極真分裂.01  後継者の資格
2020年10月25日 更新

極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。

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松井章圭は、「極真会館」ができる前年(1963年)に生まれた。
父親は19歳のときに漁船に乗って広島県の尾道に渡り、2年後、東京で愚連隊に因縁をつけられていたところを「松井」という親分に命を助けられ、日本での通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)を「松井」にした。
その後、働きながら法政大学を卒業。
喫茶店を始め、数年後には広い庭つきの2階建ての家を建てたが、借金の保証人になったことで、数億円の借金を背負い、家も喫茶店もとられ、4畳半のアパートに移った。
その後、10年間、スナック、サウナ店、焼鳥屋、食堂と転々と経営し、13回引越しをしながら、借金を返し続けた。
アパートにうつったとき松井章圭は小学生だった。
体が小さく、色白でぽっちゃりし、勉強も体育も真ん中だったが、強い正義感を持っていた。
また偏見を持つ日本人から差別を受けた経験から自然と
「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」
と認識していた。
学校で、女子につい傷つけるような言葉をいってしまったあとは自己嫌悪に陥り、その子のところにいって謝り
「これからは絶対に悪口をいわないからな」
といって握手した。
部活動で後片付けをサボっている上級生5人に
「みんなで後片付けをするのが決まりじゃないですか」
と注意すると、翌日、その5人に体育館の倉庫に連れ込まれ殴られ蹴り回された。
松井章圭は、悔しくて眠れなかった。
「正しいことを行うためには強くなければならない」
ある日、松井章圭が、「週刊少年マガジン」を立ち読みをしていると
「これは事実談であり、この男は実在する」
という見出しに遭遇した。
「空手バカ一代」だった。
松井章圭は、大山倍達の超人追求物語をみて、まるで神の啓示に打たれたような心境になった。
その後、「空手バカ一代」だけではなく、大山倍達の著作も読破していった。
それらはすべて強くなるための方法が書かれたもので、すべて松井章圭のバイブルになり本棚に並んでいった。
そして1人で極真空手の基本稽古、拳立て伏せなどのトレーニングをやり始めた。
1975年11月、東京体育館において極真空手の第1回世界大会が行われた。
これは「地上最強のカラテ」というドキュメンタリー映画となり、松井章圭は映画館でそれを観た。
やがて電柱や壁など硬いものがあると拳を当てて鍛えるようになった。
そして隣町に極真の道場ができると親に通わせて欲しいと頼んだ。
母親は、800人中、300~400番くらいの成績だった息子に
「100番以内に入ったら許します」
といった。
すると60番まで上がった。
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1976年6月12日、松井章圭は13歳で極真に入門した。
家からバスで30分のところにあった極真会館千葉北支部流山道場は、20畳ほどのプレハブ小屋で、指導していたのは加藤重夫だった。
加藤重夫は、155㎝50㎏。
160㎝60㎏の松井章圭より小さかった。
16歳のときに大山道場に入門し、空手に熱中するあまり高校卒業後勤めた豊島区役所も8ヵ月で辞め、血まみれになりながら稽古を続けた。
そして相手の蹴りや突きを肘で受ける受け技「落とし」を体得。
国内だけでなく、オーストラリア支部へ派遣され指導を行った。
また映画「007は二度死ぬ」では姫路城の屋根の上のシーンを演じた。
(1985年、極真会館の千葉北支部の師範代の任を辞し、埼玉県新座市に「藤ジム」というキックボクシングのジムを設立。
やがて魔裟斗を輩出。
空手で松井章圭を、キックボクシングで魔裟斗、2人の世界チャンピオンを育てた)
