そしてベラとマルタは自分と家族の命が危ないと判断し亡命することを決意した。
家族や友人、家や持ち物をルーマニアに残し、エキシビジョンツアー用のスーツケースだけを持って国を出た。
アメリカには友人はいない。
受け容れられず強制送還になり亡命未遂の罪で投獄されてしまうかもしれなかった。
アメリカでの最終日、選手は朝のミーティングの後、ニューヨークでショッピングを楽しんだ。
買い物から帰ると昼ミーティングが行われたが、そこにベラとマルタはいなかった。
胎児政策
ルーマニア政府は国外旅行を許さず、エキシビジョンツアーのリストにも入らなかった。
亡命を恐れての措置だった。
数年後、スポーツディブロマを取得し大学を卒業し、体操連盟の仕事に就いた。
さまざまなクラブに行き体操選手の様子を視察しコーチングとトレーニング施設について報告する仕事だった。
仕事は楽しかった。
しかし特別なことはなくごく普通の人生だった。
給料は大学在学中とほとんど変わらなかったが、25歳になると政府は給料からかなりの額を差し引くようになった。
理由はナディア・コマネチに子供がいなかったからである。
この措置は25歳で子供がいないすべての女性に対して実施されていた。
1970年代半ば、チャウシェスクは2000年までにルーマニアの人口を2300万から3000万人に増やすという方針を決定。
自分の信奉者を増やし税収を増やし国力を増大させるためだった。
そのため「胎児は社会全体の財産であり、子供を産まない者は国家存続に反する者である」とし、中絶は禁じられ、25歳になっても子供がいない女性は愛国の義務を怠った罪で罰金が科せられた。
チャウシェスクの胎児政策でルーマニアの出生率は2倍になった。
しかし妊婦の健康を維持し、新生児を育てるために必要な食物や栄養は国民の手に入らなかった。
チャウシェスクは性教育や生殖に関する書物を禁じ「国家機密」とした。
45歳未満の女性は3か月おきに診察を受け妊娠の有無をチェックすることが義務付けられた。
チャウシェスクは農業や酪農によって本来足り得る国内の食料のほとんどを輸出した。
西側に100億ドルの債務があったため、国外に売れそうなものはすべて輸出し一気に完済しようと考えた。
その結果、国民は1ヶ月当たり450~900gの肉しか配給されなくなった。
これでは家族はおろか1人でも1週間も持たない。
できるなら子供は欲しくない。
でも罰金を払うこともできない。
チャウシェスクは浪費を続け、使いもしない運河を掘り、豪邸を40軒も所有した。
その妻も宝飾品、ヨット、旅行など湯水のように使った。
一方で多くの町では電力不足が起こり1日1度しか湯を沸かすことができなかった。
チャウシェスクは工場に週7日労働を強制し賃金をカットした。
土地の再開発が決まると住人を追い出した。
多くの国民の唯一の慰めだった宗教を禁止し教会を破壊した。
政府は暴力と秘密警察を使ってマスコミを操作したため、ナディア・コマネチはこういったことを知らなかった。
Olympics - 1984 Los Angeles - ABC Profile - ROM Nadia Comanici & Coach Bela Karoli imasportsphile
しかしチャウシェスクはルーマニアを参加させた。
ナディア・コマネチもルーマニア代表チームのメンバーとして参加を求められた。
アメリカでは食事や買い物を楽しみ、できるだけ多くの友人に会った。
ベラ・カロリーがアメリカで教えた選手:メアリー・ルー・レットンをみた。
ベラに挨拶することは許されたが話しかけることはできなかった。
でもアメリカで生活できていることを確認できてうれしかった。
電話もレンタカーもホテルの部屋も全部盗聴されていた。
付き添いの女性は政府の役人でナディア・コマネチの一挙手一投足を記録した。
2、3週間後、帰国し、体操連盟の仕事に戻った。
危険なチャレンジ 亡命
しかしある日、ナディア・コマネチは気づいた。
今いる場所にいたらその先は死しかないと。
ルーマニアで出世するには汚い政治屋になるしかなかったが、そんなことはできない。
もっといい仕事に就きもっと稼ぐ希望もない。
体操の代表メンバーとして世界をみるチャンスもない。
家にも店にも食料がない。
もう行き止まりだと思った。
今のまま声もなく叫び続けるか、自ら決意して自分の人生を切り開くか、どちらしかないことに気づいた。
ナディア・コマネチは自分自身の夢をみたいと思った。
そのパーティーには亡命しアメリカに市民権を持つルーマニア人が数名参加していた。
