1939年には第1回Mr.アメリカ大会が行われた。
カリフォルニア州ベニス市のサンタモニカ桟橋の南にあるベニスビーチは通称:マッスルビーチと呼ばれ、たくさんの人がここに集まり読書や食事、そしてトレーニングを行う。
第2次世界大戦中、マッスルビーチ周辺は海外の戦地に行く兵隊の宿舎だったので、訓練やトレーニングをしていた場所だった。
マッスルコンテストが、マッスルビーチの屋外トレーニングジムの近くで、5月の最終日曜日のメモリアルデー戦没将兵追悼記念日、7月4日の独立記念日、9月第一月曜日のレイバー・デーの年3回開催された。
それは
男子ボディビル部門
女子ボディビル部門
マスターズ(35歳以上)ボディビル部門、
フィジック部門(男)
フィギュア部門(女)
ビキニ部門(女)
に分かれてビーチに似合う体を競うカリフォルニア最大級のアマチュアコンテストである。
1965年、マッスルビーチにゴールドジム第1号店がオープンし、アメリカのフィットネスのメッカとなっていった。
Old Man Strength At Muscle Beach
「脳ミソ空っぽ」
「脳筋」
「露出狂」
「ナルシスト」
「同性愛者が多い」
など今日でも誤解されることが多い。
特に女性がボディビルを行うことについては否定的な意見が多く、逆に女性ボディビルダーの人口が多さとその国の文化レベルは比例するといわれている。
日本においては、石井直方や小山裕史など元トップボディビルダーが、トップスポーツアスリートを含めてスポーツトレーニングを理論的にも実践的にも牽引していることからもボディビルディングというスポーツの実用性の高さを証明している。
【刃牙実写版】ビスケットオリバのモデル「セルジオオリバ」のトレーニング!【筋トレ】 HD
その結果、
「ボディビルダーはみんなドーピングしている」
というイメージもある。
実際には薬物を使用するボディビルダーと一切薬物を使用しないナチュラルビルダーがいる。
通常、両者が同じコンテストに出場することはなく各々、専用のコンテストがある。
ボディビルに「健康美」をみたいのか、「怪物」のような肉体をみたいのか、意見が分かれるところである。
伝説のボディビルダーであるセルジオ・オリバは、薬物に否定的だった。
彼は生涯で1度ステロイドを使用し、確かに筋肉を得られたものの
「筋肉がつきすぎる(美しくない)」
という理由で使用をやめた。
熱中
Arnold Schwarzenegger's Amazing Motivational Story
夜遅くなってバスがなくなってもトレーニングを途中でやめることはなく家まで6㎞歩いて帰った。
そのトレーニングは建物が壊れると思うくらい激しかった。
土日はジムは休みだったが、アーノルドが入門後まもなくジムの窓ガラスが割られていることにクルト・マーヌルは気づいた。
アーノルドが週末も練習したさに梯子を借りてきて壁をのぼって窓を割り侵入していた。
クルト・マーヌルは怒ったが、やがてアーノルドの熱意にほだされた。
アーノルドは寒い冬の夜もトレーニングし続け、凍ったシャフトを握っていた手の皮膚がはがれていたこともあった。
トレーニング中は誰が話しかけても応答しないが、ジムのムードメーカーでよく人を笑わせた。
アーノルドは、クルト・マーヌル以外にも、グラーツにいたサミー・アディア・サードやイギリス空軍にいたヘルムート・ナウアなど有名なボディビルダーにも積極的にコンタクトしアドバイスを受けた。
またグラーツの政治家:アルフレッド・ガーストルとも親しくなり彼の所有していたアパートをトレーニング用に提供してもらった。
アルフレッド・ガーストルはユダヤ人だったが、アーノルドは父親がナチス党員であるにも関わらずそのアパートでトレーニングした後、彼の家で食事をした。
これは1981年にカトリック教徒であるケネディ家のマリア・シュライバーと結婚するかもしれないというときまで続いた。
アーノルドは精神的にも肉体的にも大きくなっていったが、父親と兄は小さくなっていった。
グスタフは酒に酔ってバスに乗って女性の乗客に迷惑をかける不祥事を起こしラーバ警察へ転勤させられた。
兄のマインハルトは親にいわずに学校を辞めて電子部品メーカに勤め出した。
しかしその後、職を転々とし、借金を重ねた末、グスタフに払ってもらった。
15歳のアーノルドは、ボディビルと将来の夢だけだった。
お金を得るためにグラーツの大工の見習いをはじめた。
月給は1年目は250シリング、2年目は700シリング、3年目は1000シリングだった。
そしてグラーツのシュタイヤーホテルで行われたボディビル大会に初出場し準優勝した。
アルフレッド・ガーストルはボディビルが青少年の非行防止に役立つと政治家仲間に呼びかけた。
