極真分裂.01  後継者の資格
2020年10月25日 更新

極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。

20,294 view
 (2232543)

1986年11月2~3日、第18回全日本が行われた。
「打倒!松井」を目標に1年稽古を積んだ黒澤浩樹は、パワーアップしていたが、2回戦で軽量級選手に油断し、跳び膝蹴りで倒れ、1日目で姿を消した。
松井章圭は、1回戦を1本勝ち、2回戦を膝蹴りで技ありをとって勝ち、初日を終え、2日目、4回戦を判定勝ち。
準決勝は、後に全日本大会で2度優勝、100人組手達成、世界大会優勝とグランドスラムを達成する八巻建志だったが、松井章圭が判定勝ち。
決勝戦は、松井章圭 vs 増田章、3度目の対決となった
松井章圭は前蹴りで距離をとろうとしたがの増田章の突進は止まらない。
延長戦に入り、一瞬のスキをついて上段回し蹴りが増田章の首に入った。
増田章は、一瞬、意識を飛ばしたが、突進をやめなかった。
松井章圭はさらに左上段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴りを連発。
蹴り足ごと押されて倒されたものの、これで流れが変わった。
増田章の攻撃と突進の力が弱まり、松井章圭は攻め続けた。
そして判定で勝ち、全日本大会2連覇を果たした。
1987年8月、恒例の夏の合宿が、かつて大山倍達が牛と格闘した千葉県館山市で行われた。
今回は第4回世界大会に向けて強化合宿でもあった。
第1回世界大会は佐藤勝昭、第2回、第3回は中村誠が優勝。
空手母国の威信を守られた。
しかし今回は
「日本にエース不在」
「極真王座流出、最大の危機」
といわれていた。
第1回世界大会前
「日本が負けたら私は腹を切る」
第2回、第3回では
「君たち、負けたら腹を切れ」
といい、今回の強化合宿でも指導を行った大山倍達は
「君たち、死ぬ気で戦え」
「こんなことじゃ外国人には勝てないよ。
君たちの頭が海外勢にスイカのようにグシャッと潰されるのが浮かんでくるよ」
「とにかくだ。
勝負の世界で負けるということは死を意味することだから、負けたら死ぬ、必ず死ぬんだ。
殺らなければ殺られるという覚悟で精進しなさい」
といった。
合宿最後の夜、日本選手代表は「固めの飲み会」を行った。
一気飲み勝負を行い、負けた選手は別の選手を指名し、勝つまでこれを続けた。
それが一周すると、次はバケツに日本酒、ウィスキー、ビールなどをチャンポンして回し飲み。
主将の松井章圭も酔っ払い、
「自分たち今回の日本代表選手は、一生の付き合いをしよう」
と叫んだ。
全員肩を組んで
「日本の王座死守」
をがなりたてた。
しかし8年後、この15名も分裂した。
 (2232541)

