【藤川球児】広末涼子と同級生!? 火の玉ストレート誕生前の球児の球歴
2025年5月18日 更新

【藤川球児】広末涼子と同級生!? 火の玉ストレート誕生前の球児の球歴

2025年より阪神タイガースの監督に就任した藤川球児。現役時代は、"火の玉ストレート" と呼ばれる "魔球" で活躍した名投手ですが、魔球誕生以前にもたびたび話題になっていた選手でした。球児という名前、ドラフト1位、広末涼子と同級生など、火の玉ストレート誕生前の藤川球児のエピソードを振り返ります。

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甲子園出場は高二の夏

兄の影響で野球を始めた球児は、兄と同じく高校野球の名門・高知市立高知商業高校に入学。甲子園には2年生の夏、1997年の第79回全国高等学校野球選手権大会に、3年生の兄・順一とともに出場しました。球児は投手、兄は捕手という兄弟バッテリーです。

第1回戦の相手は、北北海道代表の旭川大学高校。球児は4回裏からリリーフ登板し、残りのイニングを無失点に抑える好投を見せます。打線も着実に追加点を重ね、6対3で旭川大高に勝利しました。

第2回戦の相手は、京都府代表の平安高校。エースで4番の川口知哉(後にオリックスに入団)を擁する優勝候補です。球児は先発として登板しますが、自らのミスもあり初回に4失点。味方打線も川口の前に2安打完封を喫し、0対5で平安に敗れました。球児も10奪三振を奪う好投を見せましたが、初回の失点が最後まで響く結果となりました。
藤川 球児(高知商) 1997年
 明徳義塾の厚い壁に阻まれ、甲子園出場は2年夏の第79回大会だけ。1歳上の兄・順一捕手とのバッテリーが話題になった。現在とは違い、ワインドアップ投法。線は細いが球威はあった。最速142キロの速球が、兄のミットで小気味よい音をたてた。2回戦で川口知哉のいる平安に敗れた。

藤川球児

【藤川球児引退】少年時代からプロ引退までの軌跡

ドラフト1位で阪神に入団

1998年、3年生の春・夏はともに高知県大会で明徳義塾高に阻まれ、甲子園出場は果たせませんでした。しかし、その年のドラフト会議では、阪神タイガースが球児を1位指名。翌年就任した野村克也監督のもと、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせました。因みに、同年に高校生でドラフト1位指名を受けた選手には、松坂大輔(西武)、東出輝裕(広島)、古木克明(横浜)、實松一成(日本ハム)らが名を連ねています。

藤川球児

【藤川球児 ストレート】華麗なフォームから火の玉ストレートで三者連続三振は圧巻!高知商2年生で背番号9で甲子園出場し1998年ドラフト1位で阪神入団。プロ2年目背番号30時代からの成長ぶりも見もの

2003年4月11日の巨人戦

入団1年目の1999年は2軍で体力強化に専念し、1軍初登板は、2000年3月31日の横浜戦でした。2002年に星野仙一監督が就任すると、背番号をそれまでの「30」から球児(きゅうじ)に因んだ「92」に変更。2002年9月11日のヤクルト戦では、8イニングを初回の真中満のホームランによる1安打1失点に抑え、見事な投球でプロ初勝利を挙げました。

そして、阪神が優勝した2003年、チーム快進撃の起点となった、あの伝説の "2003年4月11日の巨人戦" に登板します。試合は、9回表終了時点で7対1と6点リード。最後は守護神ポートを投入する盤石の継投でしたが、これが大誤算。ポートがKOされ、吉野誠に続いて、緊急登板したのが球児でした。しかし、準備不足のままの起用では、巨人の勢いを止めることはできず、後藤孝志のホームランでついに同点に追いつかれてしまいます。

ところが、ここからが球児の真骨頂。その後は10回、11回と無失点に抑え、解説の江川卓も大絶賛の投球を見せました。最終的には、8対8の延長12回引き分け。星野監督も後に「あの試合を負けなかったことが大きかった」と語っており、実際に翌日と翌々日の巨人戦は2連勝を飾っています。

2003年4月11日巨人戦

2003年4月11日:阪神 vs 読売:9回裏~試合終了(東京ドーム)

火の玉ストレートの誕生

2004年、球児が1軍のマウンドに復帰した際、その球速の変化に驚いたファンも多かったことでしょう。この年も当初は2軍での調整が続きましたが、山口高志投手コーチの指導のもとフォーム改造を図ると、球質が一変。スピンの効いた伸びのあるストレートで、次々と空振り三振を奪うようになりました。

当時について、山口コーチは次のように語っています。
 正直、こんな偉大な投手になるとは思わなかった。私が阪神の2軍投手コーチに就任した2003年は1軍に上がっても結果を残せず、再び2軍へ、の繰り返しだった。

 体は細かったが、140キロ台の直球には切れがあった。右膝が折れないようにすることで潜在能力をフルに生かすことができると考えた。

 右膝が折れると、右肩も落ちてしまう。すると球をたたけなくなる。春季キャンプから右膝が落ちない、曲がらないようにするため、膝関節をロックするギプスを装着させ、投球練習させた。

 シーズンに入ってからもブルペンでも着けさせ、多いときは1日300球投げさせた。1年は続いたかな。少しずつではあるがスピンの効いた球がいくようになった。

 私は2005年にスカウトに転身したが、夏頃だったか、仕事が終わってテレビを見ていたら球児が出てきて…。寝っ転がってみていたけど、思わず飛び起きてしまうぐらいの球になっていた。

藤川球児 vs. 清原和博

夢の球宴で真っ向勝負!藤川球児vs清原和博
2004年は、7月からリリーフとして登板し、26試合中21試合で自責点ゼロ。この安定感抜群の投球が、翌年の勝利の方程式「JFK」誕生へとつながっていきます。

清原、カブレラ、T・ウッズ

藤川球児「火の玉ストレート」の真実を清原、カブレラ、T・ウッズが独占激白!

広末涼子は中学の同級生

広末涼子は、球児とは、かつて同じ高知市立城北中学校に通う同級生でした。広末は中学時代に芸能界デビューを果たし、一方の球児は高校野球での活躍を経てプロ野球界へ。しかし、芸能界とプロ野球界、それぞれの業界でスターとなった二人が同じ中学校の同級生だったというのに、今日までほとんど話題になったことがありません。

ところが、球児が阪神に入団した当初は、ドラフト1位の注目選手だったこともあり、広末からは正式なコメントがありました。
 98年11月20日、ドラフトで夢だったプロ野球から声がかかった藤川に、広末はマスコミ各社の要望に応じてコメントを発表した。「藤川くんの夢が叶って、私も自分のことのようにうれしく思っています。(略)自分の目標に向かい努力を続け、夢のスタート地点に立っている藤川くんをとっても尊敬しています」。藤川の父親が軟式野球でノーヒットノーランを達成した際に生まれたことで「球児」と名付けられたという“秘話”まで広末は知っていた。
via 【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」| スポニチ
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