ナージム・ハメド   I'm a Prince 悪魔王子降臨
2021年9月13日 更新

ナージム・ハメド I'm a Prince 悪魔王子降臨

ナジーム・ハメド(Naseem Hamed、نسيم حميد‎)、「Prince」「悪魔王子」164cm、世界フェザー級(~57.153kg)、世界バンタム級(~53.524kg)2階級制覇 37試合36勝31KO1敗 KO率84% 王子のデビューから1997年のアメリカ初上陸戦にして最高の試合、ケビン・ケリー戦まで

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ふざけているようなボクシング 冗談のような強さ

ALL THE KNOCKDOWNS! Prince Naseem Hamed v Kevin Kelley CRAZY four round New York THRILLER! 🔥

ボクシングの教科書によれば、ボクサーは両腕を小さく折り畳んで脇を締めて顔面とボディーをガードし、そこから体軸(胴体、体幹)を回転させ小さなパンチを繰り出し、また元の位置に戻す。
パンチの種類は、ストレート、フック、アッパーの3種類。
両腕で6種類のパンチがあることになるが、打つ位置、角度、スピードとタイミング、ステップワーク、ポジショニングなど、体の使い方次第で無限のバリエーションが生まれるという。
しかしハメドはそんな教科書はまったく守らず、タブーとされることをことごとくやった。
股を大きく開いたワイドスタンスで立って、両腕はダラリと下げてノーガード。
ジャブは打たず、遠い間合いから、アゴを上げていきなりフックを放ったかと思えば、ノーガードでノシノシと歩いて近づき大振りのパンチをかまし、空振りすると体が流れて相手に背中を見せることもあった。
相手のパンチは、極端に大きなダッキング(体を前屈)とスウェーバック(体を後ろに反らせる)でかわす。
打ち方はムチャクチャだが、パンチはメチャクチャ強く、ワンパンチ・フィニッシュも多い、KO率84%のノックアウトアーティスト。
かつてマイク・タイソンはピーカーブーで相手に正対し、宮本武蔵の2刀流のような左右の強打を爆発させた。
ハメドについても
『ノーガードがカギ。
2本の腕をダラリと下げることで、あの独特で極端な動きとディフェンス、パンチ力が生まれている』
と分析する専門家もいる。
いずれにしてもノーガードでクネクネと上体を動かし、少し違えば自分が倒れるような紙一重で相手のパンチをかわし、戦慄のKO劇を引き起こす危険なボクサーについたニックネームは
「プリンス」
「悪魔王子」
だった。
「教科書にないボクシングのスタイルなのです。
相手は私が次に何をするかわからない。
予測不可能です。
リングの隅から隅まで、5つの異なるアプローチでファイトできます。
サウスポーもオーソドックスもできます。
様々な角度からパンチが打てます。
私にパンチを当てるのも避けるのも大変でしょう。
そして気づけば相手はダウンしているか試合は終わっている」
(ナジーム・ハメド)

Naseem Hamad || The Fall Of The Prince

ナジーム・ハメドは常に自分を信じていた。
試合前、
「(両手をそれぞれKとOと呼び)俺はKでお前を倒しOでお前を倒す」
「お前、KOされるぞ!!!」
と相手を挑発。
自信過剰はリングでも続き、顔を突き出したり、腰を振ってダンスをしたりして相手を挑発し、笑顔で楽しそうに戦った。
11歳のときに
「10年後には世界チャンピオンと億万長者になっている」
と宣言し、それを実現させた後も
「僕はレジェンドに必ずなる」
「僕は生まれながらの勝者。
王になるために生まれてきた」
「僕のモチベーションは、偉大な地位を手に入れること、伝説になることなんだ」
と欲望と大望を隠すことはなかった。
 (2300703)