松井章圭は、御徒町の「サンプレイトレーニングセンター」で、宮畑豊からトレーニングしながら故障個所を治す「操体法」の指導を受けた。
操体法は、痛めた個所の周辺の筋肉を効果的に鍛え、故障個所そのものを筋肉のギブスで強化するというもので、松井章圭は、数ヵ月で腰痛を回復させた。
腰痛が癒えた後も、宮畑豊の指導でウエイトトレーニングに取り組んだ。
これまで松井章圭は、永田一彦から「低重量×高回数」のウエイトトレーニング、城西支部で「高重量×低回数」のウエイトトレーニングを経験したが、宮畑豊のトレーニングは「高重量×高回数」だった。
3ヵ月後、ベンチプレスが140㎏→170㎏、スクワットが180㎏→230㎏とパワーアップした。
世界大会まで2ヵ月を切ったある日、宮畑豊の紹介で、松井章圭は大相撲の高砂部屋、九重部屋へ出稽古を行った。
大会2週間前、最後のウエイトトレーニングが終わり、宮畑豊と一緒に食事にいった松井章圭は、1㎏のステーキ、シャブシャブ8人前、超大盛焼きそばと焼うどんを一気に平らげた。
1987年11月6~8日、3日間にわたり、第4回世界大会が日本武道館で行われた。
大会前、イギリス支部長のスティーブ・アニールは
「極真会館2代目就任への賛同と新体制設立の趣意書」
を海外の支部長らに送付していた。
そこにはスティーブ・アニール自身が極真会館の2代目になることも盛り込まれていたが、ヨーロッパを中心に多くの支部長から賛同を得ていた。
そして世界大会終了翌日に開かれる全世界支部長会議で
「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」
を議決する計画だった。
反大山倍達派は、日本の関係者と行き交うとき挨拶さえ交わさず、
日本人 vs 外国人の試合で日本人選手が判定で勝つと、
外国人からヤジ、ブーイング、指笛など抗議のデモンストレーションを起こした。
大山倍達は、このクーデター計画を承知していたが
「試合の判定が日本人びいきであるといわれるような大会であっては断じていけない。
ハッキリと決着をつけるようにしなさい」
と指示し、レフリーは『疑わしきは引き分け』にしていった。
日本代表の控室は殺気と緊張で静まり返っていた。
15名の日本代表は試合に勝っても負けても笑顔はなかった。
『空手母国の王座死守』の重圧によるものだった。
「こんなときは誰か1人負けてくれると気が楽になるんだけどなあ」
盧山初雄の一言でやっと笑いが起こった。
そして全員が1回戦を突破した
2日目、松井章圭は、2回戦、左上段回し蹴りで1本勝ち、3回戦、3-0の判定勝ちで2日目を終えたが、小笠原和彦がアンディ・フグに技ありを2つ奪われ1本負けするなど、日本代表は14名になった。
3日目、生き残った32人が潰し合いを始めた。
Aブロックを制したのは、ジェラルド・ゴルドーと七戸康博を判定で下した増田章。
Bブロックは、八巻建志、ブラジルで100人組手を達成したアデミール・ダ・コスタ、「ヨーロッパ最強の男」ミッシェル・ウェーデルが集う激戦区だったが、アンディ・フグが制した。
Cブロックでは、黒澤浩樹が3回戦でピーター・シュミットとのケンカファイトを判定勝ちしたもののケガで棄権。
黒澤浩樹の棄権によって準々決勝を不戦勝で勝ったマイケル・トンプソンが制した。
Dブロックは、松井章圭が制し、ベスト4が決まった。

Andy Hug vs Shokei Matsui

全大会ベスト16のアンディ・フグは、4年間で「踵落とし」というオリジナル技まで編み出していた。
「踵落とし」は、まったく未知の技でまともな受け技もなく、対戦相手は崩され、倒されていった。
準決勝戦第1試合で増田章も踵落としに崩され、3度の延長戦の末、判定で敗れた。
準決勝第2試合、マイケル・トンプソン vs 松井章圭。
マイケル・トンプソンが軽快なステップから大きな蹴りを繰り出す姿は「黒豹」と呼ばれた。
特に長身で柔軟な体から高速で繰り出される高速の後ろ回し蹴りは脅威だった。
(脚を殺せばフットワークも死ぬ)
松井章圭は下段回し蹴りで攻めた。
一進一退の攻防は5度目の延長戦まで続いた。
消耗と下段回し蹴りの連続攻撃を受け、ガードが下がっていたマイケル・トンプソンに、松井章圭が下段回し蹴りのフェイントから右上段回し蹴りをマイケル・トンプソンに放ち1本勝ちした。
決勝戦は、アンディ・フグ vs 松井章圭。
松井章圭は踵落としを、
(あの技は、1で軸足を踏ん張って蹴り足を頂点まで振り上げ、2で相手に踵を振り落とす。
つまり1のタイミングでアンディ・フグの軸足を払ってしまえばいい)
と分析し、試合開始早々、下段回し蹴り。
するとアンディ・フグは左の踵落とし。
それは松井章圭の鼻先数㎝から帯の結び目をかすめてマットに落ちた。
意を決して間合いを詰める松井章圭にアンディ・フグは、2度目の踵落とし。
松井章圭はかまわず踏み込んでアンディ・フグの軸足を蹴った。
本戦は引き分けとなり、延長戦へ。
アンディ・フグは、フットワークで大きく回りながら、3度目の踵落とし。
その踵は松井章圭は右耳をかすめ肩に落ちた。
松井章圭は、そのまま前進し、軸足立ちになったアンディ・フグを押し倒した。
アンディ・フグは跳ね起き、右後ろ回し蹴り。
松井章圭は後ろに体を反らせてよけて、左下段回し蹴り。
2度目の延長戦に入り、アンディ・フグが4度目の踵落とし。
それに対し、松井章圭は、アンディ・フグの軸足に後ろ回し蹴りを合わせた。
4度も踵落としを潰され、パンチによって活路を見出そうとしたアンディ・フグの左の突きが松井章圭の顔面に入った。
主審に反則に
「減点1」
をいい渡されたとき、アンディ・フグは両手で顔を覆い天を仰いだ。
そして試合は判定で松井章圭が勝った。
松井章圭が優勝したことで、スティーブ・アニール派は勢いを削がれ、世界支部長会議で「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」が議題となることはなかった。
 (2232192)

