そして迎えた公開日の1月25日。
全国のファンが待ちに待った公開だけに、各新聞もこぞって映画評を掲載!
全国のファンが待ちに待った公開だけに、各新聞もこぞって映画評を掲載!
なんと、劇場公開二日目の1月26日に、東京の新宿ミラノ座では1万8千126人の動員を記録!
この記録は、それまでの一日の動員数記録だった「エクソシスト」の1万2千508人(松竹ピカデリーでの記録)を、大きく更新する程の大ヒットだった。
この記録は、それまでの一日の動員数記録だった「エクソシスト」の1万2千508人(松竹ピカデリーでの記録)を、大きく更新する程の大ヒットだった。
「燃えよドラゴン」、「危機一発」、「怒りの鉄拳」と、必ずしも良い劇場に恵まれたとはいい難い公開状況だったが、理想的な劇場での興業となった「ドラゴンへの道」の大ヒット振りは、正にブルース・リーの当時の人気と興業力を証明するものだと言える。
日本公開時の配給権を巡るゴタゴタ騒動!
画像の通り、当初は「ドラゴン電光石火」のタイトルが付けられ、「危機一発」「怒りの鉄拳」と併せて、東和が配給・劇場公開を予定していた本作だったが、突然東映洋画部が配給権を主張!独自に記者会見を開き、「ドラゴンへの道」の公開日まで発表するという行動にでる。
結局本作は東映洋画部の配給により、松竹系の大劇場で公開されたわけだが、このトラブルによって未完の「死亡遊戯」の完成が早まったとも言えるのだから、世の中は判らないものだ。
結局本作は東映洋画部の配給により、松竹系の大劇場で公開されたわけだが、このトラブルによって未完の「死亡遊戯」の完成が早まったとも言えるのだから、世の中は判らないものだ。
東和の顔をつぶす形となったゴールデンハーベスト社は、「死亡遊戯」の完成と配給権を東和に約束。それを受けて東和も画像の広告の通り、早くも「ドラゴンへの道」公開とほぼ同時期から、公開予定ラインアップの中に「死亡遊戯」を入れるという暴挙に出る!
正に2大配給会社の面目を賭けた全面戦争であり、この後の1980年代には、再びジャッキー・チェン作品を巡って両社の戦いが繰り広げられることになるのだが、それはまた別の機会に。
正に2大配給会社の面目を賭けた全面戦争であり、この後の1980年代には、再びジャッキー・チェン作品を巡って両社の戦いが繰り広げられることになるのだが、それはまた別の機会に。
この「ドラゴンへの道」日本配給権を巡るゴタゴタ騒動は、実はその経緯が非常に複雑で面白いのだが、かなり多くの資料の紹介と解説が必要なため、いずれ詳しく解説させて頂こうと思うので、お楽しみに!
実はB・リー主演作で最初にTV放映された作品だった!
本作は1977年4月6日、日本テレビの「水曜ロードショー」において、「出た!!ブルース・リーのドラゴンへの道」のタイトルで、早くもTV放送されている。
これは当時の人気洋画作品のTV放映サイクルとしては極めて早く、ちなみに「ドラゴン危機一発」は、1978年の1月1日にテレビ朝日「日曜洋画劇場」で放映。「ドラゴン怒りの鉄拳」は更に遅れて、1979年8月5日に同じくテレビ朝日「日曜洋画劇場」で放映されている。
これは当時の人気洋画作品のTV放映サイクルとしては極めて早く、ちなみに「ドラゴン危機一発」は、1978年の1月1日にテレビ朝日「日曜洋画劇場」で放映。「ドラゴン怒りの鉄拳」は更に遅れて、1979年8月5日に同じくテレビ朝日「日曜洋画劇場」で放映されている。
それでは、何故に「ドラゴンへの道」が最初にお茶の間に登場したのだろうか?
「ドラゴンへの道」の配給権を東映に寸前で奪われた形になった東和が、「ドラゴンへの道」公開にぶつけるかの様に、1975年の公開ラインアップに「死亡遊戯」を持ってきたことは、既に述べて来た。(もちろん、この時点で完成していないし、完成の補償も無いのだが・・・)
その関係で、「死亡遊戯」が実際に日本で公開される1978年まで、東和が配給権を持つブルース・リー作品のTV放映は実現しなかったというわけだ。「燃えよドラゴン」に関しては、結構頻繁にリバイバル公開が行われており、その商品価値がかなり高かったため、このような早期のTV放映が実現し難かったと思われる。(「燃えよドラゴン」のTV放映は更に遅れて、1979年10月14日だった)
「ドラゴンへの道」の配給権を東映に寸前で奪われた形になった東和が、「ドラゴンへの道」公開にぶつけるかの様に、1975年の公開ラインアップに「死亡遊戯」を持ってきたことは、既に述べて来た。(もちろん、この時点で完成していないし、完成の補償も無いのだが・・・)
その関係で、「死亡遊戯」が実際に日本で公開される1978年まで、東和が配給権を持つブルース・リー作品のTV放映は実現しなかったというわけだ。「燃えよドラゴン」に関しては、結構頻繁にリバイバル公開が行われており、その商品価値がかなり高かったため、このような早期のTV放映が実現し難かったと思われる。(「燃えよドラゴン」のTV放映は更に遅れて、1979年10月14日だった)
ちなみにTV放映時の日本語吹替で、リーの声を担当したのは俳優の柴俊夫。これは骨格が似ていた点も大きいと思われるが、一番の理由はその髪型の類似性だろう。ちょうど1977年4月3日より、柴俊夫主演のドラマ「さわやかな男」が放送されたため、その宣伝効果も狙ってのことかも知れない。
実は日本だけでなく、香港でもコミカライズされていた!
上の画像は、実際に香港公開当時に掲載された新聞広告だ。
タバコのメーカー「ウィンストン」とのタイアップ広告なのだが、ちなみにこのキャンペーンの抽選は、当時の人気番組「歓楽今宵」の中で発表!と記載されている。
この様に、様々なタイアップによる宣伝展開が取られた香港に対して、日本での宣伝展開で記憶に残るのは、やはり本作「ドラゴンへの道」のコミカライズ版の製作・掲載だろう。
ちなみに「コミカライズ」とは、この当時の宣伝手法として一般的だった、映画の内容(もちろん、ラストまで完全にネタバレあり!)をコミック化して様々な媒体に掲載する!という宣伝手法を指す用語だ。
タバコのメーカー「ウィンストン」とのタイアップ広告なのだが、ちなみにこのキャンペーンの抽選は、当時の人気番組「歓楽今宵」の中で発表!と記載されている。
この様に、様々なタイアップによる宣伝展開が取られた香港に対して、日本での宣伝展開で記憶に残るのは、やはり本作「ドラゴンへの道」のコミカライズ版の製作・掲載だろう。
ちなみに「コミカライズ」とは、この当時の宣伝手法として一般的だった、映画の内容(もちろん、ラストまで完全にネタバレあり!)をコミック化して様々な媒体に掲載する!という宣伝手法を指す用語だ。