1985.阪神タイガース優勝劇 阪神が優勝すれば日本は変わる!バックスクリーン3連発、道頓堀ダイブ、カーネル・サンダースの呪い
2021年4月6日 更新

1985.阪神タイガース優勝劇 阪神が優勝すれば日本は変わる!バックスクリーン3連発、道頓堀ダイブ、カーネル・サンダースの呪い

1985年、虎が長い眠りから覚めると、日本は熱狂のジャングルと化し、その優勝劇は、まさに「Tigers The Movie」、まるで映画のようでした。

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実際、スタートは最悪だった。
4月13日、開幕戦の相手は、前年、4度目のリーグ優勝と3度目の日本一を果たした広島。
試合は3対3で延長に突入し、10回表、阪神タイガースは、代打、北村照文のライト前ヒット、1番、真弓明信の送りバントで1アウト2塁という絶好のチャンスをつくった。
打席は、この試合2安打の2番、弘田澄男。
しかし次の瞬間、
 「アウト!!」
2塁ベースのすぐ横で北村が尻もちをつきへたり込み、その横で広島のセカンド、木下富雄が、ボールを持った右手を挙げていて、広島市民球場はカープファンの歓声に包まれた。
隠し球だった。
真弓の送りバントのとき、一塁ベースカバーに入り送球を受けた木下は、投手、大野豊に歩み寄り、ボールをグラブに押しつけるようにして渡したが、次の瞬間、素早く引き抜いて左の脇の下に隠した。
そして左脇を締め、左手のグラブを広げ、右手もパーにして守備位置へ戻っていた。
1アウト2塁が、一気に2アウト、ランナーなし。
試合の流れは変わり、その裏、広島はサヨナラ勝ちした。
「いろいろありますなあ。
隠し球にやられてしもうたなあ」
「8年ぶりの采配?
こんなもんですわ」
「池田がいいピッチングをしてくれていたのに」
「クリーンアップが打てまへんでしたなあ」
記者に囲まれて京都弁でハンナリと答えていた吉田義男監督だったが、少しずつふるえ始め、我慢の限界に達すると、かぶっていた帽子をとって
「バシッ!バシッ!バシン!」
と3度、ベンチに叩きつけた。
 「この悔しさを忘れたらあきまへん!!
1年間、絶対に忘れたらあきまへん!!
ええ、私は忘れまへんで!!」
 (2268151)

この開幕戦を含め阪神タイガースの基本オーダーは

1 真弓明信
2 弘田澄男
3 ランディ・バース
4 掛布雅之
5 岡田彰布
6 佐野仙好
7 平田勝男
8 木戸克彦
9 (ピッチャー)

真弓、バース、掛布、岡田を筆頭に打線に切れ目がなかった。
「8番の木戸がまた勝負強くていいところで打っていたんだよ。
強いていえば平田のところでちょっとだけホッとできる感じだったかな。
とにかく真弓を含めてホームランバッターがズラリとそろっていた」
(八重樫幸雄、ヤクルト、キャッチャー)

「恐怖の1番打者」真弓明信

 (2268098)

社会人野球、太平洋クラブライオンを経て、田淵幸一、古沢憲司との世紀のトレードで阪神タイガースに移籍し、1年目から強打、堅守、俊足、そして内野も外野も守れるマルチプレーヤーとして活躍。
1982年7月、11連勝か8連敗を重苦しい雰囲気で漂う移動バスの中、突然、チームメイトとバカ騒ぎをはじめた真弓明信にコーチがに謝りながら鉄拳制裁。
その光景が面白かったため雰囲気が一変、その後、チームは連敗から脱出できた。
また8月31日には「審判集団暴行事件」が起きた。
阪神タイガースのバッターの3塁フライを大洋のサードがグラブに当てて落球。
しかし塁審は「ファール」と判定。
阪神タイガースは塁審を取り囲み猛抗議し、2人のコーチが暴力行為で退場処分となったが、このとき真弓明信だけは止めに入った。
まさにリードオフマン(1番打者)としてチームをまとめ牽引する存在だった。
1985年は、岡田彰布と入れ替わる形でセカンドから外野手に転向。
「前の年から優勝ということをかなり具体的に考えていました。
点を取ることに関しては申し分ないチームだったんです。
掛布がいて岡田も打ち出していたし、バースも日本の野球に慣れてきた。
とにかくピッチャーさえなんとかなれば、優勝できるかどうかは別にして絶対に優勝争いはできると思っていたんですね。
僕は外野手になったらとにかく打たないとダメだと思ったんです。
それもヒットじゃなくて大きいのをね。
ショートやセカンドをやっていれば競争相手はほとんど日本人で、しかもそんなに大型選手はいない。
でも外野となると長打も打てないとだんだん物足りなく感じられるんです。
そうなったらいつ外国人選手が入ってきてポジション争いをさせられるかわからない。
そう思わせない選手でないとダメだと心に決めたんですね」
粘ってフォアボールを選んだり、バントでも単打でもとにかく塁に出るという従来型ではなく、初球から打っていく超攻撃的な1番打者となり、最終的に打率.322、84打点、初回先頭打者本塁打6本を含む34本ものホームランを放った。