加藤重夫は松井章圭に入門の動機を聞いた。
「将来、空手家になりたいんです。
極真空手を一生続けていくつもりで来ました」
「よし、わかった。
それならば
お前は極真のチャンピオンになりたいんだな?」
「はい」
「よし、がんばれよ。
そのかわり今日から『つらい』『苦しい』『痛い』という3つの言葉だけは絶対にいうな。
できるか?」
「はい」
松井章圭はさっそく練習に参加した。
まず
「押忍」
という挨拶の仕方を覚えた。
そして稽古は神前への礼、師範への礼、門下生同士の礼から始まった。
準備体操が終わると拳立伏せ、腹筋、背筋などの補強運動。
そして基本稽古。
正拳突き、裏拳、肘打ち、手刀、上段受け、中段外受け、内受け、下段払い、前蹴上げ、内回し蹴り、外回し蹴り、膝蹴り、金的蹴り、前蹴り、横蹴り、関節蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り・・・
各30本、気合をかけながら行う。
その後は深く腰を落とし背骨を立てたまま移動し基本の技を出す移動稽古。
「苦しいときこそ足の親指に力を入れろよ。
親指があらゆる技を出すときの源なんだからなあ」
加重夫の怒声に
「押忍」
と全員が答え汗にまみれながら動いた。
「いいか、苦しくなってきてからの頑張り、すなわち一枚腰ってやつは誰だって持ってるんだ。
これを乗り越えて次にやってくる苦しさで半分のやつは音を上げるんだ。
ここまでが二枚腰ってやつだ。
さらに苦しさが増す。
だがさらに自分を追い込んで逃げないやつ。
根性で食らいついてくる人間。
こいつこそが三枚腰の人間なんだ」
「押忍」
移動稽古後は、2人1組で攻撃側、防御側に分かれて技をかけあう約束組手。
その後、さらに型の稽古を行う。
そしてやっと組手となる。
直接技を当て合う直接打撃制の組手を1~3分、相手を変えながら行う。
加藤重夫は、入ったばかりの松井章圭にも組手を命じた。
相手は緑帯を締めた同じ中学校に通う同級生だったが、松井章圭は突きで押しまくられ、鼻に蹴りをもらった。
鼻血を出して倒れたが、痛みや屈辱よりも
(やっぱり極真は強い)
という感動と興奮のほうが大きかった。
組手が終わると柔軟体操。
そして正座して黙想。
全員、大きな声で道場訓読み、礼をして稽古は終わった。
その夜、松井章圭は自宅の鏡の前に買ったばかりの左胸に紺色の糸で「極真会」と刺繍された道着を着て立った。
「俺は絶対に黒帯になる」
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千葉県の一宮海岸で行われた夏合宿に参加したとき、松井章圭は大山倍達を初めて生でみた。
合宿2日目の夜、大山倍達は、サングラスに道着のズボン、白いランニングシャツで登場し講話を行ったた。
白帯の松井章圭は最後列だったが、一言も聞き漏らさないように正座したまま話を聞いた。
「バシッ!」
技を説明するために大山倍達が左手に右肘を打ちつけると、全身が反応した。
「君たち、1度立ち会ったら1発で相手を倒さなければならないよ」
講話が終わっても松井章圭は正座を崩せなかった。
白帯の松井章圭が初めて昇級審査に参加したとき、再び神様
と遭遇した。
審査課題の中に「拳立て伏せ×50回」があったが、松井章圭は42回しかできなかった。
すると審査に来ていた大山倍達が声をかけた。
「君は何回やったんだね?」
「押忍、42回です」
「なんでそのあと8回ができないのか。
死ぬ気になればできるよ」
大山倍達は激しく怒られ松井章圭は落ち込んだ。
自分の取り組み方が甘かったと、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後のストレッチに加え、腹筋、背筋、拳立て伏せも毎日行うようにした。
こういった得意な部分を伸ばすことよりも、自分の弱点の克服に全力を尽くす稽古の方向性も松井章圭の特徴だった。
中学3年生になり茶帯の昇級審査を受けた松井章圭は、再び大山倍達に声をかけられるになる。
基本稽古、移動稽古の審査ではひときわ高く美しい蹴りを、組手の審査では、大人を相手に、跳び2段蹴り、後ろ回し蹴り、上段回し蹴りを連続的に繰り出して華麗な組手を行った。
