2017年1月19日 更新

【平松政次】ミスターG・長嶋茂雄をメッタ斬りした男

凄まじい切れ味の「カミソリシュート」を武器に、大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げた平松政次。その201勝のうち51勝が巨人からの勝利であり、長嶋茂雄が最も苦手としていた投手だった。

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運命のドラフト

岡山東商高時代 1965年春の選抜優勝

岡山東商高時代 1965年春の選抜優勝

1位指名の約束を二度も裏切られた男

 第1回ドラフト会議が行われた1965年。この年、センバツ大会で優勝投手になったのが岡山東商高の平松政次だ。当然のように各球団、平松獲得に興味を示した。その中でも、熱心だったといわれるのが巨人。平松自身へのアタックだけでなく、岡山東商高の監督や部長、平松の下宿先などにもアプローチをしかけ、平松の1位指名を訴えた。
 ところがドラフト当日。巨人が1位指名したのは甲府商高の堀内恒夫。平松は中日の4位指名を受けたがこれを拒否し、社会人野球の日本石油に入社した。
 社会人野球で実績を残した平松に対し、巨人は翌年のドラフト(※まだ社会人選手の「縛り期間」ルールがなかった)でも指名を検討。当時の投手コーチだった藤田元司まで乗り出す熱の入れようだった。平松はこのラブコールに対して「1位で指名されたら入団します」と答えた。
 ところが、実際のドラフト会議で巨人が1位指名したのは立教大のスラッガー、槌田誠。平松は大洋から2位指名され、「そんなに俺が信用できないなら、大洋に入って巨人をやっつけてやろう」とプロ入りを決断した。
第1回ドラフトで巨人に1位指名された堀内恒夫

第1回ドラフトで巨人に1位指名された堀内恒夫

平松は中日の4位指名を拒否し日本石油に進むことになる

カミソリを手にするまでは怖くないピッチャーだった

 平松政次は県立岡山東商業高校では1965年春の甲子園で優勝。高校卒業後は社会人の日本石油に進み、都市対抗野球での優勝の実績を提げ67年プロ入りした。そして、プロ入り2度目の登板で、サンケイ(現ヤクルト)を相手に先発し、99球、5奪三振、4安打完封でプロ初勝利を挙げた。順調なスタートを切ったように思われたが…
新人投手にやられた悔しさも手伝って当時のサンケイの選手の評価はというと意外に酷評されている。

 「2三振はしたが、たいしてスピードのある投手でもない。カーブのキレもそれほどではなかった。宮城球場はバックスクリーンが悪いので球の出所が良くないので戸惑った」(豊田泰光一塁手)。「社会人のときに対戦したが大して進歩していない。高めのボールは伸びがあったが低めはこわくない」(武上四郎二塁手)。

 指摘は当たらずとも遠からずだった。1年目3勝(4敗)に終わった平松は、2年目も5勝12敗と伸び悩んだ。アマチュアでは通用したストレートが、プロではポンポン弾き返された。
日石時代

日石時代

1967年の第38回大会で優勝。全5試合で3完封の活躍で橋戸賞を受賞

カッーとなり思わず武器を手にした

 シュートを覚えるきっかけは1967年、社会人時代のキャンプで名前も知らなかった日石(日本石油)のOBの方に、「お前、シュートの投げ方知ってるか?」と聞かれた時です。知らないというと、その左投げのOBは“こう握って、こう投げるんだ”と何球か投げて見せてくれたんです。後で聞くと、藤田(元司)さんと同級の慶大出身の人でした。そうやってシュートは一応覚えていたのですが、社会人まではストレートとカーブだけで十分三振がとれていましたから、投げる気は全くなかった。
 ところが3年目の春のキャンプでのことでした。雨が降ってグラウンドが使えず、体育館の板張りの床の上で投球練習をしていた時です。若手が並んで投げているところへカズ(近藤和彦)さんとアキ(近藤昭仁)さんがやって来て打席に立った。しばらくして2人は「平松、こんな球しかないのか」というわけですよ。それでカーッと頭に来て、
「シュートもあります!」
と、売り言葉に買い言葉でいってしまった。それで打者に対して投げたこともないシュートを投げる羽目になった。するとこれが、直角に見えるくらい曲がる。投げた僕が驚いたくらいだから、打席のカズさんは腰を抜かしていました。6球投げてみてこれは凄いということになり、カミソリシュートが誕生した。だからものすごい練習を重ねてやっと生まれたものではなく、突然降って湧いたという感じだったんですよ。
シュートボールをマスターした平松は、3年目の1969年には14勝し、翌70年には25勝を挙げ、最多勝利投手のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞した。71年も17勝で2年連続最多勝となった。平松の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれるようになった。

カミソリ平松

平松は「カミソリ平松」という愛称で呼ばれることもあった。むろん「カミソリシュート」を投げる投手だったからだろうが、短期で気が強い気性も、その愛称の理由の1つだったかもしれない。
短気で気が強い性格である。若手時代、エラーをしたベテランの江尻亮に砂を蹴飛ばして首脳陣から大目玉をくらった[9]。ある試合でKOされたあと、利き手の右手でベンチにあった扇風機を叩き壊したことがある。当時の扇風機の羽根は金属製であり、大怪我をしても不思議ではなく、無傷で済んだのは奇跡としか言いようがない。本人も「一歩間違えば投手生命が終わっていたかも。無茶をやった」と述懐している。 周囲に対して怒るので「みんな懸命にやってるんだ。変なプレーをしてもお前が助けろ。」とコーチに諭されても、負けん気の強さから「俺は勝ちたいんだ!変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と言い返した。[10]
出典 平松政次-Wikipedia

