伝説の左腕【江夏豊】はとてつもない大物だった。
2016年11月25日 更新

伝説の左腕【江夏豊】はとてつもない大物だった。

オールスター9者連続三振や、江夏の21球など、数々の伝説を作ってきた男、江夏豊。プロ野球の5球団を渡り歩き、獲った三振の数は2987奪三振と三振の山を築きました。先発でも活躍し、抑えても大活躍の投手はなかなかいないでしょう。人間としても魅力的な江夏豊の今と昔を振り返ります。

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最高の左腕投手。奪三振の山を築き上げる男、江夏豊

江夏豊(えなつゆたか)

江夏豊(えなつゆたか)

1948年5月15日生まれ
身長179cm、体重90kg
左投げ左打ち
ポジション:投手

阪神タイガースから始まり、6球団とメジャーまで渡り歩いた左腕投手。1960年代から1980年代にかけて、セ・パ両リーグの名選手から三振を奪い続けた剛腕投手です。
1シーズン400奪三振は、今でも破られていない世界記録を樹立しました。

江夏豊の獲得タイトル・主な表彰と記録

最多勝:2回 (1968年、1973年)
最優秀防御率:1回 (1969年)
最多奪三振(当時連盟表彰なし):6回 (1967年 - 1972年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰
最優秀救援投手:5回 (1977年、1979年 - 1982年) ※最多タイ。他には赤堀元之、佐々木主浩

MVP:2回 (1979年、1981年) ※両リーグでの受賞は史上初
沢村賞:1回 (1968年)
ベストナイン:1回 (1968年)
最優秀投手:1回 (1968年)
ファイアマン賞:2回 (1981年、1982年)

シーズン401奪三振:1968年 ※世界記録(但し、MLB以外の記録は世界記録と認定されない)
1試合16奪三振:1968年8月8日、対中日ドラゴンズ17回戦(中日スタヂアム) ※セ・リーグ記録
23イニング連続奪三振:1968年8月8日 - 8月21日
41イニング連続無失点:1969年4月12日 - 5月15日
オールスターゲーム15連続奪三振(1970年 - 1971年) ※オールスター記録

江夏豊の野球に対するプレースタイル

一匹狼の天才投手

一匹狼の天才投手

打者が素晴らしければ素晴らしいほど、燃える左腕投手である。401奪三振という前代未聞の金字塔を打ち立て、現在でも破られることはないであろう。
江夏豊の野球感覚は飛び抜けたものがある。ファンの間でも、20世紀の一番素晴らしい投手は誰かと尋ねると、江夏豊の名前が数多く出るであろう。

剛腕の速球派というよりも、ずば抜けた制球力と、配球の上手さが目立つ投手です。

スピードも150km弱で、球種もカーブとストレートのみで、ここまでの大投手になっているのですから、相当なコントロールの持ち主でしょう。

江夏豊の生い立ちとプロに入るまでの軌跡

子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正された。
中学生となってからは一度野球部に入部するが、入部2か月を経ても球拾い程度で練習をさせてもらえないことに不満を抱き上級生に直訴、これが乱闘騒ぎとなってしまい野球部を退部となる。この時、野球部の監督だった教師から「野球はいろんなスポーツの結晶だから、いろんなスポーツを体験しろ」と諭され、バレーボールやラグビー、相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。陸上部では砲丸投の選手として活躍し、県大会で準優勝したこともある。
本格的に野球を始めるのは、当時は弱小野球部だった大阪学院大学高等学校に入学してからのことである。高校時代は制球に難があり、またそれを理由に変化球を一切教えられてこなかったが、球威のある直球と様々な駆け引きで活躍。3年時(1966年)の夏の甲子園府予選では準決勝に進出するが、後に阪神の同僚となる桜塚高の奥田敏輝投手と投げ合い0-1で惜敗。しかし予選7試合を1人で投げ、わずか3失点という成績を残した。この時の活躍がプロのスカウトの目に留まり、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として1位指名に踏み切らせるきっかけとなった。なお、高校時代には一度も柵越えのホームランを打たれたことがなく、唯一平野光泰(明星高校)にランニングホームランを喫したのみである[4]。
江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。大阪学院大学高校は江夏が2年生の時、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合をして延長15回0-0の引き分けに終わった。この試合で、江夏が15イニングを投げ抜き15奪三振を挙げる好投を見せた一方、育英の3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振をマーク。4番打者として打席に立った江夏は、速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している[5]。この時以来、カーブを習得したい願望が芽生えたという。