「もう試合はしません」
100人組手を達成、全日本大会を2連覇し、そして第4回全世界大会で優勝した後、極真会館総本部指導員の松井章圭は館長の大山倍達に選手引退を申し出た。
大山倍達は
「わかった」
と了承しつつ
「しかし来年の(第20回)全日本大会までは公表しないように」
とクギを刺した。
松井章圭が選手引退を決めたのにはいくつか理由があった。
第4回世界大会優勝後、連日、後援者や先輩後輩、知人と夜の街に繰り出したが、遊んでいるときは楽しいのに帰り道には虚しさしかなかった。
憧れつづけた地上最強の極真空手。
その極真空手で世界王者となって、改めて実社会ではちっぽけな存在であることに思い知った。
「一人前の男として社会に通用するためには空手だけではいけないのかもしれない」
と思うようになった。
また結婚の問題もあった。
「幸吟はお前にあげるから早く連れていきなさい」
母親の任福順にそういわれても受けることはできなかった。
やがて娘の将来を思う任福順は縁談を受けるようになった。
親のいうことに絶対逆らわない幸吟が見合いするのを松井章圭はヤキモキしながら見守るしかなかった。
やがて幸吟から
「縁談が決まりました」
といわれ、お金を渡して命じた。
「これで婚約を破棄してこい」
お金は見合い相手の男性のための慰謝料だった。
24歳の松井章圭は、空手家として生涯を全うするつもりだったし、総本部指導員の給料にも不満はなかったが、立派な人間になるために新たな一歩を踏み出したかった。
秋になり第20回全日本大会が行われ、黒澤浩樹が3回戦、増田章が4回戦で負け、中量級の桑島保浩が優勝した。
桑島靖寛は、京都産業大学在学中に極真会館京都支部入門。
全日本ウェイト制大会中量級で優勝し、日本代表として第4回世界大会に出場で5回戦でアンディ・フグに敗北。
その後、大山倍達の命を受けて京都の風呂無しの木造アパート「ひのき荘」を出て、出身地である四国、香川県に自分の支部を立ち上げた。
そして昭和最後の全日本チャンピオンとなった。
「大山総裁の指紋がついているから・・・」
大山倍達から手渡された優勝トロフィーを誰にも触れさせず持ち帰り道場のガラス棚に飾り施錠した。
道場では先頭に立ち滝のような汗を流し、感情をむき出しで指導。
稽古の後は道場生を引き連れ、汗で流した分、酒を飲み、大量に食べ、熱く語り、唄った。
自分の道場生の試合ではよく涙を流し、寂しくなると時間も相手の都合も考えずすぐ電話をしてしまうな支部長だった。
 (2233086)

全日本大会の後、大山倍達は松井章圭にいった。
「なぜ君は全日本大会に出なかったんだ?
これから全日本3連覇や世界大会2連覇もできたはずじゃないか」
暗に引退撤回を迫られた松井章圭は、空虚な総本部指導員暮らしを続けた。
やがてブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど南米各国の支部を回り指導を行うように命じられた。
松井章圭は、現地で日本語で号令をかけて稽古を行い、模範演技を示し、次々と挑んでくる相手と組手をした。
このときのブラジル支部で、後に第7回世界大会で史上初の外国人チャンピオンとなる17歳のフランシスコ・フィリョと組手をした。
南米から帰国後、総本部指導員に戻ったが、ある日、大山倍達に呼ばれた。
「君は将来、私の右腕として極真空手の普及のためにアメリカと韓国、日本を行き来しながら活躍してほしい」
母国の文化や風習を勉強したかった松井章圭は喜んだ。
「それならぜひ韓国へ行かせてください」
「よし、韓国へ行かせよう」
「いつ頃行かせていただけますか」
「そうだね。
来年の春ごろ行きなさい」
こうして韓国支部創設の話が決まり、松井章圭の精神は久しぶりに満たされた。
その後、大山倍達は、松井章圭の渡韓に向けて準備を始めたが、韓国の後援者は難色を示した。
まだ韓国に極真空手の道場はなく、大山倍達の期待のかかる松井章圭を受け入れられる環境ではないというのだ。
約束の春を過ぎても、大山倍達から韓国行きの話は出ず、6月になり意を決した松井章圭は大山倍達の館長室を訪ねた。
「韓国へはいつ行かせてもらえるのでしょうか」
「君を他の道場へやるわけにはいかないんだよ。
君は総本部で指導していなさい。
いま君を韓国へ行かせるわけにはいかないんだ」
「わかりました」
松井章圭は部屋を飛び出し、そのまま総本部指導員を退職した。
 (2233088)

