世界のバブル経済の歴史
2016年10月6日 更新

世界のバブル経済の歴史

運河バブル、鉄道バブル、チューリップバブル、ウサギバブル、不動産バブル、ITバブル、サブプライムローンバブルなどバブルは常に別の顔をしてやって来ます。熱狂的な陶酔感による異常な資産膨張(資産価格が実態の価値より大きく乖離して高騰)の発生と崩壊の歴史を振り返ってみましょう。

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イギリスのサマセット石炭運河

イギリスのサマセット石炭運河

各運河は各地の企業家や貴族が思い思いに建設したために規格が統一されておらず、航行できる船のサイズがまちまちであるなど障害も多かった。

このため、1825年に最初の蒸気機関車による鉄道が開通するとすぐに鉄道網がイギリス全国に張り巡らされるようになり、運河は急速に重要性を低下させていった。
最初期の運河建設は通常、商品の船舶輸送を必要としていた商人、製造業者、または鉱山所有者による地域的事業計画として始まった。

例えば、ウォースリーからマンチェスターまで石炭を出荷するために第3代ブリッジウォーター公爵フランシス・エジャートンが建造したブリッジウォーター運河などである。

巨額の建設費にもかかわらず、マンチェスターの石炭価格は開通直後に50%下落し、財政的成功は投資家にとって魅力的であった。

アメリカ独立戦争は、1783年に終結した。 長期にわたる高収益は、可処分所得の増大を招くと共に、事業に対する個人的関心がほとんどないのに利益を求めて出資しようとする者の増加に繋がった。この結果、無思慮な投機が増加した。

推進される計画数は劇的に増大した。1790年に議員立法によって認可された運河の数は1であったが、1793年には20にのぼった。1790年に認可された資本金は90,000ポンド(2013年換算で8,700,000ポンド)であったが、1793年には2,824,700ポンド(2013年換算で266,000,000ポンド)にまで増大した。

『鉄道バブル(鉄道狂時代・レールウェイ・マニア)』(1840年代) イギリスで鉄道会社の株に投資が殺到した。

ジョン・ドビン(John Dobbin)によるストック...

ジョン・ドビン(John Dobbin)によるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業、1825年

ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントンてつどう、英 S&DR: Stockton and Darlington Railway)は、1825年に開業した世界で最初の蒸気機関車を牽引に使用した公共用鉄道である。

この年にはイングランド銀行の株式市場で混乱がおきている。欧州全体が不況となる中で開通したこの鉄道は、海外の投資から還流した資金を吸収してイノベーションを促した。
19世紀初頭に鉄道が実用化されると、鉄道は儲かる事業であるとみなされ、多くの投資家が鉄道会社の設立・投資に殺到することになった。

これによりイギリスでは、同じ区間に重複して鉄道路線が敷設されたり、およそ採算の取れる見込みのない地方にも敷設されたりすることになった。

当然ながらまもなく破綻し、イギリスの鉄道会社は次第に集約されて鉄道王ジョージ・ハドソン(George Hudson)の時代、そして四大鉄道会社の時代へと進んでいくことになった。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(L&MR)のた...

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(L&MR)のために製造された初期の蒸気機関車「プラネット」の模式図

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(リバプール・アンド・マンチェスターてつどう、英 L&MR: Liverpool and Manchester Railway)は、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道である。

全ての列車が時刻表に基づいて運行され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引する都市間旅客輸送鉄道であった。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、リヴァプールの港とマンチェスターとその周囲の北西イングランドの町の工場を結んで、原料と製品をより高速に輸送できるように建設された。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念列車

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念列車

マンチェスター科学産業博物館で運転される「プラネット」...

マンチェスター科学産業博物館で運転される「プラネット」の複製機

プラネット(Planet)は1830年にロバート・スティーブンソン社によってリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(L&MR)のために製造された初期の蒸気機関車である。
1840年代になると、イギリスに鉄道ブームが到来します。当時まだ新しい技術だった鉄道はしきりに持て囃され、イギリス各地で盛んに鉄道が建設されました。

中でも「ヨークの鉄道王」と呼ばれた鉄道投資家ジョージ・ハドソンは鉄道ブームで巨万の富を蓄えます。ハドソンが保有する鉄道路線は、イギリス全体の路線網の1/4にも及びました。

他のヨーロッパ諸国と比較すると政治が安定し、政府が鉄道建設へ関与することが少ない「自由放任主義」を取っていたことも鉄道建設ブームが起きる一因となりました。

バブル化した鉄道ブームですが、1840年台の終わりには終息を迎えます。その後ジョージ・ハドソンは詐欺で失脚し、財産のすべてを失うことになります。

『ウサギバブル』(1872年(明治5年) - 1879年(明治12年)) 日本の軍需の為の食肉毛皮需要によるウサギ飼育ブーム。

『ウサギバブル』時には、子ウサギはコロと呼ばれ10円 ...