その中の1人:コンスタンチン・パニートはフロリダに住み、亡命をサポートしているという。
2度目にコンスタンチン・パニートに会ったのもパーティーだった。
秘密警察の目をごまかすためにこうした形をとるのである。
コンスタンチン・パニートは亡命の方法を示した。
コンスタンチン・パニートの友人がハンガリー国境近くに住んでいるので、一家を訪ね国境近くに暮らす人と付き合いがあることを政府に納得させるのがいいという。
急に1度だけ訪ねたら怪しまれるが数度繰り返せば警察の脇も甘くなるだろうと。
そして警戒される前にうまく国境を越えることができるかもしれないという。
ナディア・コマネチはコンスタンチン・パニートの案に従い国境近くの家を訪れた。
そのとき他の亡命希望者6名とも顔を合わせた。
女性2人と男性4人だった。
そのうち1人は3度亡命を試みて失敗していた。
ハンガリーまでは行けたがハンガリー当局に強制送還されたという。
そして投獄された。
でもなお4度目の亡命を試みようとしていた。
亡命の計画は、父にも母にも話せなかった。
もし話せば2人にも危険が及ぶ。
また密かに家を弟名義に改めた。
その家は近隣を含め警察に監視されていた。
出入りの際にセキュリティーゲートに署名しなければならなかった。
ある夜、国境そばの家を訪れた後、ナディア・コマネチはセキュリティーゲートに戻らず、反対に闇に向かって走った。
3度亡命を試みた男性について森を6時間走り抜けハンガリー国境を越える計画だった。
コンスタンチン・パニートは国境の向こうの車の中で待っていた。
11月で気温は零下。
地面は凍っていて何度も滑った。
見つからないように灯りはつけられない。
またしゃべることもできない。
できるだけ音を立てず移動し、できるときは走った。
背後から撃たれるかもしれない恐怖と戦いながら凍った湖に行き着いた。
他に渡れる場所はなかった。
全員が氷に乗ったとたん氷は割れて水中に落ちた。
長い時間をかけなんとか湖を渡ったときには痛いほどの冷たさで感覚がマヒしていた。
6時間後、ようやくzやsの入った名前が書かれたプレートがあった。
ルーマニアの名前でなかった。
汚れた格好でコンスタンチン・パニートの車を探しているとハンガリーの警官に遭遇した。
午前2時に人気のない通りを歩いている7人のグループに警官は尋問を始めたが、答えられないのをみると車に乗せて署に連行し個別に事情聴取した。
ナディア・コマネチはすぐに亡命を認められた。
そして他の2人も。
しかし残りの4人は翌日ルーマニアに送還するという。
ナディア・コマネチはいった。
「全員がここにいていいと認められないなら私も残りません」
警察はそれを認め、全員をホテルに宿泊させ食料の引換券を渡した。
警察を出ると失敗に気づいたコンスタンチン・パニートがきていて
「私がホテルに連れていきます」
といってみんなを車に乗せたが、向かったのは違うホテルだった。
ハンガリーは目的地ではない。
オーストリアの保護を求める計画だった。
翌朝の新聞には、ナディア・コマネチの写真が載っていたが何と書いてあるかはわからなかった。
次の日、グループは車でオーストリアの国境に向かった。
6時間後、国境前の検問所に到着。
その手前でグループは車を降り、コンスタンチン・パニートだけ車で検問所を通過し検問されるかどうか試してみた。
車は止められ、車で国境を越えるのは危険と判断し、夜を待ち他のところから国境を越えることにし、コンスタンチン・パニートは再び国境の向こうの車の中で待つことになった。
闇の中でコマネチたちは2時間かけ血だらけになりながら7つの有刺鉄線の柵をクリアし、コンスタンチン・パニートと合流し車に乗り込み、ホテルの部屋でみんなで雑魚寝した。
そして翌日、他のメンバーは難民シェルターに入り、アメリカ行きを希望するコマネチはアメリカ大使館に行った。
オーストリアのアメリカ大使館は、保護を求めるナディア・コマネチに笑顔で対応し、大急ぎで必要書類をそろえ、護衛つきの車で空港に送り、数時間後にはパンアメリカンのファーストクラスに搭乗させた。
10時間のフライトでJ・F・ケネディ空港に到着し、ナディア・コマネチは記者会見にのぞんだ。
テレビ番組にも出た。
バート・コナーはナディア・コマネチの亡命を知り、彼女に会うためにオクラホマからLAに飛んだ。
そしてトーク番組に出演中のナディア・コマネチにサプライズゲストとして登場し花束を差し出した。
leotard カワ(・∀・)イイ!! 2024/1/31 20:39
「たけし」のあれはいまでもバカ笑い