極真会館を飛び出した直後、松井章圭は、許永中の側近から相談を受けた。
「極真にうちで働けるまじめで若い、いい子はいないかな?」
「そのお話、私ではダメでしょうか?」
側近からその話を聞いた許永中は
「それが1番の理想」
と喜んだ。
42歳の許永中は、神戸と釜山を往復する大阪国際フェリー、テレビ局、新聞社、銀行、産廃処理、ホテル、老人ホーム、芸能プロ、ゴルフ場、建設業、不動産業、旅行代理店、貴金属卸、警備保障会社、飲食業など74社を束ねるコスモタイガーコーポレーション(CTC)の会長で、多くの在日同胞の子弟を雇っていた。
また持ちビルを道場や関西本部事務所として無償で貸して、自分の子供を極真空手に入門させた。
初めて松井章圭に出会ったとき、許永中は、そのナイスガイぶりに
「在日コリアン社会の若きエース格」
と期待した。
松井章圭は帝国ホテルにあったCTCの事務所にいき、許永中と面談した。
許永中は、スキンヘッドに眼鏡、180cm、100kgという巨漢で、眼鏡は、若い頃、敵対していた暴力団組織との抗争で失明寸前の大ケガを負わされ視力が低下してしまったためのものだった。
「わしは9時5時のサラリーマンを雇うつもりはない」
「はい」
こうして松井章圭はCTCに就職した。
そしてワインの輸入販売会社で、営業、運搬、在庫管理、原価計算など貿易の仕事をした。
 (2233090)

1988年12月、北海道支部長である高木薫(北海道支部長)が、東京本部総裁秘書室室長となった。
高木薫は、大学で極真空手を始め、芦原英幸、山崎照朝、添野義二らの指導を受け、大学2年生で黒帯となり、3年生で第1回全日本大会に出場し2回戦敗退。
大山倍達にロサンゼルスにいくようにいわれ
「英語も話せないし、アメリカは荷が重すぎる」
と断ると
「わかった。
じゃ君、明日すぐに北海道へ行け」
となり大学卒業後、北海道へ。
物腰が低く温和で面倒見がいい高木薫は、道内に17の道場を設立。
全日本大会や世界大会で主審や副審を務めるほかにも頻繁に上京し、極真の活動に尽力した。
東京本部総裁秘書室室長となってからは、ますます北海道と東京を往復する回数が増えた。
そしてこの後、様々な改革に着手する。
 (2233092)

