世界のバブル経済の歴史
2016年10月6日 更新

世界のバブル経済の歴史

運河バブル、鉄道バブル、チューリップバブル、ウサギバブル、不動産バブル、ITバブル、サブプライムローンバブルなどバブルは常に別の顔をしてやって来ます。熱狂的な陶酔感による異常な資産膨張(資産価格が実態の価値より大きく乖離して高騰)の発生と崩壊の歴史を振り返ってみましょう。

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『チューリップ・バブル』(チューリップ狂時代) ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1637年に起こった世界最初のバブル経済事件。

愛好家たちが絶賛したチューリップの高級品種「Sempe...

愛好家たちが絶賛したチューリップの高級品種「Semper Augustus」(「センペル・アウグストゥス」の日本語訳:「無窮の皇帝」)

1610年代、最初にチューリップの美しさに心を奪われたのは、ゆとりのある植物愛好家たちであった。手に入りにくいチューリップの球根は、当初から高値で取り引きされた。

また園芸家・愛好家たちは自分で品種改良や栽培も行い、多様な名のチューリップが生まれた。「Admiral Liefken」(アドミラル・リーフキン、日本語訳:リーフキン提督)、「Admiral Von der Eyk」(アドミラル・フォン・デル・アイク、日本語訳:フォン・デル・アイク提督)、「Viceroy」(ヴィセロイ、日本語訳:副王)、「Generalissimo」(ジェネラリッシモ、日本語訳:大元帥)などが代表的な高級品種である。

なかでも愛好家たちが絶賛したのは、ブレーキングを起こして紫と白の縞模様の花を持つ「Semper Augustus」(センペル・アウグストゥス、同:無窮の皇帝)であった。単色の品種は安く売買されたが、こうした美しい花の球根は少なくとも1,000フロリンの値がついていた。そしてチューリップの人気が高まるにつれ値上がりしていった。
「投資家の行動とバブルの相関性」

投資による利益は、債券購入や融資を行うことで得られる金利収入、すなわち配当益(インカム・ゲイン)と、土地や株や絵画を売買して得られる売買益(キャピタル・ゲイン)に大別できる。資産バブルは、このキャピタルゲイン投資によって引き起こされる。

債券購入や企業向け融資によって得られる金利収入は、安定して収入を得られる代わりに低利率(ローリスク・ローリターン)で、専業金融家は保有する金融技術を生かしきれない。

資本主義社会では、競争イデオロギーのもと、金融家は預金者・出資者からハイリスク・ハイリターンを求められ、バブルを煽る行動に出るのである。

経済学者の松原聡は「バブルが発生する社会は、将来に期待がもてる社会であり、経済成長の余地があると見られる」と指摘している。

「バブル経済であったか否か」

「急激な資産価格の上昇=バブル経済」と表現されることもあるが、実体経済に合わせてソフトランディングした資産価格上昇はバブルではない。投機による下支えが不可能となり、バブル崩壊が起こって、初めてそれまでの経済がバブル経済であったということが分かる。その意味で「バブルは必ず崩壊する」という表現は、論点先取にすぎない。

ベン・バーナンキは「バブルとは、終わってみないとそれがバブルであったのか、それとも経済のファンダメンダルズを表したものであったのかは解らない」としており、バブルの識別は事実上不可能であるとしている。
チューリップ愛好家によるパンフレット(1637年出版)...

チューリップ愛好家によるパンフレット(1637年出版) 高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

チューリップの人気に投機家が目をつけたのは、1634年ごろと伝えられる。かれらはチューリップを栽培することや花の美しさに興味はなく、その値上がりを目的として市場に参入していった。

チューリップ人気がライデンからアムステルダム、ハールレムなど他都市に伝わり、需要の増大を見込んで球根の売買を行った。はたして彼らの目論みは当たり、一攫千金をなす者も現れた。高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

高価な球根はエース(aas、1エース=0.05g)単位で量られ値がつけられた。そうでない品種は個数売り、さらに安いものは袋づめで量り売りされた。

このときはまだチューリップ取引は球根が現物で売買されていた。また現物取引のため、チューリップ売買が行われるのは冬の間にとどまっていた。しかし過熱するチューリップ人気は、季節を問わず取引できる仕組みを希求していた。
チューリップ・バブルの過熱化