またアルフレッド・ガーストルは、後にアーノルドがアメリカで国籍をとるとき、彼のために奔走することになる。
戦車好き
Arnold Schwarzenegger Crushes A Car With His Tank
ドイツのボディビル専門誌「アスレチックスポーツマン」の出版者:ベノ・ダーマンに手紙を書いた。
以前にもボディビルの技術について質問を送り返事をもらったことがあった。
しかし1965年10月1日、18歳のアーノルドはオーストリア陸軍に徴兵され1年間、兵役義務に就いた。
グスタフは息子がグラーツ近郊の駐屯地に配置されるよう、また戦車好きの息子が戦車の操縦ができるように頼み込んだ。
父親のコネでオーストリア陸軍は戦車の操縦資格の年齢を21歳から18歳へ下げた。
アーノルドは戦車の発砲時の反動にスリルを感じ、その威力に感動した。
ブレーキをかけ忘れて1台の戦車を川に突っ込ませたがなにもいわれなかった。
これまで週1回だけしか食べられなかったが軍隊では毎日肉を食べることができ、大量のタンパク質に肉体は反応し筋肉が発達した。
Schwarzenegger - Mr. Europe - Late 60s
10月30日、ベノ・ダーマンの誘いでドイツのシュトゥットガルトで行われるジュニア・Mr.ヨーロッパ大会に出場し、アーノルドは優勝した。
このときアーノルドはベノ・ダーマンにドイツまでの交通費を出してもらった。
しかしオーストリアの選手たちは車で一緒にシュトゥットガルトまで行った。
なのにベノ・ダーマンが駅まで迎えにいくとアーノルドは駅から出てきたという。
自分が勝つためには手段を選ばない男である。
またアーノルドは、この大会で審査員をしていたブッチガーに出会った。
ドイツのミュンヘンにジムを持ち、「ヘラクレス」「スポーツジャーナル」「スポーツレビュー」の3誌を発行していたブッチガーに
「コーチにならないか」
と誘われたが
「考えさせてくれ」
と答えた。
アーノルドは軍に無断で大会に出ていたためグラーツも戻ると処罰が待っていた。
営倉に拘置され毛布1枚で石の床の上に寝さされて食べ物も十分にもらえなかった。
しかし優勝したことを知ると軍当局の態度は一転した。
食べ物はたらふく食べられ、ボディビルのトレーニングに励んでオーストリアに栄誉をもたらすようにと応援してくれるようになった。
グラーツではアーノルドは英雄扱いを受けた。
しかし18歳にもなってもガールフレンドが1人もいなかった。
父も兄もプレイボーイだったし、グラーツのボディビル仲間はダンスホールやディスコに通っていたがアーノルドはそういう場所に行ったことはなかった。
ボディビルがあればデートなど必要なかった。
俺は危険があるからといってひるまないよ
Show Of Strength (1966)
親はプロになることは反対だった。
グラーツで普通の仕事をするか、陸軍に入って軍人になって趣味でボディビルをやればいいと思っていた。
しかしアーノルドは安全、安易、平均、安定を嫌い、危険を冒し挑戦することを好んだ。
「俺は他人と同じようになるのが嫌だった。
人より違った人間になりたかった
リーダーと呼ばれるトップに立つ少数の人間の仲間に入り、その他大勢の1人になりたくなかったんだ。
というのはリーダー格の人間というのは100%の自分の潜在能力を引き出すヤツだからだ」
「強さは勝つことから生まれない。
苦痛を乗り越えてこそ強くなれるのだから。
困難にぶつかっても途中であきらめないこと。
それが強さなんだ」
「とにかくトップになりたいと思わなければならない。
英雄を崇拝するだけで終わらないで俺だってなれると自分に言い聞かすんだ」
「誰にだって潜在能力はある。
その力を出すのは自分に対する誓いなんだ。」
「幸福は偶然やってこない。
どんな夢もなんらかの危険をはらんでいる
特に失敗という危険だ。
だけど俺は危険があるからといってひるまないよ
失敗という危険を冒してもやり直せばいんだから。
永久に失敗するということはない。
10回挑戦したら11回目には勝つ確率は初めての挑戦より高いはずだ」
そしてドイツのミュンヘンのブッチガーのジムで働き出した。
Arnold Schwarzenegger win The Mr Universe (1966)
最初はジムでは寝泊まりし、マネージャーやコーチ、そして掃除など雑用の仕事も行った。
そしてトレーニングは1日7時間にも及んだ。
ミュンヘンにきて2ヶ月もたたない9月末、イギリス、ロンドンのビクトリアパレスで行われたMr.ユニバース大会に出場し2位となった。
Mr.ユニバースは世界一のボディビルダーを選出する大会で、1950年にはジェームズ・ボンド・シリーズで有名なショーン・コネリーも出場したことがあった。
アーノルドの巨体に観客は総立ちで2度もアンコールした。