芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男
2018年4月10日 更新

芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

その強さは、猛者ぞろいだった初期の極真空手の中でも飛び出た存在。 真正面から打ち合うのではなく、一歩後ろ、一歩サイド、相手の技が届かないところから、いかに自分の技を届かせるかという空手。 そして決して負けることを許さない強烈な闘争本能。 道場の外でもヤクザ相手のストリートファイトや道場破りで名を売り恐れられた。 陰湿なこと、卑怯なことを嫌い、そのために多くの戦いを挑んだが、その中には師:大山倍達さえいた。

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「ケンカ買っていただけますか?」

江田島市能美町にて

芦原英幸は、広島県佐伯郡(現:江田島市)能美町出身。
ここで小学から中学まで剣道を習い、その足運びや攻撃のタイミング、間合いのとり方などは後の空手に大きく役立ったという。
中学卒業後、教師の斡旋で東京のガソリンスタンドに就職した。
しかし孤独のせいか、世の中が憎く思え、よくケンカをした。
ケンカができそうな人間を探し、わざとすれ違いざま肩をぶつけたり、店の中でガンを飛ばして先に外に出て、その人が出てくるまで準備運動をして待ったり、大まじめに、
「ケンカ買っていただけますか?」
と聞いたり、とにかくケンカになるきっかけを探した。
しかし弱い者や、逃げているものを叩くのは、ケンカのルールに反する。
相手は自分が強いとうぬぼれているチンピラだった。
相手が凄みのある声で因縁をつけても広島弁で一言。
「やっちゃるけん、コイ!」

大山道場

写真中央の縦長の建物が大山道場の入っていた建物

写真中央の縦長の建物が大山道場の入っていた建物

出典 efight.jp
1962年、東京にきて数年経ち
「空手 道場求む」
という電柱の張り紙にみつけ、見学に行った。
それが大山倍達の大山道場だった。
池袋(豊島区西池袋3丁目13-11)の立教大学裏にあった老朽化した木造のバレエスタジオ。
崩れ落ちそうな天井。
穴だらけの壁
その中で30人ほどの男が、まるでケンカのようなすごい組手稽古がやっていた
まだ大会などなく(街で試合をする人もいたが)、日々、道場で行われる組手が試合だった。
大山道場の組手は、顔面突きアリ、金的アリ、投げアリ、抑え込み技アリ、締め技アリ、関節技アリ、つかみあり、ヒジあり、ほぼ何でもアリ。
相手が蹴ってきたらその蹴り足にヒジを落としたり、キャッチして投げたり、自ら回転してのパンチやヒジを入れたり(バックハンドブロー、バックスピンエルボー)、柔道経験者がつかんで投げて絞め落としたり、相手の髪の毛をつかんだり、わざと鼻に軽く攻撃を当てて、相手の目から涙を出させたり、5本の指を相手の目の前に差し出してから目潰しを狙ったりなどもした。
乱暴な練習だったが、その実戦的な空手には不思議な魅力、いや魔力があった。
芦原英幸もさっそく入門し、休まず稽古に通った。
先輩に突かれ蹴られ、やられればやられるほどファイトが沸いた。
道場の隣にアパートが並んでいて、上からアパートの住人に見られてないか気にしながら、稽古のあと道着を脱いで路地で水をかぶった。
夜遅くまで稽古して近所から
「うるさい」
と苦情が出たり、大家に電気と水道を止められたこともあった。
それでも月明かりで練習した。
大山道場の出身者で、中村忠、大山茂・泰彦兄弟、芦原英幸、添野義三、盧山初雄などは、それぞれ空手を代表する流派をつくった。
黒崎健時は、大沢昇、藤原敏男、加藤重夫は魔裟斗という強いキックボクサーを育てた。
ジョン・ブルミンも大山道場で学び、オオヤマ道場オランダ支部を設立。
弟子のウィリアム・ルスカは、オリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。
またピーター・アーツやアーネスト・ホーストの師もジョン・ブルミンの弟子である。
ムエタイに挑戦する黒崎健時

ムエタイに挑戦する黒崎健時

入門し2ヵ月くらいたったとき、先輩と組手をしていて攻撃が受け切れず
「まいりました」
と頭を下げた。
しかしその先輩は芦原英幸の顔面を蹴った。
芦原英幸は崩れ落ち口を切り血を出した。
(クソッ!
汚い。
あいつを叩きのめすまで絶対に辞めない!)
また「鬼」と恐れられた黒崎健時師範代にも痛めつけられた。
黒崎健時は、大山道場がムエタイとの対抗戦が行われることになったとき、大山倍達に命じられ監督としてタイへ渡った。
しかし現地で試合出場を打診され急遽参戦し、ルンピニースタジアムでムエタイランカーとムエタイルールで対戦。
肘打ちを顔面に浴び敗れたが、その戦いぶりは恐ろしいほどの執念深さが現れていた。
大山道場での黒崎健時の組手は、左半身になって左拳を繰り出し前進。
相手を追い込むと右のまわし打ち(右フック)を決めるというもの。
芦原英幸も顔をボコボコに殴られた。
しかしやがて体をさばき、黒崎健時の背中側に移動して有利なポジショニングをとるようになった。
こういう動きこそ、芦原英幸独自の動きであり、後の「サバキ(捌き)」といわれるテクニックとなっていく。
従来、空手は正面を向き合い技をかけ合う。
しかし芦原英幸は、一歩サイド、一歩後ろに動いたところから技をかける。
相手の技が届かないところに位置し、いかに自分の技を届かせるか。
そういう攻防一体の天才の空手だった。