「君、ほんとに14歳?」
「押忍」
「うーん」
と大山倍達はうなり
「君は必ず強くなるから頑張って稽古しなさい」
と励ました。
こうして入門1年という異例の速さで茶帯に昇級した。
極真空手の帯は、白帯から、青帯、黄帯、緑帯、茶帯と昇級していき、有段者になると黒帯となる。
黒帯の端には締めている者の段位を、初段なら1本というように金糸の線が刺繍され、段位が上がる度に1本ずつ増えていく。
この頃、黒帯になれるのは、門下生数百名に1人だった。

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茶帯になった松井章圭は加藤重夫に、大山倍達が直接指導し圧倒的な強さを誇る総本部道場への出稽古を申し出た。
そして許可を得ると翌日、新しい茶帯を巻いた道着をもって電車で東京へ向かった。
地下のロッカールームで着替え、稽古が始まった。
加藤重夫の指導では、基本稽古は1つの技が30~50本だが、総本部は、そんな数では終わらず、最後の回し蹴りは500本だった。
組手稽古が始まると、最初の相手は、自分より体の小さな茶帯だった。
太鼓が鳴り構えた瞬間、右の顔面に衝撃が走り視界が曇った。
相手の左上段回し蹴りをもらっていた。
次の瞬間、体が宙を舞い背中に衝撃が走り息が詰まった。
相手は松井章圭の襟をつかんで体落としで床に投げつけていた。
「大丈夫か」
遠くに相手の声が聞こえた。
次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走り完全に息が止まった。
相手は松井章圭の腹部に極めの足蹴りをめり込ませていた。
この後の組手でも、松井章圭は突かれ、蹴られ、投げられ、踏まれ続けた。
自分の技はまったく決まらず、逆に相手の技は1つ1つが、速く、痛く、重かった
やっと稽古が終わると、松井章圭は、逃げるようにして総本部を飛び出した。
電車の中では涙が出た。
(もうやめようか)
入門以来はじめて極真空手をやめることを考えた。
しかし数ヵ月後、1977年10月、入門して1年4ヵ月の松井章圭は昇段試験を受け合格し、黒帯になった。
まだ中学生。
極真史上最年少の黒帯だった。
黒帯になった松井章圭に、母親は高校受験のために半年間、極真空手の稽古をやめさせた。
しかし空手ができないことで勉強に集中できず逆に成績は落ち、志望校のランクを下げて受験するも不合格。
東京の東洋大学京北高等学校の2次募集に合格した。
道場に復帰した松井章圭は、自分の修行を行いながら、道場に3人しかいない黒帯の1人として大人を含めた門下生の指導も行った。
いつもポーカーフェイスで、わかりやすく技を説明し模範を示す松井章圭だったが、ツッパリや不良が入門してくると組手で痛めつけた。
ただ同じツッパリや不良でも1人で大勢と戦うような人間は受け容れた。
しかしハッタリだけで実は弱い人間は容赦しなかった。
またたるんだ練習を行う人間にも厳しかった。
1978年10月、入門時160㎝60㎏だった体が174㎝80㎏になった松井章圭は初めての試合、第1回東北大会へ出場。
1回戦、過度の興奮と緊張で、下段回し蹴りと合わせ技しか出せないまま、なんとか判定勝ちしたが、右足親指を骨折。
2回戦も何とか勝ったが、3回戦で後ろ蹴りを腹にもらって負けた。
骨折した箇所をかばいながら乗り込んだ帰りの電車は込んでいて、上野駅まで4時間、立ったままだった。

中村誠 極真空手

松井章圭は、加藤重夫の指示で、週2回、金曜日の夜と日曜日の昼に総本部で黒帯が集まり、大山倍達の指導により行われる黒帯研究会、通称「帯研」へ出稽古することになり、2年前、逃げるように帰った総本部の門を再びくぐった。
支部からきていた黒帯は松井章圭を含め6名いたが、大山倍達は
「支部からきた黒帯は3ヵ月間は茶帯研究会の方で稽古するように」
と命じた。
松井章圭は、茶帯研究会の練習にはついていけた。
しかし総本部の茶帯の筋肉質な肉体と、たとえ組手で劣勢でも決して弱気になることはなく戦い続ける姿勢に驚かされた。