『ウサギバブル』時には、子ウサギはコロと呼ばれ10円 (現在の価値で約90万円) 以上の値が付いた。

明治時代のウサギブーム

明治になると愛玩用に耳の長い外国種のウサギがもてはやされた。1872年に在来と外国の混血から生まれた更紗模様のある種雄は 200–600円 (現在の価値で約190-560万円) で売られ、種付けは 2–3円 (同19000-28000円) /回であった。子ウサギはコロと呼ばれ10円 (同90万円) 以上の値が付いた。

この流行はウサギ・バブルとも呼ばれる。空前のウサギ・ブームにより、販売や飼育に手を出して破産する者、珍しい高値な毛色に見せかけるために白毛の色を柿色に染めるなどして金儲けする詐欺、ウサギの売却価格をめぐった親子間の殺人事件などが起こり、社会問題にまで発展した。常軌を逸した熱狂を抑えるべく、行政は取り締まりを強化した。

1873年: 東京府 (現・東京都) 布達、兎取締ノ儀 (1876年改正、兎取締規則) で頭数の届出、1羽1円の税金、無届1羽につき月2円の納入とされた。1879年に廃止。

1876年1月: 東京府が『「兎会集会」禁止条例』を発布し、大人数で集まりウサギを競売することを禁止した。ただし、法の目をかいくぐった闇取引も行われた。

「大戦景気」「大正バブル」 ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、その圏外にあった日本の商品輸出が急増したため発生した空前の好景気(ブーム)。

ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、日...

ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、日本の株・土地・商品の上昇し、にわか成金が続出した。

1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、当初は、為替相場が混乱し、ロンドンを中心とする国際信用機構の機能が妨げられたことや製品の海上輸送が困難さを増し、工業原料の入手も困難になったことなども加わって一時的に恐慌状態となり、繭価格が暴落した。

大隈内閣は、救済に乗り出し、全国蚕糸業者大会の陳情をいれて政府が500万円を出資、帝国蚕糸株式会社を設立して滞貨の買い入れにあたらせた。

しかし、一時は深刻な不況にみまわれた日本経済も、翌1915年(大正4年)の後半から好況に転じはじめた。ロシア帝国やイギリスなどの交戦諸国は、不足する軍需品などの供給を日本に求めた。

また、アジア市場からヨーロッパ製の商品が後退したあと、日本の商品に需要が高まり、一時的にではあったが、日本がアジア・アフリカの輸出市場を独占したことで空前の好況を呈することとなった。

特に鉱山、造船、商事の3業種は花形産業として潤った。年5割や年7割などの配当をする会社もめずらしくなく、株式市場も活況を呈し、にわか成金が続出した。

この結果、日本政府と日本銀行の保有する正貨(本位貨幣、金本位制においては金貨、金地金および金為替)は、1914年から1918年(大正7年)のあいだに約3億4,000万円から約15億9,000万円に増加し、世界大戦前まで約11億円の債務国(1914年)だった日本は、1920年(大正9年)には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した。

産業構造では、農業国から工業国へと脱皮し、さらに重化学工業化の進展がみられた。工業生産は急激に増大し、工場労働者は100万人をうわまわった。

『世界恐慌』(1929年)

「暗黒の木曜日」(1929年10月24日) 1929年...

「暗黒の木曜日」(1929年10月24日) 1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

ウォール街大暴落(ウォールがいだいぼうらく、Wall Street Crash)は、1929年に発生した株価大暴落である。単に株価大暴落(Stock Market Crash)、大暴落(Great Crash)ともいう。ペコラ委員会によって原因が調査された。一般には世界恐慌のきっかけとされている。

最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1か月間続いた。
アメリカで、第一次世界大戦のためヨーロッパから流入した資金により株投資ブームとなる。

ダウ・ジョーンズ工業株指数は何週間も高騰を続け、過熱した投機行動と相俟って、1928年から1929年の強気相場は永遠に続くとものという幻想を与えた。

1929年10月29日、暗黒の火曜日とも呼ばれるこの日、ウォール街の株価が崩壊した。アメリカ合衆国におけるこの出来事は、ある者には不健全と見えていたその経済システムに対する最後の衝撃であり、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がり、1930年代を通じて資本主義世界の何百万という人々から職を奪った。
ウォール街大暴落 (1929年) ダウ工業株平均の推移...

ウォール街大暴落 (1929年) ダウ工業株平均の推移、1928年-1930年

ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後で、市場は1か月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。

株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1,290万株が取引された。

シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。

この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった。

10月29日は後に「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連...

世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆

1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。

閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた。

『列島改造ブーム』(1970年代) 田中角栄元首相が打ち出した日本列島改造論により土地投機ブームが発生した

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