巨人キラー

最もスピードのあった70年頃

最もスピードのあった70年頃

平松の巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。ただし、金田は国鉄時代の通算353勝の1/5に満たない65勝なのに対し、平松は通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。また、金田は65勝72敗と負け越しているが平松は51勝47敗と勝ち越している。巨人戦30勝以上している投手で勝ち越しているのは平松と星野仙一、川口和久だけであるが、星野、川口が巨人より勝ち星の多い対戦相手(いずれも阪神)があったのに対し、平松は巨人戦の勝利数が飛び抜けて多い(巨人の次に勝利数が多かったのは後述する中日で42勝)。
出典 平松政次-Wikipedia
1970年には25勝を挙げ、最多勝のタイトル、沢村賞を受賞した。
あの年あたりは、長嶋さんに対しては生意気なようですが3球三振狙いでしたもの。腰を引いてるから外へズバッといく。見逃しです。70年は、巨人戦で3試合連続完投、33イニング無失点という記録を作ったのですが、4試合連続完封と杉下さん(茂氏)の持つ巨人戦42イニング無失点の記録も達成されるのでは、と話題になりました。私も、もう破るつもりでいました。

「長嶋ファン」から「長嶋キラー」へ

少年時代は、長嶋(茂雄)さんが大好きな巨人ファンのソフトボールをしていた少年でした。昭和33年(1958年)、小学5年生のときに長嶋さんが巨人に入団し、デビューしました。このときのすごい活躍が少年時代の僕にとって強烈な衝撃で、たちまち長嶋さんの虜になってしまいました。そして、長嶋さんがいる巨人が好きになったんです。
入団当時は背番号3だった

入団当時は背番号3だった

平松が大洋に入団した時の背番号は「3」だった。普通はピッチャーがつける背番号ではないが、長嶋茂雄に憧れていたことこともあり、長嶋と同じ背番号だった。
特に長嶋茂雄が最も苦手にしていた投手として知られている。長嶋と平松の通算対戦成績は181打数35安打8本塁打、打率.193、三振33、内野ゴロ65(内併殺打7)で、25打数無安打の時期もあった。長嶋は平松の200勝達成記念パーティで「あの頃は寝てもさめても平松のシュートが頭から離れなかった」とコメントしている。
出典 平松政次-Wikipedia
長嶋茂雄 超偉人伝説 ミスタープロ野球! | 少年野球指導|名選手を育てるプロの知識と技術と理論!なぜ?私の息子はドラフトで指名されたのか? (1523886)

前出の金田正一は、長嶋のプロデビュー戦の対戦投手で、長嶋から4打席連続三振を奪ったことが有名だ。次の対戦でも第1打席で三振を奪っており、5打席連続で三振に仕留めていた。この話から、金田も長嶋キラーだったのかと思うのだが実はそうではなかった。金田と長嶋の対戦成績は金田が巨人に移籍するまでの7年間で、打率.313、18本塁打、長嶋は金田が最も多くの本塁打を打たれた打者だった。

長嶋茂雄がおかしな打ち方をした理由

長嶋さんは僕を攻略するために、いろいろと工夫を巡らせていた。長嶋さんと親しかったニッポン放送の深沢弘アナウンサーに聞いた話ですが、大洋戦で僕に抑えられるとすぐに家に帰って深沢さんを呼び出す。それで長嶋さんは、ユニフォーム姿のままで深沢さんに「平松のフォームを真似てくれ!」といって投手に見立て、朝方まで素振りをしたそうです。
 (1523892)

 ある対戦では、打つ瞬間にグリップを緩めてバットを落とし、グリップエンドを余して振ったこともあった。もともと長嶋さんはバットを目一杯長く持つタイプ。おかしな打ち方をするなァと不思議に思ったんです。現役時代にはどうしてそんな打ち方をするのか、なかなか聞く機会がなくて、僕の通算200勝達成パーティーの席でご本人に長年の謎をぶつけてみたら、こんな答えが返ってきた。
「平松を打つためにはバットを長く持っていては詰まると思った。でも最初からそうすれば、巨人の4番・長嶋がバットを短く持ったということで、ファンに申し訳が立たない。打つ瞬間なら分からないだろうと思ってね」
 最初からバットを短く持つのは、巨人と長嶋のプライドが許さない、ということだったんですね。
 でもそこまでやっても、キレのあるシュートがコースに決まれば打たれることはありませんでした。たとえバットを短く持っても同じ結果だったと思いますよ。
プロ野球狂の詩2006年02月 (1523903)

 平松は巨人のV9時代カミソリシュートを武器に、巨人に対し滅法強く長嶋を手玉に取っていた。その活躍の背景にはドラフトで巨人に裏切られたことが根にあったのだろうか。そんな因縁があったればこそだが、平松と巨人、長嶋との対戦はプロ野球を面白くしていた。
 筆者が小学生の頃(1972、3年頃)、近所に、平松とライオン丸の愛称で知られたシピン(ともに大洋)に似た店員さんがいるラーメン屋があった。巨人ファンで長嶋ファンの筆者からすると平松は憎っくき相手だったのだが、その店のラーメンと平松に似た店員さんが好きだった。
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