チューリップで短期間に莫大な富を得られるという噂が職人や農民などに広がると、かれらが徐々に市場に参入してきた。元手をもたない彼らはまず自分でも買える程度の球根から始めた。その程度の品種でも値は上がり、転売で利益を得る者が続出した。それに伴い、市場に大きな変化が起きた。通年取引とそれに伴う先物取引制度の導入である。

こうした取引は、証券取引所ではなく私設の取引場のある居酒屋で行われた。これがない居酒屋はあまりなかったらしい。取引においては「その時にある品種、ある重量の球根を渡す」と約束し、買い手は球根を受け取る権利を得た。大体手形が使われ、わずかな内金で売買できた。内金は金銀貨等の正貨とは限らず、担保として換金できるものでよかったのである。そのため庶民にまでがチューリップ取引に参加し、それによって需要がふくらみ、安価な品種でさえ高騰した。この先物取引によってたいした元手がない者も投機に参加できた。価格の上昇により、本来の買い手である植物愛好家が買わなくなっていった。特に民衆が取引していた安価な球根は愛好家に見向きもされなかった。

当時の逸話がいくつか残っている。あるイギリス人が、オランダの友人宅を訪ねたが、友人は外出中だった。そのイギリス人は友人の家の中で、変わったタマネギを見つけた。友人が帰ってくると、イギリス人がその球根を切って、中を調べていた。彼は「これは何というタマネギなの?」と聞いた。「それは『アドミラル・フォン・デル・アイク』と言うのだ」「なるほど。これはオランダではよくある品種なの?」友人はイギリス人の襟首を引っつかみ「俺と一緒に、役人のところに行けばわかるさ」と答えた。イギリス人は監獄に入れられた挙句、弁償に金貨2,000枚を支払わされた。
1637年2月3日、チューリップ市場が突然暴落する

1637年2月3日、チューリップ市場が突然暴落する

チューリップ・バブルの急落

1637年2月3日、突然の暴落が起こった。価格が下がったというよりも、むしろ買い手がまったく見つからない状態だった。手形は不渡りとなり、支払いきれない債務を負った者は3000人ともいわれる。オランダ各都市は混乱の淵に叩き込まれ、そこかしこで払え払わぬの押し問答、債務者の雲隠れがおこった。

いまやあらゆる債権者が同時に債務者となっていた。債務履行を求めて裁判を起こす者もいたが、債務者に履行能力がないことは明らかであり、事態の解決に有効な手だてとはならなかった。

抜き差しならぬ情勢に議会・市当局もようやく動きだした。債務者と債権者の強烈なロビイング合戦の末「調査が終わるまでチューリップ取引は保留とする」というその場凌ぎの決定が下された。しかしこれによって一挙に解決に向かった。手形による契約はなし崩し的になかったことになり、少数の破産者と成金を残してチューリップ狂時代は幕を閉じた。

『南海泡沫事件』(なんかいほうまつじけん) 1720年にグレートブリテン王国(イギリス)で起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落。

『南海泡沫事件』イングランド人画家エドワード・マシュー...

『南海泡沫事件』イングランド人画家エドワード・マシュー・ウォード(英語版)による作品

南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん、英語: South Sea Bubble)は、1720年にグレートブリテン王国(イギリス)で起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落、およびそれに続く混乱を指すが、主に損害を蒙ったのはフランスであった。ロバート・ウォルポールがこの混乱を収拾、政治家として名をあげる契機となった。バブル経済の語源になった事件である。
南海会社(1831年)

南海会社(1831年)

南海会社(英語: The South Sea Company, 南洋会社とも)は1711年にトーリー党の指導者で大蔵卿ロバート・ハーレーによって、グレートブリテン王国 (イギリス) の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ貿易による利潤でそれを賄うことおよびスペインとのユトレヒト条約で得たアシエントの権利によりスペイン領西インド諸島との奴隷貿易を行うという目的で設立された。

密貿易やスペインとの関係悪化・海難事故等で本業はいっこうに振るわず、国債を引き受けるどころか南海会社の経営そのものも危うくなりつつあった。1718年には四カ国同盟戦争が始まりスペインとの貿易が途絶した。

追い込まれた南海会社が1718年に発行した富くじが大成功をおさめたことが南海会社を金融機関に変質させる端緒だった。

1719年、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の南海会社株を発行する許可をイングランド銀行との熾烈な入札競争の末に勝ち取った。これが南海計画である。

