1年で大洋ファンの記憶に刻み込んだ男。ラリーシーツ。
ラリー・シーツの獲得タイトルと主な表彰と成績
打点王:1回 (1992年)
ベストナイン:1回 (外野手:1992年)
優秀JCB・MEP賞:1回 (1992年)
ベストナイン:1回 (外野手:1992年)
優秀JCB・MEP賞:1回 (1992年)
ラリー・シーツはどんなプレースタイル?
基本的には、長距離バッターというより、中距離バッターと言えるであろう。本塁打よりも選手を返すためのバッティングをするプレースタイルと言える。
野球に対しては、なかなかの才能を持った選手と言えるであろう。
野球に対しては、なかなかの才能を持った選手と言えるであろう。
ラリー・シーツは来日前の経歴がおもしろい選手である。
アメリカのバージニア州に生まれ、1978年にMLBでドラフト指名を受けオリオールズに契約するが、プロでやっていくことに不安を覚え、最初の3年間はプレーをせず、大学で勉強していたらしい。
そして、1984年にメジャーに昇格し、そこそこの成績を残していたラリーだが、1987年に保険体育学の学位を取得。
その年に、チーム自体は低迷している中、ラリーは一人活躍し、.316 31本塁打と素晴らしい成績を残すのです。
しかし、翌年から成績は大幅に落ち、1990年にはデトロイト・タイガースに移籍するが、1991年に契約でもめて退団。
イタリアのプロリーグでプレーすることとなる。その翌年の1992年に横浜大洋ホエールズと契約し、日本にくることになったのです。
そして、1984年にメジャーに昇格し、そこそこの成績を残していたラリーだが、1987年に保険体育学の学位を取得。
その年に、チーム自体は低迷している中、ラリーは一人活躍し、.316 31本塁打と素晴らしい成績を残すのです。
しかし、翌年から成績は大幅に落ち、1990年にはデトロイト・タイガースに移籍するが、1991年に契約でもめて退団。
イタリアのプロリーグでプレーすることとなる。その翌年の1992年に横浜大洋ホエールズと契約し、日本にくることになったのです。
via stat.ameba.jp
わずか1年であるが日本プロ野球の成績は。
日本にやってきたラリーは、たった1年で、打率.308 26本塁打 100打点と横浜の主力選手として猛威を振るったのでした。
大活躍した結果、打点王とベストナインに輝き、その年のオールスターにも出場するほどの活躍ぶりでした。
大活躍した結果、打点王とベストナインに輝き、その年のオールスターにも出場するほどの活躍ぶりでした。
1992年 巨人vs横浜大洋4回戦 - YouTube
(再アップ)
via youtu.be
最終的に、チーム自体は5位と低迷しましたが、首脳陣は来期ももちろん期待して契約更改に臨みました。
しかし、その契約内容でラリーともつれ、他球団にトレードすることもなく、アメリカに帰ってしまいました。
しかし、その契約内容でラリーともつれ、他球団にトレードすることもなく、アメリカに帰ってしまいました。
日本を去ってからのラリー・シーツ。
アメリカに帰ってからのラリーは、シアトル・マリナーズでプレーしますが、わずか11試合のみの出場にとどまり、現役を引退しました。
退団した翌年の3月。1993年の3月に発売されたスーファミ2では、ファミスタシリーズでは初めて、打点のパラメータを導入し、唯一3ケタに達した選手がラリー・シーツである。
99打点は、架空選手も含めて数名いるが、ラリーは全選手の中、一番チャンスに強い選手と言える。
99打点は、架空選手も含めて数名いるが、ラリーは全選手の中、一番チャンスに強い選手と言える。
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身長191cm、体重106kg
右投げ左打ち
ポジション:外野手、一塁手
1992年に横浜大洋ホエールズに入団し、わずか1年で打点王とベストナインを獲るほどの成績を叩き出した選手である。
オールスターゲームにも出場するほど、ファンの記憶に刻み込まれた選手であろう。