ハメドは、熱心なイスラム教徒だった。
比較的、新しい宗教で、一般的な理解度が低く、独特の戒律や作法、一部の過激派のテロ行為によって偏ったイメージが持たれる可能性の高い宗教だった。
しかしハメドは通常のインタビューやリング上でも
「勝利は神のご意思」
「すべてはinshallah(アッラーの思し召し)」
などとイスラム教徒であることを隠そうとはせず、むしろアピールしていた。
これがまた大きな魅力となった。
かつてまだ黒人への偏見が強かったアメリカで、11年間、世界ヘビー級チャンピオンであり続けたジョー・ルイスが、差別に直面する人々のヒーローだったように、
「イスラム教=危険な宗教」
「イスラム教=テロリスト」
などという誤った偏見に肩身の狭い思いをしていたアラブ系やイスラム教徒の人たちに勇気と自信を与えた。
そして多くの人々が、イスラムという民族、宗教を正しく知り、肯定的に感じるきっかけにもなった。
そんなボクシングも、ダンスも、ラップ(おしゃべり)もできるハメドのヒーローは、モハメド・アリだった。
モハメド・アリはローマオリンピックで金メダルを獲得が、黒人であるがためレストランへの入店を拒否され、メダルを投げ捨てた。
プロでも「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれた革新的で華麗なボクシングで、世界チャンピオンになったものの、信念に基づきベトナム戦争の徴兵を拒否したため、その制裁としてタイトルを剥奪された。
3年6ヵ月間、試合ができず、全盛期のキャリアを失いながらも、法廷でアメリカ政府と争い、無罪を勝ち取ったザ・ピープルズ・チャンピオン。
モハメド・アリは、常に常識と権威に挑み続け、大切なのは肌の色ではなく、心であり魂であり精神であると教えてくれた。
「歴史に残るファイターはみんな派手な戦い方をしていた。
彼らを参考にしたんだ。
『またの名はカシアス・クレイ』のビデオは大げさではなく15年間、毎日繰り返しみていた
アリはとにかくすべてが特別だ」
(ナジーム・ハメド)
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ハメドは、花道に炎を上がったり、ゴンドラで天井から降りたり、墓場のセットからの登場したり、空飛ぶカーペットに乗ったり、王様の椅子を模した神輿に担がれたり、ワイヤーで空中に吊るされたり、様々な趣向を凝らしたド派手な入場パフォーマンスを行った。
中には試合時間よりも入場時間の方が長くなるケースもあった。
リング上の異端的なボクシングと上から目線的なパフォーマンスも加わって、いかにもクレージーだったがプライベートでは、決して変人ではなかった。
常に周囲にポジティブに接っする、知的で鋭い、デキるビジネスマンだった。
「みんなボクシングがビジネスだということを忘れている。
大きなショービジネスなのです。
私がやっているのはショービジネスです。
だから私は試合ではジョークのように振舞うんです。
ファンはそれを喜んで私の試合を観るためにお金を払う、もしくは私を憎み、私がノックアウトされるのがみたくてお金を払う。
試合が決まると入場やトラッシュトーク(対戦相手を汚い言葉で挑発する、一種のエンターテインメント)のアイデアがいくつも提案される。
私も意見を出しながらパフォーマンスを決めていた。どうやったら1人でも多くの人がみてくれるか、1枚でも多くのチケットが売れるか。
記者会見でのパフォーマンスや入場のショウを考え抜いた。
もちろん、面白い試合を見せるのが大前提だ。
でも、試合を煽って焚きつける必要が無いのなら、私はあんなことをする性格じゃない。
どちらにせよ、ビジネスなのです。
プリンスなんて作られた仮面さ。」
(ナジーム・ハメド)
しかしボクシングを娯楽ビジネスとして強調しすぎるハメドを、真剣勝負が好きなボクサーやボクシングファンは嫌悪した。
ハメドは、すさまじい注目を集め、イギリスのスポーツ選手の人気投票で、サッカーのデビッド・ベッカムと並んでトップになったこともあった。
「イギリスに新しいスターが誕生した」
と素直に喜ぶ人もいれば
「生意気」
「ナルシスト」
「不真面目」
「ふざけている」
「うっとうしい」
などと不快感を感じるアンチも多かった。
教科書から逸脱したボクシングスタイルを認めない専門家もいた
賛否両論、好き嫌いがハッキリわかれたが、まさに悪魔的な強さで勝ち続けるため、アンチもハメドが負けるまでみ続けるしかなく、みんなハメドの試合に注目していた。