しかし南海計画はこの時点で破綻が予定されていた。イングランド銀行との競争のなかで積み上がった750万ポンドの上納金という重すぎる負担は南海会社にとってハイリスクな一発勝負しか残されていないことを示唆していた。そこで南海会社は以下の技巧で利潤を生み出そうとしていた。

1)株と国債の交換は時価で行う。すなわち、南海会社の株価が額面100ポンドにつき市場価格200ポンドの場合、200ポンドの国債1枚と南海会社株100ポンド分で等価交換となる。

2)しかしながら発行許可株数は交換額に応じている(200ポンド交換した)ので額面200ポンド分の株が発行できる。すなわち、交換しても手元に100ポンド分、時価200ポンド分余ることになる。

3)これを売りに出すと売り上げの200ポンドはそのまま南海会社の利益となる。

4)上記の方法で南海会社の利益があがると、当然株価が上昇する。
1に戻る。

以上の手順を繰り返すと無限に株価は上昇し、南海会社は利益をあげ続け、株保有者はみるみる豊かになっていく、これが南海計画であった。
額面等価ではなく時価での等価交換という点が南海計画の核心である。株価が高ければ国債と交換に譲渡する株は相対的に少なくてすむからである。その一方で、交換した国債の額面と同額面の株式発行権を南海会社は得、余剰分を売ることで利潤を出す仕組みである。
南海会社の株価推移

南海会社の株価推移

空前の投機ブーム
当時のイングランド中産階級が投資先を探している状態で市場に資金がだぶついていた。南海株式会社は本業の貿易活動は全く振るわなかったが、国債引き受け会社として成長し、わずか数ヶ月の間に株価が10倍にも高騰した。貴族・ブルジョワジー・庶民の階層を問わず株についての十分な知識もない人々がこぞって投機熱にのぼせ、空前絶後の投機ブームが起こった。

これに便乗するかたちで当時設立が許可制だった株式会社もまた無許可で作られた。いわゆるヤミ会社の株価も一気に跳ね上がった。そのほとんどは真剣に事業を興そうとする起業家たちであり、その業容もロンドンへの石炭供給事業や石けん製造技術の改良事業など、前産業革命期イギリス産業の発展の度合いを垣間見ることができるものであった。とはいえ、こういった真面目な事業の投資募集ばかりでなかったことも確かである。

価格の変動

南海会社の株価推移
1株あたりの価格は1720年1月には100ポンド強であったものが5月には700ポンドになり、6月24日には最高値1050ポンドをつけた。

これに押されるかたちでイングランド銀行やイギリス東インド会社などの株価も高騰を始めた。政府の許可なしにこうした会社を作ることは禁じられていたが、無許可の会社が乱立する事態に及んで政府も規制に乗り出した。

6月24日に泡沫会社規制法、8月24日には告知令状を出すと市場は沈静化に向かっていった。しかし、事態は沈静化にとどまらず、あらゆる株価が暴落するという恐慌に陥った。

『ミシシッピ計画』(1720年代初頭)

スコットランドの実業家ジョン・ローがフランス領ルイジア...

スコットランドの実業家ジョン・ローがフランス領ルイジアナ植民地を巧みに宣伝する

1717年8月、スコットランドの実業家ジョン・ローが、当時は誰からも見放されていたミシシッピ会社の経営権を入手し、西方会社(Compagnie d'Occident)と名を改めた。当初のジョン・ローの狙いは、フランス領ルイジアナ植民地など、ミシシッピ川の流域のほとんどを含む北アメリカのフランス植民地との貿易にあった。

西方会社の経営権を入手したことで、フランス政府は北アメリカおよび西インド諸島との貿易に関する25年の独占権をジョン・ローに対して保証した。1719年、西方会社は東インド会社、中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合してインド会社(Compagnie des Indes またはCompagnie Perpétuelle des Indes)となり、またジョン・ローが総合銀行(Banque Générale)として1716年に設立した王立銀行(Banque Royale)までも所有するに至った。

ジョン・ローは、ルイジアナの富を巧みなマーケティング戦略を用いて宣伝した。その結果1719年にインド会社株に対しての熱狂的な投機買いが起こり、株価は500リーブルから1万リーブルまで高騰した。しかし、1720年の夏にかけて急激な信用不安が起こったため、1721年には再び500リーブルまで下落した。1720年、摂政フィリップ2世はジョン・ローを解任し、同年12月20日、ローはフランス国外へ逃亡した。
インド会社の株券