1989年6月、許永中は、KBS京都(京都放送)の2000株(合計10億円)に対し第3者割当増資
(会社の資金調達方法の1つ。
株主であるか否かを問わず特定の第3者に新株を引き受ける権利を与えて行う増資のこと。
株式を引き受ける申し込みをした者に対して、新株もしくは会社が処分する自己株式が割り当てられる。)
を行い、資本金を10億円から20億円に倍増させた。
そして株主総会で19人と定められていた役員を26人の増やし、自らの息のかかった人物を経営陣へ送り込んだ。
京都新聞グループ(京都新聞、KBS京都など)の創業3代目社長だった白石英司が急死後、不動産投資の失敗による多額の債務が発覚。
また新社長となった内田和隆に創業者未亡人の白石浩子が反発したことで内紛が勃発。
この内紛に介入し、経営再建に乗り出したのが許永中だった。
許永中は内田和隆を副社長に降格させ、新社長に画商の福本邦雄を就任させた。
そして松井章圭に
「福本邦雄という人物のところで勉強してみないか」
と勧めた。
松井章圭に
「実社会における100人組手をぶっつけ本番で挑戦させよう」
という意図だった。
福本邦雄の個性は半端なものではなく常人なら1ヵ月も辛抱できるものではなかった。
福本邦雄の父親、福本和夫は、 共産党の理論的指導者だった。
1928年に、3・15事件で入獄。
14年間獄中で生活し、出獄後は執筆活動に専念した。
福本邦雄も、東京大学時代に共産党に入党するが、党内対立で除名となり、卒業後、産業経済新聞に入社。
岸信介総理大臣と椎名悦三郎官房長官が、水野成夫(産業経済新聞社)社長に、福本邦雄を出向させて欲しいと要請。
福本邦雄は、官房長官秘書官(1959年6月~1960年7月)、自民党政調会長秘書役(1960年7月~同年12月)、通産大臣秘書官(1960年12月~1961年7月)を務め政界に人脈を築いた。
政党の資金関係を担当していたため新聞社に戻れず、PRエージェント会社「フジ・コンサルタント」、画廊「フジ・インターナショナル・アート」、「フジ出版社」を創業した。
企業が画商から絵を数点購入し、画商は領収証を発行して企業に納入するが、うち数点は秘かに政治家に渡す。
政治家は必要に応じて絵を売って政治資金を捻出する。
バブルの頃、福本邦雄は「名画」を政治家や官僚にバラまいた。
 (2233094)

後に発覚するイトマン事件で、許永中は自身が保有していた絵画など676億円をイトマンに購入させたが、その多くは福本邦雄の画廊から出たものだった。
福本邦雄は、KBSを正常化し、京都新聞に合併させる構想を抱いて動き出したが、許永中がダイエーファイナンスから自身のゴルフ開発会社に146億円の融資を受けた際、KBS社屋や土地、さらには放送機材まで放送局まるごと担保に設定したことが発覚。
1989年、KBSはダイエーファイナンスから競売申請を受けた。
松井章圭は福本邦雄の事務所に約1年半勤めることになるが、初めて出社したとき、事務員の女性に
「あなたね。
ここじゃ空手のチャンピオンだろうが関係ないのよ。
私のほうが先輩なんだからね」
と釘を刺された。
かかってきた電話への対応でも
「大声はダメ」
「もっと丁寧に」
「まず『お世話になってます』っていってから」
細かく指導を受けた。
極真会館では電話は元気よく対応すればよかった。
事務所には大臣クラスの代議士や事務次官クラスの官僚、大企業の経営者らが頻繁に出入りしていて、挨拶の仕方を教わった。
また絵の運搬や、福本茂雄の身の回りの雑用も行い、KBSのある京都にも同行した。
福本茂雄は執筆活動もしており、松井章圭は資料集めのために国会図書館や書店を回った。
ライアントを見送りに事務所を出たとき、松井章圭は車に乗り込むクライアントに会釈した。
頭を上げてふと横をみると福本邦雄は、まだ深々と頭を下げたままだったので、あわててそれに倣った。
クライアントとステーキハウスを訪れたとき、それぞれ好みの量を注文した。
松井章圭はステーキなら2㎏は平気だったが、遠慮して400gにし、瞬く間に平らげた。
帰りの車中で福本邦雄に怒られた。
「お前は常識のない奴だな
お前のための食事会じゃないんだぞ」
大山倍達ならたくさんの量を食べれば食べるほど喜んでもらえた。
これまでとあまりに違う環境に、3ヵ月たっても失敗を重ね、自己嫌悪に陥り、やる気も低下していた。
ある日、福本邦雄に呼ばれ、
「はあーい」
と気のない返事をすると冷ややかにいわれた。
「お前さん、もう辞めるのかい」
松井章圭は凍りついた。
(このままでは落伍者の烙印を押されてしまう。
極真世界王者の実績はなかったものとして、謙虚に、そして貧欲に社会人としての生き方を、白帯から始めなければならない)
一瞬で我に返った松井章圭は
「すみませんでした。
姿勢を改めて頑張りますのでここに置いてください」
その後は一切泣き言も苦情をいわなかった。
松井章圭は、福本邦雄事務所で働くことで、日本の政官財のトップたちを直接観察することができた。
そこには日本の権力の縮図があった。
 (2233099)

