本気度が増して、とうとう秀樹さんを縁側から庭へ突き落すまでに。
そうなると、秀樹さんが怪我をするまでになり包帯を巻いていた周平(秀樹)さんは、本当に怪我をされていたそうです。
それを観た女子高生のファンから、ものすごい量の抗議の手紙が届き「恐ろしいこと」も書いてあったとの事です。
当時の西城秀樹さんの人気を考えると想像できますが、亜星さん怖かったでしょうね。
■小林亜星の現在は?作曲はライフワーク
現在の状況について「自分では元気がなくなっちゃった感じですけどね」と語り、「病気は去年は3回も入院して」と告白。「去年の暮れに退院してきて、やっと普通の生活に戻れたんですけどね。肺炎とか起こしてね。ここにペースメーカーっていうのを入れているんですけどね」と左胸のあたりに手を当てた。
<中略>
作曲活動については「毎日、一応作ってますよ、勝手に」と明かし、「それは発表するわけじゃないから。それは癖だから、何か作ってないといられないですね。これは無駄なことになるんでしょうけど」とライフワークの一環だとした。
その前年86歳の時は文春のインタビューに「いやあ86になっても、不良の癖は抜けませんね(笑)。」と答えられていたのですが、、、
きっと、今もコツコツ曲作りをされているのでしょうね。
寺内里子(設定48歳)ー加藤治子(当時51歳)
「松竹少女歌劇団」はミュージカルの劇団で当時、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名でデビュー。
1939年に「東宝」から映画デビュー。以降、女優として様々な作品に出演。
1964年「七人の孫」で母親を演じ人気を得たことで、ホームドラマの母親役が当たり役になり「加藤治子」さんと言えば、「上品で優しいお母さん」のイメージです。
『寺内貫太郎一家・26話①』
脚本家の向田邦子先生とは公私共に親しく、
■加藤治子と樹木希林 50年にわたる友情
ドラマ以外、CMでも共演されていましたね。
【CM 1991-95】ピップエレキバン 30秒×5 15秒×8
樹木希林さんは「全身がん」を公表されていましたが、加藤さんも87歳の時に「乳がん」が発覚。
樹木さんが当時、通われていた鹿児島県の「癌治療」へお2人で通われることもあったようです。
(加藤さんの死因は癌ではなく、心不全でした。)
そんな友情を築いた加藤治子さんとの別れに樹木希林さんは…
葬儀後、希林さんはスポーツ紙の取材に応え「本当に美しい身じまいで……。『上出来だったわよ』と拍手しました」と彼女らしい言い回しで故人を偲んだ。
ただ、メディアの前で見せた気丈な振る舞いと、実情は少し違ったようだ。前出・筒井氏はこう語る。
「加藤さんの御遺体は代々幡斎場で荼毘に付されることになりました。棺が火葬炉に収められ、みんなで待合室に行こうとした時に、希林さんが『先に行ってて』と言ったんです。
すると、希林さんは火葬炉の前で目を閉じて、手を合わせてお経をあげていました。私たちは先に待合室に行っていることにしたんですが、希林さんはしばらくやって来ませんでした」
50年来の友人との別れは、さすがの希林さんであっても応えたのだろう。
寺内静江(設定23歳)ー梶芽衣子(当時26歳)
これがキッカケになり、1965年 高校卒業後に日活に入社 本名の「太田雅子」の名前で映画「悲しき別れの歌」でスクリーンデビュー。
「吉永小百合」さんの後継者と期待されていましたが、デビューから1年後には脇役に徹することに。
1969年 映画「日本残侠伝」に出演した際、マキノ雅弘監督に勧められ芸名を「梶 芽衣子」に改名すると、これが幸運を呼んだのか主演が続くようになる。
以降、
生年月日:1922年11月24日
没年月日:2015年11月2日(92歳没)
出生地:東京府東京市赤坂区(現東京都港区)
血液型:AB型
職業:女優
活動期間:1937年~2015年
所属事務所:フリー