インド会社の株券

ミシシッピ会社の発行済株式の量は、1720年には50万株程度だった。すなわち株価が1万リーブルだった時の会社の時価評価額は50億リーブルとなる。株価が500リーブルまで崩壊した1721年9月時点では、時価評価額は2億5千万リーブルにまで下がった。ちなみに、当時のフランス政府の歳出規模は1億5千万リーブル(1700年)で、政府の負債額は16億リーブル(1719年)であった。

政府とジョン・ローは16億リーブルの政府負債の全てを会社の株式で買い上げることにした。この計画は成功した。政府の負債の債権者達は、債権や手形でこの株を購入し、1720年には政府の全負債はこの会社に移った(債権と資産の変換)。

これによって、元の政府に対する債権者が今度はこの会社の所有者(株主)となったが、会社経営は政府によってコントロールされていた。政府は毎年3%にあたる4千8百万リーブルの利息を支払った。

これによって、政府は歳入の10倍(GDPの約2~4倍)もの多額の債務の返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になった。この成功によって株価は高騰したが、その後1720年から1721年にかけて、この会社の市場からの資本調達が破綻した。
ミシシッピ計画(みししっぴけいかく, 仏: Compagnie du Mississippi)は、18世紀初頭に北アメリカに植民地を有していたフランスが立てたミシシッピ川周辺における開発・貿易計画。ミシシッピ会社とも言う。

フランスで立てられたこの計画は、開発バブルを引き起こし、会社の業績が極端に悪いのに発行価格の40倍にまで株価が暴騰する事態を招いた。チューリップ・バブル(オランダ)や南海泡沫事件(イギリス)とともに、三大バブル経済の例えとして知られる。

『運河バブル(キャナル・マニア (英: Canal Mania、「運河狂」「運河熱」の意))』(1790年代)

イギリス最初の近代運河である「ブリッジウォーター運河」...

イギリス最初の近代運河である「ブリッジウォーター運河」。1790年代前半には「運河熱(canal mania)」と呼ばれる投資ブームが発生した。

運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。

1761年、ワースリー炭鉱を所有していた第3代ブリッジウォーター公爵フランシス・エジャートンが、炭鉱とマンチェスターを結ぶ運河を建設し、更に6年後には技師ジェームス・ブリンドリー(en)の助力を得て4年間の工事の末にこれをリヴァプールのマージー川河口にまで伸ばした(ブリッジウォーター運河(en))。

これによってマンチェスターでの石炭価格は半減し、石炭輸送費の大幅な削減と大量輸送に成功したブリッジウォーター公は莫大な収益を得た。

その後、ブリンドリーは、「大幹線運河(Grand Trunk Canal)」構想を立ち上げ、その基礎となる延長150kmのトレントマージー運河(en)の建設に乗り出した。

ブリッジウォーター運河の成功を見た投資家たちの支援を得て建設は順調に進んだ。ブリンドリーは1772年に没したが、その後継者たちによって1777年に運河は全通し、以後イギリス各地で運河建設が進み、特に1790年代前半には「運河熱(canal mania)」と呼ばれる投資ブームが発生した。
ブリッジウォーター運河(マンチェスター市内)

ブリッジウォーター運河(マンチェスター市内)

運河の開通によって従来陸上輸送が困難であった穀物・鉄鉱・石炭・陶土・塩・食料品などの物資の輸送が低廉かつ大量に行えるようになった。

種類によって差はあるものの、運河による水運の輸送費は陸上のそれの3割程度であったと言われている。また、輸送費の低減は市場の拡大にもつながった。

更に交通の利便が良くなり、未開地の開発が新興するとともに新たな都市が成立し、人口分散を促した。そして、運河自体の建設・維持管理や橋梁・艀・ボート(ナロウボート)などの関連物の製造のために技術者育成が行われ、雇用が創出された。

こうした状況は産業革命の展開のための基盤整備につながり、また更なる運河への建設と投資につながった。
鉄道が建設される以前、イギリスの内陸交通を支えていたのは、運河による水運であった。運河建設においても1790年代に「運河熱(canal mania)」と呼ばれる投資ブームが発生している。イギリスの運河網の充実振りもこの時代の積極的な建設によるところが大きい。
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