月亭八方 借金地獄を生き延びて送る、愛と夢と希望の楽屋ニュース。
2024年11月25日 更新

月亭八方 借金地獄を生き延びて送る、愛と夢と希望の楽屋ニュース。

大阪府大阪市福島区出身、福島区在住。天下獲る野望ナシ。1番でなくてもヨシ。借金地獄を生き延びて送る、愛と夢と希望の楽屋ニュース。

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小米朝は、米朝を心から尊敬する他の弟子たちと少しスタンスが違った。
「米朝師匠のところにはオムツしてる子どもが3人おったんですよ。
長男と次男が双子や。
そのオムツを替えるのは弟子の仕事やったのに、僕は、それができんかったんや。
枝雀くんとざこばくんは、ずっとオムツ替えてとやってたけども、僕は、それやれいわれたらもう辞めて家に帰りますわ。
いつの間にやら師匠はオムツを替えてる弟子たちに「あいつはどうしようもないやっちゃ」ということをいうて、世間にもそんなことをいい出したんや。
終いには「あれはわしの弟子やない」とまでいうたけども、僕は「ああ、けっこうですよ」と思うとった。
師匠は家では僕に落語を教えませんねん。
家では枝雀くんとざこばくんがオムツを替えたり、哺乳瓶で乳を飲ましたりしとるわけやから、なにもせんとブラブラしとる僕にを教えるわけにいかんのですよ。
だから外に出たときにどこかの小さい安い宿屋の部屋を借りて、そこで教えてくれた。
外に出たら、たいがい稽古もついてましたから、それは他の弟子にはいわずに僕と師匠の間だけやった」
「お笑いの世界はギャンブルみたいなもんでっせ。
ハッタリというか駆け引き。
ゼニは入ってくるし、刺激はあるし、舞台もやったらやっただけ反応が返ってくるし。
僕らの感覚では芸人のギャラなんて仕事した報酬じゃないわね。
みんなで遊んで騒いでるだけのこと。
そんなんでもらったカネを貯金するっちゅうのはおかしいわな」
という小米朝は、飲む、打つ、買う(酒、バクチ、女)を
「芸の肥やし」
「芸のうち」
と積極的に行い、競馬は、
「2倍、3倍ではおもろない」
と不人気馬を買って大穴狙い。
親密な関係になった女性の数は100人以上いるという。
「自分ではモテたためしはないと思ってる。
そんなタイプやない。
けど、モテへんでも100人くらいはいける。
昔、遊郭あったやろ。
そんなんは抜きや。
横山ノックは1000人いったというてたけど遊郭も入れとる。
みんなプライドが高くてフラれたらどうしようかとか思ってる。
そういう風潮はアホですな。
寝つきにくいとき、羊が1匹、2匹って数えるやろ。
僕は眠られへんときは自分がいった女を北から思い出すねん。
北海道から女1匹、女2匹や。
70くらいで寝てまう。
北から数えて九州にいくまでに寝てまう。
数えとったらな、あの女だけはやめといたら良かったいう女が出てくるんや。
自分でも残念でしゃーない。
あんなんいかなんだら良かった。
それが京都の女で、西から数えても東から数えても出てきよんねん。
人妻やったわ」
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月亭八方にとって、桂小米朝は10歳上。
まだ弟子を取っておらず、
「1番弟子になれる!」
ということも理想的。
ある日、舞台が終わった桂小米朝ををロビーでつかまえて、弟子入り志願。
しかし
「へー、落語家やりたいの?
やめとき、やめとき。
こんな世界でなかなか生きていかれへんよ。
まあ残りの舞台でもみていき」
と軽くかわされてしまった。
改めて別の日に桂小米朝が出演している劇場で出待ちし、再び弟子入りを志願。
しかしまたかわされてしまい、月亭八方は、出待ちと志願を繰り返した。
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月亭八方が弟子入り志願を始めて1年後、桂小米朝は、幕末から明治にかけて活動した名人、月亭文都に因んで「月亭」という亭号(落語家の芸名の苗字の部分)を復活させた。
名は、敬愛する8代目三笑亭可楽の「可」と師匠米朝の「朝」を合わせ「可朝」とし、初代「月亭可朝」となった。
改名披露興行など忙しくなった月亭可朝は、
「君、いま働いてるんやろ?
仕事を辞めてこっち来ても合わんかったら、また仕事探すの大変やから、働きながら休みの日だけおいで。
私が舞台に出てるときは入場料払わんでもええから」
といい、月亭八方は
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
やはり会社を辞めることは不安だったので願ってもない条件の上、さらにお金を払わずに落語を観にいけるようになり、
「完全に渡りに船や‼」
と喜んだ。
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月亭可朝は、なんば花月で行った改名披露で舞台上の棺桶から飛び出すパフォーマンスを行った。
月亭八方は、平日は仕事、日曜は月亭可朝の下に通うという
「週末弟子生活」が開始。
安全な状態で夢に向かうという、いかにも月亭八方らしい状況が4ヵ月間続けた後、月亭可朝に
「毎日来るか?」
といわれ、正式に入門を許された月亭八方は、会社を辞め、月亭一門の1番弟子となった。
最初、名前をどうするか迷った月亭可朝は、
「おいちょかぶでもう1枚引くか否か、迷う六」
に因んで
「六方で行こう」
といって、
「月亭六方」
と命名。
しかしなんば花月にいったとき、吉本興業の八田竹男部長(後に社長)に会い、咄嗟に
「ウチに来た新しい弟子です。
八田部長から一文字いただいて月亭八方です」
と紹介。
月亭八方が
(急に変わりよった)
と思っていると、八田竹男は笑顔で
「それなら応援せんとアカンな」
といい、
「月亭八方」
と名乗ることになった。
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1番弟子といっても、最初の仕事は師匠の付き人。
毎日、荷物を持って寄席や劇場に一緒にいき、着物を畳んだり、身の回りのお世話をしながら落語を見学。
弟子を家政婦のように扱う師匠もいたが、月亭可朝は
「師匠と弟子というより、俺も頑張るから君も頑張れ」
といって月亭八方に家のことなどはさせなかった。
その上、月亭八方は、師匠の家に住み込みではなく、実家から通う「通い弟子」
食べるものも師匠に奢ってもらったり、母親がつくってもらい、衣食住に全く困らなかった。

