石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした
2019年11月4日 更新

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」

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ケンカ10段、芦原英幸

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芦原英幸は、広島県の中学校を卒業後、東京のガソリンスタンドに就職した。
しかし孤独のせいか世の中が憎く思え、すれ違いざま肩をぶつけたり、店の中でガンを飛ばして先に外に出て相手が出てくるまで待ったり、、
「ケンカ買っていただけますか?」
と聞いたりしてケンカ相手を探した。
相手は弱い者や逃げる者とではなく自分が強いとうぬぼれ、威嚇してくる奴のみ。
そして広島弁で一喝。
「やっちゃるけん、コイ!」
東京にきて数年後
「空手 道場生求ム」
という電柱の張り紙にみて見学に行った。
それが大山倍達の大山道場だった。
池袋(豊島区西池袋3丁目13-11)の立教大学裏にあった老朽化した木造のバレエスタジオの中で30人ほどの男が、まるでケンカのようなすごい組手稽古をやっていた。
「勝つためには何でもやれ!」
大山倍達がいうように、顔面突きアリ、金的アリ、投げアリ、抑え込み技アリ、締め技アリ、関節技アリ、つかみあり、ヒジあり、ほぼ何でもアリ。
まだ試合などないため日々の組手が勝負だった。
乱暴だったが、その実戦的な空手には不思議な魅力、いや魔力があった。
近所から
「うるさい」
といわれ、大家に電気や水道を止められても夜遅くまで稽古は行われた。
大山道場の出身者で、中村忠、大山茂・泰彦兄弟、芦原英幸、添野義三、盧山初雄などは、それぞれ空手を代表する流派をつくった。
黒崎健時は、大沢昇、藤原敏男、加藤重夫は魔裟斗という強いキックボクサーを育てた。
ジョン・ブルミンも大山道場で学び、オオヤマ道場オランダ支部を設立。
弟子のウィリアム・ルスカは、オリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。
またピーター・アーツやアーネスト・ホーストなどK-1で活躍したヘビー級のキックボクサーの師もジョン・ブルミンの弟子である。
芦原英幸もすぐ入門し休まず稽古に通った。
突かれ蹴られ、やられればやられるほどファイトが沸いた。
入門し2ヵ月くらいたったとき、先輩と組手をしていて攻撃が受け切れず
「まいりました」
と頭を下げた。
しかしその先輩はかまわず芦原英幸の顔面を蹴った。
芦原英幸は崩れ落ちた。
(クソッ!汚い。
あいつを叩きのめすまで絶対に辞めない!)
また「鬼」と恐れられた黒崎健時師範代にも痛めつけられた。
黒崎健時は、大山道場がムエタイとの対抗戦が行われることになったとき、大山倍達に命じられ監督としてタイへ渡った。
しかし現地で試合出場を打診され急遽参戦し、ルンピニースタジアムでムエタイランカーとムエタイルールで対戦。
肘打ちを顔面に浴び敗れたが、その戦いぶりは恐ろしいほどの執念深さが現れていた。
大山道場での黒崎健時の組手は、左半身になって左拳を繰り出し前進。
相手を追い込むと右のまわし打ち(右フック)を決めるというもの。
芦原英幸もボコボコに殴られた。
しかしやがて体をさばき、黒崎健時の背中側に移動して有利なポジショニングをとるようになった。
それは芦原英幸独特の動きで、後の「サバキ(捌き)」といわれるテクニックとなっていく。
従来、空手は正面を向き合い技をかけ合う。
しかし芦原英幸は、一歩サイド、一歩後ろに動いたところから技をかける。
相手の技が届かないところに位置し、いかに自分の技を届かせるか。
攻防一体の天才の空手だった。