「史上最強の助っ人」「神様、仏様、バース様」ランディ・バース

 (2268205)

アメリカでは
「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」
といわれながらも、幼少時に足を複雑骨折した影響で足が遅く、メジャーに昇格することはなく2軍に当たるマイナーでプレー。
1983年に年俸2000万円という破格の安さで阪神タイガースに入団。
オープン戦でデッドボールを受け、左手首を骨折し、復帰後、15打席連続ノーヒッの球団ワースト記録。
チームが新しく外国人投手を獲得したため、1チーム外国人選手3名までというルール上、バースも解雇の候補に挙がったが、パワー、態度、努力、人格が評価され残留。
その後、35本塁打、82打点と長打力をみせつけた。
しかし1984年は、27本塁打に終わり、球団には岡田をサード、掛布をファースト、バースは解雇をいう案もあったが、吉田義男監督が
「守備力の低さを差し引いてもお釣りがくる。
絶対必要」
といい、再契約に至り、31歳のランディ・バースは3年目を迎えていた。
「パワーのあるチームだったね。
掛布、岡田、真弓、みんな力があっていいチームだったよ。
だからあのシーズンが始まる前には、自分がもう少しうまくいって、打てれば優勝も夢ではないんじゃないかという感触はあったんだ。
ピッチャーは弱かったけど、打線でカバーできるくらいのパワーがあった。
結果的には私が(ホームランを)前の年の2倍打ったからね。
だから思っていた通り、優勝を手にできたというわけさ」

「4代目Mr.タイガース」 掛布雅之

 (2268198)

高校3年生のとき、掛布雅之は甲子園にいくことができず、175cmと小柄なこともあってか、プロからのお誘いもなかった。
しかしあきらめず、ドラフト直前の11月、テスト代わりに2軍秋季キャンプに参加。
見事、ドラフト6位で入団。
初めて1軍の練習をみたとき、周りは化け物のように大きくみえた。
「特に田淵(幸一)さんは2mあると思ったくらい。
俺の入るべき世界じゃなかったのかなと不安になりました」
3代目Mr.タイガースの田淵幸一は、18歳の掛布雅之に自分のバットと
「小さくても、うまくなれるから面白いんだ」
という言葉を贈った。
チャンスはすぐに来た。
藤田平が自身の結婚式のため、野田征稔が実母の逝去で、それぞれ欠場したため掛布雅之はオープン戦に出場。
そこで好成績を残し、まさかの開幕1軍。
「初対決はセカンドゴロに打ち取ったはずだが、1球目、ものすごいスイングでファウルチップ。
こいつは大物になる」
(星野仙一、中日、投手)
その後は同期でドラフト1位の佐野仙好と激しくポジションを争った。
練習で猛ノックを受け疲れ果て、試合中に居眠りしたこともあったが、佐野仙好を外野へと追いやって、サードでレギュラー定着。
打撃は、豪快なフルスイングも魅力ながら、本来、中距離打者で、安定感が最大のウリだった。
衝撃のトレードで田淵幸一が西武へ去ると、4番と4代目Mr.タイガースの宿命を背負い、肉体と打法の改造に着手し、多くの打球をスタンドに叩き込むようになった。
掛布雅之は、腕力ではなく腰の回転で打った。
ボールを呼び込み、速いスイングで弾き返す打法は、引っ張るだけでなく流し打ちもでき、投手が右利きでも左利きでも対応しやすかった。
サイン色紙には「いつもあこがれ」と書く。
背番号「31」は、巨人のON、長嶋茂雄の「3」と王貞治の「1」を足したもの。
彼らを敬愛する掛布雅之は
「巨人を倒すことが、長島さんや王さんへの1番の恩返し、1番喜んでもらえること」
と考えていた。
巨人戦で出塁したとき、王貞治に
「いつあんなバッティング覚えたんだ」
と声をかけられ感動した。
長嶋茂雄は掛布雅之について
「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。
悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」
といっている。
スランプに陥った掛布雅之が長嶋茂雄に電話で助言を求めたときは
「そこにバットある?
あったら振ってみて」
電話越しに素振り音を聞いた長嶋茂雄は
「雑念を取り払え、無心で振れ!」
と指示。
掛布雅之はさらに数度振りを聞いてもらうと
「そうだ、今のスイングだ。
忘れるな!」
これで電話は終わり、その後、掛布はスランプを脱した。
酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコはやらず、いつも純朴な笑顔の掛布雅之だが、打席に入ると豹変する。
人気シナリオライターの市川森一は、
「殺気を秘めながら座敷の隅で黙々と刀を研いでいるかのような、黒澤明監督の名作に登場させたいほどの存在感」
と評した。

