オランダ・トライアングル
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国内リーグ(セリエA)では、1991-92シーズンを無敗(22勝12分)で優勝するなど、国内外のクラブタイトルを総なめ状態でした。
「勝つチームは常に勝つだけの何かを持っているんだ。」
この強力なオランダトリオ」は自国オランダ代表としても大活躍をし、1988年に開催された欧州選手権(ユーロ西ドイツ大会1988)では並みいる強豪国を打ち破り、見事に優勝しています。
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FINAL EURO 1988
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全盛を誇ったACミランの黄金期を支えたオランダトリオだったが、1993年頃になると各々怪我などで揃って出場する機会も激減し、フリットはチームとのトラブルによりACミランを退団、ファンバステンも怪我の為、長期離脱(そのまま引退)、ライカールトもミランを離れ、古巣のアヤックスへ戻ることになりました。
アヤックスへ移籍
31歳となり選手として円熟期を迎えたライカールトは、若手の台頭著しいアヤックスでは生けるお手本として、若い選手たちにその全てを伝えチームを牽引しました。
アヤックスは国内リーグにおいて、ライカールトが復帰した1993-94シーズンから3連覇を達成。
1994-95シーズンにはUEFAチャンピオンズカップをも制覇し、アヤックスでも黄金時代を築き上げましたが、そのシーズンの終了後、ライカールトはそのサッカー選手人生に終止符を打ち引退を表明しました。
アヤックスは国内リーグにおいて、ライカールトが復帰した1993-94シーズンから3連覇を達成。
1994-95シーズンにはUEFAチャンピオンズカップをも制覇し、アヤックスでも黄金時代を築き上げましたが、そのシーズンの終了後、ライカールトはそのサッカー選手人生に終止符を打ち引退を表明しました。
手が届かなかったバロンドール
選手として数々の栄光を手にしたライカールトでしたが、運も悪くバロンドール(欧州最優秀選手)には手が届きませんでした。
ライカールトがバロンドールの投票で10位という結果に終わったのは理解しがたい。彼は優れた選手であるにも関わらず評価が低いのは残念だ。彼は技術、知性、戦術眼を備えており、あらゆるプレーを体現、あらゆる局面に対応する。彼がいなければ私はバロンドールを一度も受賞することは出来なかっただろう
1992年のバロンドール投票で10位に終わったライカールトの評価に対してのファンバステンのコメント
現役引退~指導者の道へ
オランダのサッカーとはボールを支配し試合のイニシアチブを握る事だ。
代表監督就任
1995年、現役生活にピリオドを打ったライカールトは一時期サッカー界を離れ事業を展開するが、1997年にサッカー界に復帰し、1998年に行われたW杯フランス大会でアシスタントコーチとして代表を支えました。
W杯フランス大会後、ライカールトはオランダ代表の監督に就任し、2000年に行われた自国開催のUEFA欧州選手権で、その監督としての手腕を発揮しチームを準決勝まで導いたものの、イタリアに壮絶なPK戦の末に敗戦。
その責を負い代表監督を辞任しました。
W杯フランス大会後、ライカールトはオランダ代表の監督に就任し、2000年に行われた自国開催のUEFA欧州選手権で、その監督としての手腕を発揮しチームを準決勝まで導いたものの、イタリアに壮絶なPK戦の末に敗戦。
その責を負い代表監督を辞任しました。
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「私は失敗した。我々は前半に試合を支配しながらも得点を決めることが出来ず、得点できないことで弱気に取り付かれてしまった。それに対してイタリアは賢く組織的で、素晴らしい守備をした」
その後、オランダ国内リーグのスパルタ・ロッテルダムの監督を経て、2003年、スペインのビッグクラブ「FCバルセロナ」の監督に就任しました。
代表監督としてユーロで指揮をとったことはあるものの、世界有数のビッグクラブを率いるほどの監督としての経験値の無いライカールトをバルサの監督に抜擢したのは、なんとかつてその確執により袂を分かったヨハン・クライフ(当時バルセロナ会長)だったのです。
代表監督としてユーロで指揮をとったことはあるものの、世界有数のビッグクラブを率いるほどの監督としての経験値の無いライカールトをバルサの監督に抜擢したのは、なんとかつてその確執により袂を分かったヨハン・クライフ(当時バルセロナ会長)だったのです。
「選手としても監督としても素晴らしい哲学の持ち主であり、内容のあるサッカーを好む人物」
クライフ氏のライカールト監督評