゲームMVP:1回 (1993年 第2戦)
日本シリーズMVP:1回 (1995年)
月間MVP:3回 (1994年5月、1995年4月、1995年8月)
優秀JCB・MEP賞:1回 (1995年)
トーマス・オマリーのプレースタイル
選球眼に優れたアベレージヒッター
外国人助っ人選手特有のパワーはしっかりとあるが、決して本塁打を狙う選手ではなく、球を選りすぐり、しっかりと安打が打てる選手であった。
当時の様々な監督が欲しがったほどの安定した打撃が売りで、守備もゴールデングラブ賞を獲るほどの練習熱心な選手である。
当時の様々な監督が欲しがったほどの安定した打撃が売りで、守備もゴールデングラブ賞を獲るほどの練習熱心な選手である。
選球眼に優れた選手で、長打より安定した安打を放つことで活躍した選手でした。さらに配球を読む能力にも長けていて、日本に在籍した6年間、全て3割を超える打率を残し、外国人初の6年連続打率3割を達成したことでも、高い能力を示しているのです。
長嶋茂雄のように、スイングした時にヘルメットを飛びやすくするために小さなヘルメットをかぶり打席に立っていたことも有名です。
長嶋茂雄のように、スイングした時にヘルメットを飛びやすくするために小さなヘルメットをかぶり打席に立っていたことも有名です。
メジャー時代のトーマス・オマリーは・・・
1982年に、サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たしました。9年間、アメリカで活躍するが、メジャーに定着した選手ではありませんでした。
以後、複数の球団を渡り歩きますが、1983年にそこそこの成績を残せただけで、レギュラーにもなれませんでした。
そんな頃、日本への話が舞い込んできます。
そんな頃、日本への話が舞い込んできます。
日本にやってきた先は、関西のメッカ!阪神タイガースに入団
1991年に阪神タイガースに入団し、来日。初の春季キャンプでは川上哲治から『今年の外国人選手では一番すばらしい』と評価される。
ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていた。これはアメリカ時代[1]のシャツをそのまま愛用していたためである。また、ベンチで帽子を前後逆に被る、メジャーリーグにある『逆転のおまじない』をベンチに持ち込んだ。翌1992年から亀山努らナインがオマリーに倣って帽子を逆にする姿が恒例となった。
1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックが阪神に入団する。このパチョレックとのコンビで、新庄剛志、亀山努ら若手選手と共に低迷していた阪神の2位躍進に貢献。同年はパチョレックの入団に伴い三塁に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得した。
阪神トーマス・オマリーのバッティングに対する解説 - YouTube
トーマス・オマリー 岡田彰布
via youtu.be
1993年は、オールスターゲーム第2戦でMVPを獲得した。ヒーローインタビューの時の『ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番やー!)』を決まり文句とした。また、オマリーと共に在籍した外国人選手のパチョレック(同年退団)と郭李建夫が好調の時、当時の日本野球機構の規定では外国人選手が2人までしか出場できないことから『PKO問題』と呼ばれていた。
さらに同年は、首位打者のタイトルを獲得した。タイトル争いに際しては、横浜のロバート・ローズと最終戦まで競り合い、執念を見せた。10月20日終了時点で、ローズは2試合残して480打数157安打で打率.3271、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率.3264であり、10月21日に阪神が全日程を終了し、10月22日にダブルヘッダーで横浜が全日程を終了する予定だった。オマリーは最終戦、1打席目にヒットを放って打率.3279とローズを逆転したが、試合の日程上再逆転の可能性もあったため、ベンチに退かずに第2打席も登場して意表を突くセーフティバントを決めて打率を.3294に伸ばしてベンチに退いた。翌日、横浜は最終ダブルヘッダーを迎え、1試合目にローズは4打数1安打で打率を.3264に下げ、2試合目は再逆転を狙って1番打者で登場するも、2打席凡退して再逆転がほぼ不可能になって(残り3打席連続安打でも.3292で逆転不可能)ベンチに退いたため、オマリーが首位打者を獲得した。
via www.fujitv.co.jp
しかし、助っ人としては本塁打が少ないことで球団の方針から外れ、1994年オフに自由契約となった。オマリー自身も、オールスターゲームで当時巨人監督の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールするなど、阪神のフロントに不信感を募らせていた。
阪神時代は神戸の自宅に当時100万円相当のFAX機器を設置し、アメリカに住む両親と毎日のように連絡を取り合っていた[2]。
阪神タイガースからヤクルトスワローズへ。
1995年、オリックス・ブルーウェーブとの争奪戦の結果、ヤクルトスワローズに入団。同年は打率.302、打点87を記録、自己最多の31本の本塁打を放ちチームのセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。ヒーローインタビューの決め台詞も「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!(ヤクルトファンの応援ください)」に変わった。
オリックスとの日本シリーズでもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献。この時の小林宏投手との14球にわたる対戦は、「小林-オマリーの14球」として同年日本シリーズの名場面として語り継がれている。同年のシーズンMVPを獲得。日本プロ野球史上外国人選手としては初(2014年シーズン終了時現在で唯一)の、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターゲームの3つでMVPを獲得した選手となった。
1996年、外国人選手初の6年連続打率3割を達成しキャリアハイの打点を記録したが、同年オフに監督の野村克也が巨人を退団した落合博満の獲得を強く望んだため(落合の入団は日本ハムファイターズとの争奪戦に敗れて実現せず)、契約上の問題が生じたとしてこの年限りでヤクルトを退団した。その後西武ライオンズが獲得調査との報道があったが実現せず、テキサス・レンジャーズに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されそのまま現役を引退。
1995日本シリーズ 小林・オマリーの14球 - YouTube
via youtu.be
身長186cm、体重89kg
右投げ左打ち
ポジション:一塁手、三塁手
1991年に海の向こうからやってきたトーマス・オマリー