「最高の5番打者」岡田彰布

 (2268108)

大阪で町工場を経営する父親は阪神タイガースの有力な後援者で、岡田彰布も少年時代からよく甲子園へいった。
しかし陣取るのはタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵が入っている三塁ベンチの横。
至近距離からヤジを飛ばすためだった。
甲子園には高校1年生のとき1回だけ出場。
早稲田大学野球部のセレクションを受けて15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃をみせ合格。
1年生で法政大学の江川卓から3安打、2年生から5番サードに定着し、3年生で3冠王、4年生で主将となり東京6大学野球リーグ連覇、日米大学野球では4番。
ドラフトで6球団から1位指名され、阪神タイガースに入団。
1980年、1年目、阪神タイガースのサードには掛布がいた上、ドン・ブレイザー監督は
「岡田はまだ新人なので、じっくり鍛えた方がいい」
と岡田彰布を即戦力として積極的に使わなかった。
これにファンは
「なぜ岡田を出さないのか」
と猛反発。
球団はドン・ブレイザーを解任し、コーチだった中西太を監督に昇格させ、出場機会が増えた岡田彰布は打率.290、18本塁打、54打点で新人王を獲得。
(中西太は、5月にブレイザーの後を受けて監督に就任し、わずか5ヵ月間で体重が10kg以上も減り、何度も精密検査を受けるほどの体調不良で10月には辞意表明)
2年目からセカンドレギュラーとなり、毎年、2ケタ本塁打を放ち続けた。
圧倒的な打撃力を有していながら、真面目な性格の岡田彰布はチームのことを考えたバッティングを行うためタイトルこそ少ないが、「ココぞ」という場面で恐ろしい力を発揮する「最高の5番打者」だった。
前年、ファーストやライト、慣れぬ守備に戸惑った岡田彰布はセカンドにコンバートされ
「野球が楽しい」
と素直に喜んだ。
そして1985年シーズン、27歳の岡田彰布は、打率.342(バースに次ぐ2位)、35本塁打(リーグ4位)、101打点(リーグ5位)を叩き出し、チームの日本一に貢献することになる。
座右の銘は
「道一筋」
で周囲の不理解や反対があっても自分の信じた道を突き進む。
そして口癖は
「そらそうよ」