ゴッドハンド 牛殺し 大山倍達

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大山倍達は1954年には目白にあった自宅の庭で空手を教えていたが、1956年に娘が通っていた縁で池袋の立教大学裏にあったバレエスタジオに道場を移転(大山道場)、そして1964年には東京都豊島区西池袋にコンクリート建ての「国際空手道連盟 極真会館」を設立した。
会長は佐藤栄作(当時、国務大臣)。
副会長は毛利松平(当時衆議院議員)。
大山倍達は館長だった。
当時の空手は、突きや蹴りを当てない「寸止め空手」が一般的だった。
しかし極真空手は、直接、突きと蹴りを当てる「フルコンタクト空手 」のを行った。
会館ができた同時期、19歳の芦原英幸は、黒帯(初段)となった。
そして21歳で6年勤めたガソリンスタンドを辞め、極真会館の職員(指導員)となった。
月給は1万円。
アパートの家賃とほぼ同額で、インスタントラーメンを主食に足りない分は仲間で助け合った。
3年後、芦原英幸は空手の指導のためにブラジルに行くことが決まった。
夢のような話だったがブラジルの発つ数日前、事件を起こした。
その日、芦原英幸はつまらないことでむしゃくしゃしていた。
見かねた先輩が酒を飲みにつれていった。
根が単純な芦原英幸はすぐに機嫌を直した。
安心した先輩は先に帰ったが、芦原英幸はガソリンスタンドに勤めていたときからの行きつけのスナックにいき閉店までウイスキーを飲んだ。
タクシーを拾うため、ふらつく芦原英幸はママが支えられながら店を出た。
すると
「エエかっこすな」
と車の中から男たちが野次った。
「なにいってるんだ、この野郎」
と返した芦原英幸を男たちは車をおりて襲った。
芦原英幸は全員を叩きのめし、5人の男たちは地面でウンウンと唸っていた。
その後、ママと別れ、去ればいいのに現場の隣の食堂に入り焼そばを食べていた。
すると警官が入ってきた。
「誰かあの5人を知りませんか?
誰がやったのか、みた人はいませんか?」
「ああ、俺がやった」
芦原英幸は焼そばを食べながら手をあげた。
先に殴ってきたのは向こうだし、5対1だったので自分のほうが正しいと思っていた。
しかし警官は署へ連行した。
「名前は?」
「佐藤栄作(当時の総理大臣)です」
芦原英幸は取り調べで何を聞かれてもちゃんと答えなかった。
「素直にしゃべれ!」
怒った警官は後ろ手に手錠をかけて椅子に座った芦原英幸の腹を殴った。
キレた芦原英幸は警官に頭突きを食らわせた。
一晩、留置所に入った後、道場に行くと館長室に呼ばれ
「ご苦労さん、君は今日からもう来なくていいんだよ」
と師範代に無期限の禁足(道場に入ってはいけない、破門ではない)処分を言い渡された。
その後、芦原英幸は、師範代の薦めもあり何か償いをと朝6時から大八車を引いて廃品回収業の仕事を始めた。
夜は、公園でランニング、柔軟運動、筋力トレーニング、シャドーと稽古を欠かさず続けた。
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2ヵ月後、極真会館から呼び出され
「押忍」
と館長室に入ると大山倍達はいきなりいった。
「お前、四国へ行け」
「・・・・・・」
「芦原、私が死ねといったら死ねるか!」
「押忍」
「四国へ行って空手を広めてこい」
2日後、1967年3月27日の21時15分には着の身着のままで夜行に乗って東京を発った。
持っているのは極真会館から支給された交通費10000円で買った片道切符と道着の入ったバッグを1つだけだった。
列車は東海道を西に向かって走り、翌朝、岡山県に到着。
ここからフェリーで四国へ。
そして再び電車に揺られ、目的地の愛媛県東宇和郡野村町(現:西予市野村町)に到着。
野村町は小さな町で、ここに指導を依頼された道場があった。
生徒は5人。
芦原英幸は3畳半のアパートに入り、空手の指導だけでは収入が足りないので、出前のアルバイトをした。
少しして生徒たちと毛利松平のところへあいさつに行き、その帰りに食堂に入った。
しかしお金があまりなく、ご飯だけを頼み6人でテーブルに並んだご飯に醤油をかけたり塩をかけて食べた。
四国へ渡って3ヵ月後、至急戻るよう極真会館から連絡が入り、手持ちが500円しかなく腕時計を質に入れて久しぶりに東京へ戻った。
しかしまったく大山倍達から呼ばれず、毎日稽古をしていた。
2週間たってもお呼びがかからず、その間に四国から手紙が何通も来ていた。
芦原英幸は自分から館長室を訪ねた。
「四国へ帰ってもよろしいでしょうか?」
すると大山倍達はいった。
「君はもう行かなくていい。
ブラジルへ行け」
禁足処分中の廃品回収業務と四国で3ヵ月苦労したことで、再度、ブラジル行きが認められたのである。
当然、芦原英幸はブラジルに行きたかったが、野村町の5人のことがひっかかった。
「四国の道場はどうなるんでしょうか?」
5人を捨てて自分だけいい道に行くことはできない。
「このままではあいつらがかわいそうですよ。
あそこは潰れてしまいます」
「芦原、私のいうことが聞けないんだったら今度こそ破門だ!」
「・・・・・・」
どうしたらいいかわからず立ちつくしていたが、やがて決めた。
「長々とお世話になりました」
そういって頭を下げて館長室を出た。
トボトボ歩いて地下のロッカールームで着替えていると後輩が走ってきた。
「先輩、館長が呼んでおられます。
四国へ行っていいそうです」
こうして四国へ戻り指導を続けた。
その強さだけでなく、人間的にも魅力的な芦原英幸は、その後、道場生と道場の数を増やしていった。