正式に入門して4ヵ月後、初高座に挑戦。
それは月末の土曜日に開催される「土曜寄席」という落語会。
前座を務める月亭八方は、「宿屋町」という、伊勢参りの道中を描いた、ジワジワと笑わす噺をやろうと思っていた。
しかし月亭可朝は、夜店で怪しげな手引書を売る「秘伝書」にしろとアドバイス。
それは夜店の香具師の噺で、大声を張らなければならない。
月亭八方が、
「いや、露の五郎兵衛師匠の前ですから、確実に客席を温めるようなやつをやった方が・・・」
というと月亭可朝は、
「高座に出たら後も前もない。
真剣勝負なんや」
といい、さらに

・大きな声を出すこと
・目線を上げること

をアドバイス。
月亭八方は、それに注意しながら「秘伝書」をやった。
「大声と目線の動きに注意してやって、結果、あんまウケんかったけど、元気のいい、新喜劇のような、ボクなりの芸風というか落語の形が見えてきた気がした」

嘆きのボイン/月亭可朝

会社を辞めてから1年半後、月亭八方は、うめだ花月で10日間の出番をもらうなど次々に仕事が舞い込み、月亭可朝に
「お前、ようついてきてくれたな。
仕事もようさんあるようやし、もう俺につかんでええ」
といわれ、付き人生活は終了。
月亭可朝も、
「嘆きのボイン」
という曲をリリース。
カンカン帽にチョビ髭でギターを抱え、
「♪ボインは、赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜
お父ちゃんのもんと違うんやでぇ〜♪」
という歌詞、哀愁漂うギターで80万枚の大ヒット。
全国の小学校で歌唱禁止とされ、 かえって子供たちに大人気になるという、いかにもらしい現象を巻き起こし、東京のテレビ局に出るなど生活が一変した。

関東では数年前に「笑点」が始まって以来、立川談志、三遊亭圓生など若手落語家が躍進していたが、関西でも吉本興業所属の笑福亭仁鶴、桂三枝、月亭可朝というアドリブも達者な落語家がラジオやテレビで起用され、落語家ブームが到来。
そういう流れの中、月亭八方も落語をしない落語家タレントとして売り出され、22歳で超人気テレビ番組「ヤングおー!おー‼」に出演した。
「ヤングおー!おー!」の起こりは、桂三枝。
大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪府池田市の住む桂三枝は、高校生のときに同級生とABCラジオの「漫才教室」に出場し、関西の人気者に。
関西大学の夜間部に進学したとき、ちょうど落語研究会「落語大学」が創設され、一期生となり、ロマンチックを文字った「浪漫亭ちっく」を名乗り、他大学の学園祭にも出演。
そしてプロになることを決意し、桂小文枝に弟子入り志願。
初高座でまったくウケず、プロの厳しさを思い知り、その後も客席は静まり返り、苦悩の日々。
入門数ヵ月後、MBSラジオのオーディションに参加。
「歌え!!MBSヤングタウン」、通称「ヤンタン」のレギュラー出演を獲得し、
「1人ぼっちでいるときのあなたにロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」
「オヨヨ」
「いらっしゃーい」
などという語りやギャグでブレイク。
「ヤングおー!おー!」は、「歌え!MBSヤングタウン」のテレビ版で、合言葉は
「若者の電波解放区」
司会は桂三枝、笑福亭仁鶴、月亭可朝、横山やすし・西川きよし。
そして若手吉本芸人による大喜利、コント、漫才、トークをメインに、アイドルなど多彩なゲストも登場。
桂三枝は
「あっち向いてホイ!」
「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」
などのゲームを考案。
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