3ヵ月後、帯研へ参加が許されたとき、6名いた支部から出稽古に来ていた黒帯は、松井章圭を含め2名になっていた。
このときの帯研は、第2回世界大会へ向けての強化合宿も兼ねていて、日本代表の選手も参加していた。
まだ体重別の大会もなく世界大会の代表選抜は全日本だけの1発勝負で、ベスト8と数名が推薦枠として出場できた。
中でも全日本大会で優勝したばかりの中村誠の強さは群を抜いていた。
「断ったら世界大会に出さない」
と大山倍達といわれ中村誠、三瓶啓二、三好一男が100人組手にも挑戦。
8月、映画「地上最強のカラテ」の撮影用のカメラとライトが入った道場は、温度も湿度も上がり、不快指数100%の炎熱地獄となった。
松井章圭も相手を務めたが、三瓶啓二は49人目、中村誠は35人目、三好一男は45人目で失敗した。
中村誠の空手は相手を叩き潰す組手。
自ら前に出ていき、重戦車のようになぎ倒し、キングコングのように吹っ飛ばしていった。
しかしこういう組手はエネルギー消費が激しく、20人を超えると動きが悪化。
やがてそしてサンドバッグ状態になり、35人目で大山倍達からストップがかかった。
100人組手の凄まじさを目の当たりにした松井章圭は、ウエイトトレーニング器具を購入し、ベンチプレスを30㎏×1000回、腹筋×500回、背筋×500回を追加し、毎日やっていた自宅でのトレーニングをボリュームアップさせた。
また道場へは稽古開始1時間前を目標に行き、相手を見つけて組手を行った。
総本部の強さの理由の1つが「稽古量」にあると悟ったからだった。

Kyokushin Karate Fighter 028- Everyday training" Keiji Sanpei(三瓶啓二)"

100人組手の3日後、挑戦した3人を含む日本代表は、アメリカ遠征に旅立った。
3人共、アメリカに着いて1週間は脱水症状でまともに動けなかった。
それでも世界大会で最大のライバルとなるウィリー・ウイリアムズスを含むアメリカ代表とケンカのような組手を行った。
そして世界大会では中村誠が優勝し、三瓶啓二が2位になった。
三瓶啓二は不屈の男だった。
福島から東京に上京し、早稲田大学の2部学生としての勉学、アルバイト、稽古、トレーニングをこなし、1日の睡眠時間は3時間しかしなかった。
第11回全日本大会から、この第2回世界大会にかけ、2年間、中村誠に勝てなかった。
三瓶啓二は、中村誠より少し先輩だったが、体格でも才能でも劣っていた。
「史上3連覇を成し遂げた三瓶君も生来体が硬い。
今でも股割りをさせても、ぴたっとは足がつかない。
それでも彼は努力を重ねて、あそこまでやった。
だから体が硬くても強くなれる」
素質じゃないよ。
努力だよ」
(大山倍達)
「彼は茶帯だったが後年のブルファイターぶりはその当時から目立っていた。
まだ大した技も持っていなかった。
しかし一歩も下がらずに前へ前へと出る試合ぶりで勝ち上がっていた。
だが私と対戦したときは、私の迫力に気後れしたのか後退する場面が多くしばしば場外に出てしまう」
(第1回世界大会優勝者、佐藤勝昭)
三瓶啓二は、もともと総本部にいたが、早稲田大学での稽古や指導のために、ほとんど総本部には顔を出していなかった。
「打倒、中村誠」
を誓った三瓶啓二は総本部に復帰。
朝の10時に始まる1部の稽古から参加するようになった。
総本部での稽古で意気投合した三好一男、柳渡聖人らと特訓を開始した。
総本部では、合同稽古とサンドバッグなどで自主練。
国立競技場トレーニング室で苛酷なウエイトトレーニングを行い極限まで自分を追いつめた。
「打倒 中村!!」
狂気スレスレの稽古を行う三瓶啓二に、三好一男(高知県支部長)、小林功[栃木県支部長]、柳渡聖人(岐阜県支部長)、大濱博幸(広島県支部長)、藤原康晴(長野県支部長)をはじめ多くの後輩が憧れた。
そして三瓶啓二も後輩たちの面倒をよくみた。
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三好一男が三瓶啓二と夜を徹して酒を飲んだとき、朝、目が覚めると、傍で寝ているはずの三瓶啓二がいなかった。