石井和義

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石井和義は、1953年6月10日に愛媛県三間町で3人兄弟の次男として生まれた。
父親は、日本画家を志し、15歳で横山大観(「朦朧体」という独特の描法を確立した)に弟子入りした。
しかし太平洋戦争で兵隊に行き、活動の中断を余儀なくされ、夢はやぶれ、戦後、郷里で自転車店を開業したものの、世捨て人のように酒浸りの日々を送った。
母親は、農家の8 兄弟の長女として生まれ、幼くして大分県の旅館に奉公に出て長男を産み、郷里に帰り父親と出会い、次男(石井和義、正式な戸籍上は長男)と三男が生まれた。
小学生の長男は重度の腎臓病を患い、母親は生まれたばかりの次男と三男を抱え、アルコール依存症の父親の代わりに自転車店を切り盛りした。
長男は、貧乏なために満足な治療も受けられず、医者からも見放されていた。
母親はわらにもすがる思いで、父親の反対を押し切り、創価学会に入信。
ひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、兄の病気の回復を祈った。
その結果、長男の病気は完治した。
無学な母親が起こした奇跡に石井和義は、
「信念の前に理屈は無力」
ということを学んだ。
そして小学校、中学校と新聞配達のアルバイトを行い家計を助けた。
中学1年生のとき、近所のお兄さんが空手の練習しているのをみて
「かっこいいな」
と思い本を買った。
そして独学で空手の道をスタートさせた。
木に藁を巻いて巻き藁を、そして砂袋も自作し、雨が降っても雪が降っても、拳が割れて出血しても、毎日これを叩き続けた。
4年後、極真空手に入門するのだが、その頃にはすでに拳にはタコができて、手はグローブのように厚くなり、レンガを砕き、10枚以上の瓦を割れるようになっていた。
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石井和義は、高校は奨学金で行こうと決めていた。
1つの中学校から合格するのは1、2人という日本育英会(日本学生支援機構)の特別奨学金(通常より支給額が多く、返済は半額でよい)の試験に合格。
難関といわれた進学高校の入試にも合格。
順風満帆かと思われた矢先、前納しなければならない入学金、授業料が家にないことが発覚。
するとそれまで酒浸りで働かなった父親は、突然、絵を描くといい始めた。
まず1週間酒を断ち、その後、数週間、真冬に靴下も履かず白い着物1枚で正座し、描き続けた。
その間に食べたのはおにぎりと水だけだった。
そして描き上げた山水画は石井和義の高校の入学費となった。
それまでも絵の注文は多数あったが、父親は断り続けていた。
その後、酒浸りに戻り、1年後(石井和義が高2のとき)に他界した。
高校に入った石井和義はバイクの免許を取得し、平日の昼間は学校、休日は市内の喫茶店へコーヒー豆を配達するアルバイトをした。
そして学校の帰り道にはアルバイトの配達先の喫茶店を日替わりで回って、コーヒーと夕食をおごってもらった。
また大好きだった女の子と喫茶店で初デートしたとき、迷ったが
「鼻毛が出てるよ」
と小さな声で教えてあげたが、彼女はトイレに行くフリをして帰ってしまった。
言わないほうがよかったのか現在でも答えは出ていないという。
1969年1月、高1の冬、たまたまのぞいた極真会館四国支部芦原道場宇和島支部に入門。
芦原英幸の弟子となった。
「石井、電車で通っているのか?
交通費大変だろう?
月謝安くしてやる」
そういって芦原英幸は1000円の月謝を600円にした。
そういう芦原英幸自身、空手だけでは食えず、アルバイトをしながら電車で各道場へ指導に行っていた。
芦原英幸の空手は、理にかない、動きは美しく、速く、力強かった。
そして芦原英幸は、最初の柔軟体操から手を抜かずに指導した。
毎日の稽古が真剣勝負だった。
「いいか、倒さないと、倒されるんだよ!」
石井は、芦原の一挙一動、脱力、腰のキレ、緩急をマネて、その空手を学んでいった。
石井和義16歳、芦原英幸は25歳だった。
「習い事は全て、模倣から始まります。
しからば良い先生を探すのに妥協してはいけません。
良い先生、良いコーチに学ぶのが一番大切なことです。
正しい基本が身に付いてないと、いくら稽古しても無駄な努力になります。
私はラッキーにも日本一の先生と出会えました」