1990年3月、1984年の全日本大会を4回戦で棄権したのを最後に現役を退いていた三瓶啓二が、1979年に49人で失敗した100組手に11年ぶりに挑戦し、完遂。
「史上初全日本大会3連覇」の不屈の男に「100人組手達成」という新たな伝説を加わった。
多くの者は、そのチャレンジ精神に感動した。
しかし途中、1時間近い休憩が入ったことや、相手に色帯の女子門下生がいたなど、その内容には賛否があった。
1990年12月、第22回全日本大会で増田章が緑健児から上段回し蹴りで技ありを奪って優勝。
会場で観戦していた松井章圭は真っ先にかけよって増田章を祝福した。
このとき
「(来年の11月に開催される)第5回世界大会で演武と大会中継のテレビ解説をするように」
という大山倍達からの命が伝えられた。
それまで
「本業を定めた以上、大会という華やかな場に立つことは控えるのが筋」
と固辞し続けていたが、思い悩んだ末、引き受けることにした松井章圭は3年前に飛び出した館長室を訪ねた。
「元気そうだな」
大山倍達は笑顔で迎えた。
実質的に、これで極真復帰が決まった。
直後、1991年元日、朝日新聞が
「絵画取引12点の実態判明、差額はどこへ流れた?」
「西武百貨店-関西新聞-イトマン 転売で25億円高騰」
との大見出しで絵画取引の不正疑惑をスクープ。
1991年5月19日、増田章が100人組手に挑戦。
松井章圭はセコンドについた。
開始前、大山倍達は対戦者に発破をかけた。
「対戦者は真剣に戦え。
全日本チャンピオンに1本勝ちしたら、次の昇段のときの得点にします」
50人目終了後、20分休憩が入り、増田章は道着を交換。
「倒れるまでやらせてくれよ」
そういう増田章を松井章圭は
「大丈夫。
そこまで認識していれば問題ない。
オレなんか50人の時点でもう青息吐息だった。
それに比べれば今日の君は十分余力がある。
自信を持っていけ」
と笑顔で激励した。
「もっとリラックスして」
「自然に行け」
「気を抜くな」
「自分から動いていかないと」
「がんばれ、ほら、弱気になるな」
「増田!何やってるんだ」
「どうせ後になったら動けなくなるんだから、今のうちに動いておけ」
松井章圭は100組手中、立ちっ放しで目を離さず声をかけ続けた。
100人完遂後、2人は道場の隅で談笑した。
「まったく『何、弱気になってんだ』とか、『ここまでは誰だってできるんだ』とかカチンカチン頭にくることばっかりいうんだから。
何いってんだ、オレは痛えんだぞと思いながらやっていましたよ」
「自分はそれを99人目でもいいました(爆笑)」
「なんか憎しみ込めていってるように聞こえたよ」
「いや、愛情もこのくらい(指で1㎝くらい示し)ありました」
1991年7月23日、大阪地方検察庁特別捜査部は、総合商社イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行った許永中を特別背任の疑いで逮捕。
約3000億円が闇に消えた戦後最大の経済不正経理事件、「イトマン事件」だった。
松井章圭は、極真復帰の事情をしたためた手紙を許永中のいる拘置所へ送った。
許永中は、松井章圭の休職を許可し励ましの手紙を返した。
福本邦雄からも
「君には厳しく当たったけど、まあよく辛抱した。
これからも頑張んなさいよ」
という言葉と餞別があった。
93 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

極真分裂.02  松井派、支部長協議会派、遺族派?

極真分裂.02 松井派、支部長協議会派、遺族派?

1994年、大山倍達没後 激動の1年。
RAOH | 21,069 view
極真分裂.03 他流試合

極真分裂.03 他流試合

大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。
RAOH | 13,666 view
極真分裂.04  みんな極真を愛していた

極真分裂.04 みんな極真を愛していた

2000年以降、極真の分裂は沈静化。いろんなことがあったが、結局、みんな極真空手が好きだった。
RAOH | 13,539 view
角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。
RAOH | 21,335 view
佐竹雅昭  生涯一空手家 永遠の空手バカ

佐竹雅昭 生涯一空手家 永遠の空手バカ

あくまで最強の男を目指し、「闘志天翔」というテーマと、「1位.夢、2位.健康、3位.お金」という人生価値観を実践し続ける男。 空手を武器に総合格闘技のリングにも立った空手バカ一代男は、90年代の格闘技ブームの立役者となった。 批判されることもあるけど、ほんとうに強いし、ほんとうにナイスガイ。 間違いなく格闘技ヒーローである。
RAOH | 44,524 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト