6大会連続でワールドカップ出場を決めた日本。しかし…
日本、サッカーW杯出場決定 6大会連続6度目 :日本経済新聞
相変わらず、怒っているセルジオ越後
日本が負けたら烈火のごとく批判するし、勝ったら勝ったで「強豪相手では通じない」「世界レベルでは相手にならない」と痛罵する…彼のサッカー評論家としてのスタンスは、今も昔も変わりません。一種の様式美さえ感じるというものです。
それにしても、なぜ、この70過ぎの小太りのおじいちゃんが、これほどまで強気に有名選手や代表監督を痛烈に批判できるのか、気になったことはないでしょうか?それは野球における張本勲や金田正一と同じで、確かな実績を残しているからに他なりません。今回は、あまり語られることのないサッカー選手だった頃のセルジオ越後について掘り下げていきたいと思います。
[STAFF]【TV出演情報】セルジオ越後が、テレビ東京『追跡LIVE! SPORTSウォッチャー』に生出演します。23:00からぜひご覧ください!ニュージーランド戦の日本代表について話しますので、お見逃しなく。 pic.twitter.com/JhuwT0vQQn
— セルジオ越後 (@sergio_echigo) October 7, 2017
17歳でサンパウロの名門・コリンチャンスに入団
伝説的名手・リベリーノに、妙技「エラシコ」を伝授
かつては、ロナウジーニョがその名手として名を馳せ、現在でも、イブラヒモビッチやクリスティアーノ・ロナウド、ネイマールといった1流プレイヤーも度々使用する、オーソドックスなスキルとして知られています。この妙技を、ペレやガリンシャのドリブルからヒントを得て考案したのがセルジオであり、それをリベリーノが面白がって真似たために、一躍有名になったのだとか。セルジオはリベリーノに「僕が発明し、君が完璧なものにした」と語ったといいます。
ロナウジーニョのエラシコ
1972年に、日本サッカーリーグの藤和不動産サッカー部に入部
その後、建築系会社で営業をしたり、ブラジル2部のチームでプレーしたりした後、1972年、日本サッカーリーグ(JSL)1部の藤和不動産サッカー部(現:湘南ベルマーレ)からのオファーを受けて来日。当時、ヤンマーのネルソン吉村、ジョージ小林といった日系ブラジル人が成功を収めていたこともあり、チーム強化の起爆剤として、同じ日系二世で元プロのセルジオに白羽の矢が立ったというわけです。
セルジオはその期待に応え、圧倒的なテクニックと抜群の戦術眼を兼ね備えたプレイメーカーとして活躍。そのトリッキーなボールさばきから“魔術師”の異名を取り、ファンから愛されたといいます。
セルジオのプレー(0:17~)
指導した人数はのべ50万人。なお、20年近く前に撮影された指導風景の映像が残っているのですが、当時で既に50歳は超えているはずにも関わらず、かなりうまいです。