ブレンダン・イングル 小さな教会から生まれたボクシングジム

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ブレンダン・イングルは、18歳のときにアイルランドからイギリスのシェフィールドに移住。
ロンドンの北西約180kmに首都に次ぐイギリス第2の都市、バーミンガムがあり、シェフィールドはバーミンガムから特急電車で約1時間の地方都市だった。
ブレンダン・イングルは、プロボクサーとして15年間で19勝6KO14敗、最高でイギリス、ミドル級8位という戦績を残した。
1973年に引退後、牧師に
「子供たちが非行に走るのをなんとかしたい。
社会福祉活動をしてみないか?」
といわれ、週1回、聖トーマス教会のホールでダンス教室「 セント・トーマス・ボーイズ & ガールズ・クラブ 」を開いた。
「どうしようもない乱暴者ばかりが集まった。
ダンス教室が終わると街に繰り出してケンカをおっ始めるんだ。
大ケガする者もいたよ」
(ブレンダン・イングル)
ある日、ダンス教室が終わった後、彼らにグローブを投げた。
「そんなエネルギーがあるなら、これで殴り合え。
私がレフリーをしてやる」
この瞬間、世界で最も有名なボクシングジムの1つが産声をあげた。
ブレンダン・イングルの指導は、理路整然としていながらバイタリティに溢れ、規律を重んじながらもタブーのない自由なものだった。
リズムとタイミングを最優先したボクシングは、力がなくても相手を倒せる面白いものだった。
またブレンダン・イングルはモチベーション(動機づけ)を与えやる気を起こさせるのがうまかった。
手に負えなかった不良少年たちは黙って彼の指導に耳を傾け、ボクシングの虜となっていった。
矛盾や差別が渦巻く社会で大人への不満を鬱積させていた彼らにとって、年齢も肌の色も社会的背景も関係なく真剣勝負できるボクシングはやりがいがあり、情熱を持ってフェアに接っしてくれるブレンダン・イングルは信用できる大人だった。
ブレンダン・イングルは課題を与えながら
「お前は出来る」
と励ました。
そして彼らは教会の中にこしらえたユニークなジムで切磋琢磨した。
やがて地元の不良が集まるスパーリングクラブは、聖トーマス教会から道路を隔てた向かいに移動。
現在でもシェフィールド駅からタクシーで約15分、巨大な工場や庶民的な住宅が立ち並ぶ街を抜けていくと古びた教会風の建物があり、壁にボクシングのイラストが描かれた看板が貼られている。
それがイングル・ボクシング・ジムである。

 (2300700)

ジムに窓はなく、外から中の様子はうかがえず、木製のドアを開くとブレンダン・イングルが笑顔で歓迎する。
彼は世界王者であろうが6歳児であろうが全く変わらず指導した。
教え子であり、元イギリス、Jミドル、ミドル級チャンピオンのロール・グラハムがいう
「ブレンダンは偉大な教師だった。
彼は自分を信じることの大切さを教えてくれた。
そして彼は規律を重んじた。
そこがジムであろうが家であろうが規律のもとでなければ幸せな家庭も優れたボクサーも存在し得ない」
ブレンダン・イングルはジェントルマンだったが、しかし教えるボクシングはなぜか異端だった。
東洋武術の影響を受けているともいわれているが、ジムの中はリングやサンドバッグ、パンチングボールなど一般的な設備に加え、床に赤や黄色のペンキで大小の円や線がペイントされている。
選手は、そのラインに沿って円運動と直線運動を交互に繰り返す。
この円運動と直線運動は、アップの段階から多くのメニューがあり、シャドーボクシングやミット打ち、サンドバッグ、フィジカルトレーニングもこのラインを用いる。
例えばミット打ちでは、円のラインに沿ってサークリングしながら、細かく左右にスタンスをスイッチしコンビネーションパンチを打つ。
これを繰り返していくと、左右どちらが前足になっても(右構え、左構えになっても)移動でき、パンチが打てるようになる。
また顔以外を全力で打ち合うスパーリング。
腕を後ろで組んで相手に攻めてもらいボディワークだけのディフェンスするスパーリング。
腕でのブロッキングなしでパンチを出し合い、避け合うマススパー(力を入れない、あるいは寸止めのスパーリング)
こういった独特の練習法で個性的な選手を育てた。
彼らはノーガードで、体の動きでパンチを回避。
ブロッキングに頼らないボディワークで、左右にスイッチし、ノーガードで体勢から予想外のタイミングと角度でパンチを繰り出した。

Ingle Boxing Gym - Sheffield

イングル・ボクシング・ジムは、ナジーム・ハメドをはじめ、 ヘロール・グラハム、 ジョニー・ネルソン、ライアン・ローデス、 ジュニア・ウィッター、 ケル・ブルック など多くの強豪を輩出した。
「どうしてそんなに自信があったのかって?
ブレンダンがお前は出来ると言い続けてくれたからだ。
世界王者にアドバイスするのと同じように、こんな俺にも時間をかけて面倒をみてくれた。
俺は見返そうと誓ったんだ。
俺をガラクタ扱いした奴らを、じゃないぜ。
実際にガラクタだったよ。
だから負けたってバカにされたって平気さ。
でも俺を評価してくれるブレンダンを侮辱する奴らだけは許せなかった。
奴らが自分達が間違っていたと思い知るまで俺は命がけで練習に打ち込んだ。
ブレンダンがどれほど優秀な指導者であるかを世界に見せつけてやるんだってね」
(元WBO世界クルーザー級王者、「ザ・エンターテイナー」ジョニー・ネルソン)
「最初にみたときから(ジョニー・ネルソンは)素質があるのはわかった。
いつもボクシングを辞めて別の仕事に就こうとうわついていたのに、めっぽう速くて、パンチも固かった。
ガラクタを宝石にした?
私は魔法使いじゃない。
宝石にかぶっていたホコリを払ってやっただけさ」
(ブレンダン・イングル)
すべての選手がノーガード戦法でKO勝利しボクサーとして大成功したわけではない。
無様に倒される選手もいたし、もちろんキチンとガードを固めて正統派のボクシングスタイルで戦う選手もいた。
いずれにしてもブレンダン・イングルは、小さな教会から生まれたジムで、奉仕の精神を持ってボクシングを伝え続けていた。