昇段審査 (極真会館総本部)

入門8ヵ月後、初めての昇級審査を受け、55人中1人だけ緑帯になった。
おかげで道場で風当たりが強くなったが
「やってやる!」
と稽古とトレーニングに没頭した。
道場での組手と練習に加え、ビルの屋上や空き地、公園の隅、ありとあらゆる場所が自分の稽古場に変わり、朝から晩まで暇さえあれば練習した。
やがて茶帯になる頃には、体もできて誰とやっても負ける気がしなくなり、先輩だろうが誰だろうがかまわず叩きのめし蹴りまくった。

極真会館

極真空手の創始者・大山倍達

極真空手の創始者・大山倍達

1954年、大山倍達は目白にあった自宅の庭で空手を教えていた。
(目白の野天道場)
1956年に娘が通っていた縁で池袋の立教大学裏にあったバレエスタジオに道場を移転。
(大山道場)
そして1964年には東京都豊島区西池袋に「国際空手道連盟 極真会館」を設立した。

極真会館

会長は佐藤栄作(当時、国務大臣)。
副会長は毛利松平(当時衆議院議員)。
館長は大山倍達。
そして19歳の芦原英幸は、憧れだった黒帯となった。
21歳で6年勤めたガソリンスタンドを辞め、極真会館の指導員となり、本部道場の他にアメリカ軍や大学でも指導を行った。
その給料は1万円。
アパートの家賃とほぼ同額だった。
インスタントラーメンを主食に、足りない分は仲間で助け合った。

幻のブラジル行き

São Paulo - Brazil (people in the streets)

極真空手の本部指導員となって3年後、芦原英幸は空手の指導のためにブラジルに行くことが決まった。
まさに己の拳でつかみとったサクセスストーリー、夢のような話だった。
しかし事件はブラジルに行く数日前に起こった。
その日、芦原英幸はつまらないことが原因でむしゃくしゃしていた。
見かねた先輩が酒を飲みにつれていった。
根が単純な芦原英幸は酒を飲むとすぐに機嫌は直した。
安心した先輩は先に帰ったが、芦原英幸はガソリンスタンドに勤めていたときからの行きつけのスナックにいき閉店までウイスキーを飲んだ。
タクシーを拾うためふらつく芦原英幸をママが支えながら店を出た。
すると
「ええかっこするな」
と車の中の男たちがからんできた。
「なにいってるんだ、この野郎」
と返され、5人の男は車をおりて襲った。
芦原英幸は全員を叩きのめし、男たちは地面でウンウンと唸っていた。
その後、ママと別れ、去ればいいのに現場の隣の食堂に入り焼そばを頼んで食べていた。
すると警官が食堂に入ってきた。
「誰かあの5人を知りませんか?
誰がやったのか、みた人はいませんか?」
「ああ、俺がやった」
芦原英幸は焼そばを食べながら手をあげた。
先に殴ってきたのは向こうだし、5対1だったので自分のほうが正しいと思っていた。
しかし警官は署へ連行した。
「名前は?」
「佐藤栄作(当時の総理大臣)です」
取り調べでは何を聞かれてもちゃんと答えなかった。
「素直にしゃべれ!」
怒った警官は、後ろ手に手錠をかけて椅子に座った芦原英幸の腹を殴った。
キレた芦原英幸は警官に頭突きを食らわせ失神させた。
しかし結局、自分の名前や極真会館のこともバレてしまった。
一晩、留置所に入り、出た後、道場に行くと館長室に呼ばれた。
「ご苦労さん、君は今日からもう来なくていいんだよ」
師範代にいわれた。
無期限の禁足(道場に入ってはいけない、破門ではない)処分だった。
「押忍」
芦原英幸は頭を下げた。
 (1990375)

師範代の薦めもあり、芦原英幸は何とか償いをと廃品回収業の仕事を始めた。
朝6時から大八車を引いていると、人によって接し方はさまざまだった。
「おい、ゴミドロボウ」
「おい、ゴミ屋」
という人もいれば
「ご苦労様」
「頑張ってください」
と声をかけてくれる人もいた。
改めて極真空手の指導員、空手のエリートと思い上がっていた自分を痛感し、また何が人間にとって1番大切なのかわかったような気がした。
トレーニングも欠かさず続けた。
夜1人で公園でランニング、柔軟運動、筋力トレーニング、シャドー・・・
黙々とトレーニングをこなした後、ブランコに腰かけいろいろなことに思いを巡らせる22歳の芦原英幸だった。
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