豚殺し

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そして高2の夏休み、石井和義は大山倍達の牛殺しに挑戦した。
自分の全力の拳や手刀を打ち込んだらどうなるのか?
試したくて我慢できなかった。
生まれ故郷の宇和島市は闘牛で有名な町で、友人宅には横綱牛がいた。
3、400㎏はあろう筋肉の塊を目の前にして、石井和義は
「やめとくわ!
ケガさせたら悪い」
と逃げた。
牛をあきらめた石井和義は豚殺しをすることに決めた。
まず養豚場にアルバイトとして潜入。
毎日、30℃を超える暑さの中、長靴を履いて、スコップを持って、汗と泥とクソにまみれて豚小屋の清掃を行った。
アルバイトの契約は2週間。
仕事には律儀な石井和義は、豚殺しを行うのは最終日、そしてターゲットは200㎏はあろう1番デカい豚と決めた。
無心で餌を食べる豚の前に立ち、腰を落とし構え、
「俺の空手の修行のために死んでくれ!」
気合と共に放った右の拳を、豚の眉間に打ち込んだ。
豚は鳴くこともなく餌を食べ続けている。
もう1度右拳を叩きつけたがビクともしない。
「そうだ、牛の急所は耳の横だと空手バカ一代で書いてあった。
豚も同じだろう」
と手刀を横から打ちつけたが豚は平気で食べ続けた。
その後、肘打ち、回し蹴り、後ろ回し蹴りなどを打ち込んだが、豚は迷惑そうな顔をするばかり。
怒った石井和義は、豚の前足にローキック。
よろけた豚に足を踏まれ、あまりの痛さに豚小屋の中を転げ回った。
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高3の冬、石井和義は黒帯(初段)になった。
僅か2年での昇段は異例のことだった。
高校卒業後、バイクとバッグ1つだけで四国から大阪へ渡った。
堺市にあった兄の家に住み、アートスクールに通いながらアルバイトで働いてお金と貯め、東京芸大に入ってデザイナーになるという計画だった。
しかしアートスクールの芸大受験コースに入ると周囲のすごさに圧倒された。
すぐに路線を変更し、実業家になるため、元手を得るためにデパートの配送のアルバイトを開始した。
歩合制で、たくさん配れば配るほど稼げるため、バイクの免許しかなかった石井和義は、上司に借金して車の免許を取得。
効率をよくするため、配る地域も一戸建てではなく団地にしてもらい最高で1日380個(当時の新記録)を配った。
自分の車を持ち込むとバイト代がアップするので、免許取得の借金を返した後で軽トラを買った。
夜は段ボールを回収する別のアルバイトをし、昼間、デパートの配達をしながら段ボールが捨ててある場所を目をつけておき、夜になると回収に行った。
段ボールは重さで買い取られるので、水をかけて重くした。
こうして商売の面白さを知った石井和義は大阪船場の貿易会社に就職。
仕事は百貨店への営業だった。
石井和義は、サラリーマンとなり、空手は趣味で続けた。
毎年、四国愛媛県八幡浜の芦原空手の本部道場で行われた昇段審査会や合宿などのときは、大阪から1人で参加した。

22歳で極真会館芦原道場大阪支部長に

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