イギリス育ちのイエメン少年

 (2300708)

1974年2月12日、ブレンダン・イングルが現役を引退した次の年、ラクダが濶歩する砂漠にイスラム教の聖典「コーラン」の声が響くアラビア半島の南端、イエメンからイギリスに渡った両親のもとに、神は天才児、ナジーム・ハメドを授けた。
生まれつきのサウスポー(左利き)だったハメドは、7歳でボクシングを始めた。
「ボクシングを始めたきっかけ?
単純明快、近所にボクシングジムがあったから。
そう、セント・トーマス教会ジム。
家から300mもない距離にあった教会の中にジムがあった「ブレンダン・イングルの家」だ。
7歳のときだったから、しばらくのあいだ世界中の教会には、ボクシングジムが併設されてるものだと思い込んでいた。
そんなのはブレンダンのとこだけだって、ずっと後になって知るんだけどね。ジムに入るとそれが自分のスポーツだと気づきました。
雰囲気、動作、手足の動き、技術がすぐにわかりました。
打って打たれない芸術、私はそのコツを知っていました」
イングラムいわく
「最初にジムに来て帰るのは最後だった」
というハメドは、11歳でイギリス学童チャンピオンとなった。
以後、18歳まで毎年、アマチュアボクシングで全国的なタイトルを獲得し続けた。
アマチュアボクシングの戦績は、67戦62勝17KO・RSC(レフリーストップコンテスト)5敗
1992年4月14日、18歳のハメドは、アマチュアでの功績が認められ、いきなり6回戦でプロデビューし、リッキー・ビアードに2R KO勝ち。
「プロ転向したのは1992年、18歳だった。
その年に開催されたバルセロナ五輪に出場してからプロ入りすべき、ともさんざんいわれたが待ち切れなかった。
11歳のときに「(10年後の)21歳で世界チャンピオンと億万長者になっている」と豪語してたから時間は限られていた」

・4月25日、ショーン・ノーマン 2RKO
・5月23日、アンドリュー・ブルーマ 2RTKO 
・7月14日、ミゲル・マシューズ 3RTKO
・10月7日、デス・ガルガノ 4RTKO 
・11月12日、ピーター・バックリー 判定勝ち

6戦目でキャリア40戦のベテランに判定勝ちするもデビュー後、連続KO記録は5でストップ。
デビュー年は6連勝5KO。
1993年、プロ2年目、

・2月24日、無敗のアラン・レイを2RKO
・5月26日、ケビン・ジェンキンス 3RTKO
・9月24日、元イングランドセントラルチャンピオンのクリス・クラークソンを2RKO

1994年、プロ3年目、

・1月29日、ピーター・バックリー 4RTKO
・4月9日、元ベルギーチャンピオンで、これまでKO負けのないジョン・ミセリを1RKO

それまでハメドはトップロープを飛び越えリングインしていたが、ミセリ戦からトップロープをつかんで前転してリングインするようになった。
『入場パフォーマンスの宙返り、あれは失敗したら最悪ですよね?』
「めったにないけど、正直にいうと失敗もあった。
顔面から着地する最悪はないけど、思いっきり着地バランスを崩してしまったことがあった。
ロープを使った宙返りは難しそうにみえるかもしれまいけど、実はその方が簡単なんだ。
グローブをはめているとロープをしっかり掴めないから、そこは難しいけど。
とはいっても、着地で足首を痛めるリスクはあるからね」
『そんなリスクを負ってでも宙返りをするのはどうして?』
「いつだって勝つ自信があったから少しくらい痛めたとしても関係なかった。
何よりチケットを買ってくれた観客や、テレビをみてくれているファンを喜ばせたかった」

プリンスはキングに

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