巨人の大落球、伝説のバックスクリーン3連発

阪神タイガース バース、掛布、岡田 伝説のバックスクリーン3連発

1勝1敗で広島から甲子園に戻ると巨人との3連戦が始まった。
4月16日、1戦目、0対2とリードされた4回裏2アウト、掛布雅之がソロホームランで1対2。
岡田彰布がフォアボールで出た後、佐野仙好の平凡なショートフライを巨人の河埜和正がまさかの落球。
岡田は一塁から一気にホームにかえって2対2。
そこからタイガース打線が爆発。
一挙7点のビッグイニング。
最終的に10対2。
4月17日、巨人の先発は21歳の槙原寛己。
阪神打線は、150km/h台の速球にグイグイ押された。
7回裏、1対3、2アウト1、2塁の場面でバッターボックスは、3番のランディ・バース。
「ストレートを待って、ハードに叩くことだけを考えた」
という打球はバックスクリーンへ1号となる逆転3ラン。
「あの打席はまったく平常心で入ったと思いますね」
続く4番の掛布雅之が同じくバックスクリーン方向へ1号ソロ。
5番、岡田彰布も
「もうインコースは投げてこんやろ」
と狙いを絞ってバックスクリーンへソロ。
「2アウトながら、ランナーを2人置いて、バースに打順が回ってきた。
投げた球種は、シュートです。
普段はあまり投げないボールでしたが、実はその前の打席でもシュートを放ってゲッツーを取っていたんです。
それも頭にあったと思うんですが同じ球を打たれた。
逆転の3ラン。
勝っていた試合をひっくり返されてしまった。
ものすごい1発でした。
それでショックを受けているところに、今度は掛布さんに高めの真っ直ぐを打たれた。
普通ならフライになるボールだったと思います。
それをうまくバットをかぶせてバックスクリーンまで運ばれました。
この時点で、もう放心状態ですよ。
3人目の岡田さんのときは、ホームランを打たれたのは覚えているけど、その後の記憶がまったくありませんから。
誰がマウンドに来て、どんなふうに交代させられたのか。
ベンチに帰ってどうしたのか。
アイシングをしたのかどうか。
それどころか宿舎に帰って何をしていたのか、その日のことはまったく覚えていないんです」
(槇原寛己)
「ターニングポイントは、バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発です。
4番に誰を起用するかは迷いました。
相手は掛布が脅威で、みな3番バースで勝負してくれた。
佐野(仙好)も勝負強かった。
派手な3連発に隠れているのは2年目だった中西(清起)をストッパーに起用して成功したことです。
山本(和行)と中継ぎの福間(納)が踏ん張った。
巨人に勝たな優勝はない。
あの3連発が巨人に勝てるという自信と勢いになった」
吉田義男監督がいうように結果的に、このバックスクリーン3連発は日本一へ狼煙となった。
阪神タイガースは巨人3連戦を3勝。
4月を9勝3敗1分で終えて、開幕ダッシュに成功。
以後、広島、巨人と優勝争いを繰り広げていく。
 (2268117)

5月6日、 阪神タイガースが中日戦で40打数23安打でチームとして1試合での最高打率の日本プロ野球新記録、5割7分5厘。
5月19日、後楽園での巨人戦、7回表、0対0で先頭打者の掛布が出塁。
続く岡田に三塁コーチはバントのサイン。
「絶対失敗したろ」
岡田はバントしたがファイル。
カウントがワンツーになると、サインはエンドランになり、岡田は江川卓から8号ツーランホームラン打った。
5月23日、甲子園で広島戦で、広島の北別府学投手がライトポール際に放ったホームランの判定を不服とした阪神ファンが線審にチェーンを投げつけ負傷させたため現行犯逮捕。
裁判で
「阪神への不利な判定に腹が立った」
と情状酌量を求め、反省の色無しと判断され実刑判決を受けた。
6月15日 、木戸克彦が大洋戦(甲子園で)1試合3本塁打
6月23日 、掛布雅之が通算300本塁打。
6月28日、バックスクリーン3連発を喰らった槇原寛己が、同じ甲子園で1号ホームランを打って一矢を報いた。
それは球団通算5000号のメモリアルアーチだった。
6月30日、甲子園での巨人戦が天候不良で直前になって試合中止が決定。
ライトスタンドにいた阪神ファンの一部がグランドに乱入し、リリーフカーでグランド内を暴走させたり、ベンチに乱入した。
7月10日 、真弓明信が通算150本塁打
7月13日 、 岡田彰布が後楽園での巨人戦の9回表に代打で出場し西本聖から15号を放って通算100本塁打。
7月18日 、 平田勝男が広島戦で日本プロ野球タイ記録の1試合4犠打。
7月20~23日、前年、日本一になった広島東洋カープの古葉竹織監督率いる全セと阪急ブレーブスの上田利治監督率いる全パがオールスターゲームで対決。
2勝1敗で全セが勝利。
阪神タイガースからは、バース、真弓、掛布、岡田、山本一行(投手)が選ばれていた。
「球宴前の広島戦もポイントです。
2ゲーム差で広島にいって連敗で4差。
岡山での3戦目は広島と新幹線で呉越同舟になった。
岡田が負傷したので球宴監督の古葉(竹識)に「今日の試合は出ないがオールスターは出してほしい」といったら「出します」といってくれた。
その岡山で岡田に代わった和田(豊)が4安打、平田が4つの犠打を決め、チュンタ(中田良弘)が力投するんです。
オールスター折り返しが5差か3差では大違いでした」
(吉田義男)
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  • 🐯 npb  Central 2023/9/17 08:03

    21Cになり2003年・2005年・2023年リーグ優勝

    npb YG ⚾ 🧤 2022/3/6 09:14

    10年後の1995年阪神の大地震と東京のサリンを「oo名誉監督と第64代の呪い」と揶揄しておもしろがったら
    お父さんから叱られた

    🐯⚾ 50th 2021/6/2 07:52

    もうあの初制覇から35年経過
    当時道頓堀にダイブして溺れおまわりさんに検挙補導されたファンはどのくらいいたか?

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