先発として、三振と勝利の山を築き上げた阪神時代

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1966年のドラフトで4球団から指名を受け、くじの結果、指名権を得た阪神タイガースに入団することになる。当時、球団が準備していた背番号は、1,13,28だった。1はライバルの鈴木啓示と被る理由から拒否。13は縁起が悪いという数字から拒否。結果、28しか残らなかったので28となった。28という番号は完全数ですが、江夏からすると完全数とはなにって感じらしい。

高校時代から野球を始めた江夏は、球種など全くといっていいほど知らない。1968年から投手コーチになった林義一によって、フォームの癖を徹底的に直され、球界を代表する投手へと育てられた江夏は、林のことをお師匠さんと呼び慕うように。

更に、ストイックな野球観を持つ村山実に感銘を受けて、ありとあらゆる村山の行動を観察し、参考にしてきた。
が、江夏が着々と実績を上げていくと、村山は露骨に江夏を避けるようになったという。なんて小さい男だと嘆いていたが、のちに、一人前の投手と認めたがゆえの行動だと知ると「勝負師のあり方を教えてもらった」と語っている。

抑えとしての第一歩。南海時代からの江夏豊

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江夏は、周りの選手との同調することが苦手であり、特に当時の監督、吉田監督とそりがあわなかった。それに江夏の普段のイメージの悪さもあいまって、阪神タイガースから南海ホークスに移籍することが決まった。
もちろん、そのまま聞き入れる江夏ではない、南海ホークスに移籍する気は全くなく、そのまま現役を引退する気であったが、野村克也監督と会談をした時に、野村の野球観に大いに感銘し、南海ホークスへ移籍することを決めました。
南海ホークスに移籍が決定したが、体力的に50球ほどしか投げれなくなっている江夏に対し、野村はリリーフ投手を打診した。抑え投手と言えば、当時は格下に見られた投手だったので、プライドの高い江夏は反発し続けたが、「野球界に革命を起こそう」という説得に、江夏の心が納得したのであった。
当時のリリーフと言えば、さほど技術的なものはなく、調整法も定まっていない時代に、江夏はメジャーばりの調整法を取り入れ、周りからの非難は相当なものであったらしい。

投球スタイルも、阪神時代とはうって変わり、神に近い投球術で打者を翻弄する投手に変わっていった。周囲の評価ではなく、野村克也と言う江夏が惚れた男に対して、野球をやっていたといえるであろう。
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野村監督の退団と共に、南海ホークスを退団した江夏は、広島東洋カープに移籍。投球術も更に冴えわたり、江夏の21球でも知られてるように、打者を翻弄しつづけていった。

わずか、3年で日本ハムへ移籍することになったが、江夏自身は、広島時代は最も楽しかった時代だと語っている。

その後、日本ハムも3年。西武へ1年プレーし、36歳で日本プロ野球を引退することとなった。

遥か海の向こうに渡った挑戦者

1985年、ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えて36歳でメジャーに挑戦するルーキー」として地元マスコミからも注目された。
キャンプでは順調に結果を出し、オープン戦でも好調を維持して開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。この時、球団からはマイナー契約を打診されていたが、実質的には戦力構想外であったという。また当時のブルワーズの発表によると、やはり36歳という高齢がチーム編成においてネックであったとされており、本人も「そこまでやる気はない」として、現役を完全に退いた。
この時江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・ヒゲーラは、この年に投手として15勝、翌年は20勝を挙げる活躍を見せた。後にヒゲーラが日米野球で来日したとき、かつてはビールを買う金すら持ち合わせていなかったヒゲーラの生活の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。
渡米の際には、現役時代につけていた日記や試合ノートを全て焼却したと語っている。
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