どんなに酒を飲んでも三瓶啓二は、早朝の自主トレを休まなかった。
「自分にとって、三瓶先輩と同時代を生きれたという事は、大きな財産だと思っています。
ただ黒帯を取れればいい、そんな程度にしか考えていなかった自分が、極真空手の本当の厳しさ、素晴らしさを知る事ができたのも、三瓶先輩のおかげですから」
「あの人が勝てなかったら、この世に神がいるということも、努力は報われるものだという話もみんなウソになると思いました。
それ程稽古をしたんです。
あの人は」
大学を口実に四国、愛媛県新居浜市から上京し、総本部に入門。
毎日、朝9時の朝礼、10時から始まる1部の稽古、2部の稽古が終わる18時まで、生活は道場にあった。
「出席率は常時トップでしたよ。
努力賞はいつも自分のものでした。
とにかく毎日稽古はした。
当時の稽古はそりゃ厳しかったです。
入門したばかりの頃から先輩方にはガッチリやられました。
組手をやっていたら一瞬目の前が真赤になって。
アレッ、どうしたのかなって思ったら顔中血みどろだったり。
でもあの頃は不思議と何でもなかったです。
だってあの極真空手をやっているんだもん、こんなことは当たり前だと思ってました」
(三好一男)
世界大会では4回戦でイギリスのバーナード・クレイトンと対戦。
エキサイトした三好一男は、大山倍達に
「試合態度が悪い」
と警告を受け意気消沈。
熱く燃えてない三好一男など、バットを持たずに打席に入ったバッターに等しく判定負け。
第12回全日本大会では1回戦で左足の指を骨折。
中指が完全に反り返り上を向いていた。
即、救急車で東京体育館に近い慶応病院へ。
待っている間も次の試合の順番が気が気ではなかった三好一男は医師に
「テーピングでなんとか試合できるようにしてくれませんか」
と頼んだがギブスを巻かれてしまった
「まいったなあ」
と思いながらも試合場に戻り、ギブスを巻いた足で胴廻し回転蹴りや上段廻し蹴りを放ったが、下段廻し蹴りだけは出さなかった。
「骨折している僕も痛いが相手だってギブスで蹴られれば痛い。
下段はその気になれば狙って蹴れる。
でもそうしては失礼だという気持ちがあった。
だから下段だけは蹴ってないです。
上段は、届くまでに時間もかかるし、相手にとってもよけやすい。
それにこれもダメだとなると僕の方も試合にならないので申し訳ないけど勘弁してもらいました」
上段廻し蹴りを放った結果、ギブスの一部が砕け、石膏がもうもうと舞い上がった。
後で極真史上、初の凶器使用と笑われた。
三好一男の空手は、さばいたり、回り込んだりというテクニックや器用さはなく、荒々しく豪快。
「どんな強い相手でも1歩も下がらず向かって行け」
という教えを守り
「絶対に負けない」
という強い気持ちだけ武器に戦い続けた。
19歳で全日本大会に出場してから、全日本大会と世界大会に9回連続出場。
高知県支部長となった。
取材にきた記者と夜明け近くまで一緒に飲み、最後の店を出たとき
「これでホテルまでタクシーで帰ってください」
と強引に千円札を掴ませ、自分は自転車で帰った。
そして数時間後、ホテルまで迎えにいき駅まで見送った。
「コーヒーでも飲もうよ」
と誘われ、
「もうカネがないんですわ」
と申し訳なさそうにいった。
愚直な大和魂の持ち主だった。
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第1回千葉県大会で、松井章圭は、1、2回戦を判定で、3、4回戦を1本で勝った。
そして続く準決勝で、城南支部の緑健児と対戦した。
緑健児は、165㎝55㎏と体は小さかったが、その足技はパワフルでダイナミックだった。
試合は、ハイレベルな足技の攻防となったが、松井章圭のハイキックに緑健児が前蹴りを合わせたとき、バランスを崩しクルっと1回転してしまった松井章圭は体勢を崩したままパンチを放った。
これが緑健児の顔面を直撃。
この一撃にキレた緑健児はケンカ腰で前に出続けた。
そして松井章圭に前蹴りをボディに入れられ苦しくて動けないところを容赦なく攻められサンドバッグ状態になり判定負け。
緑健児は小学校で「空手バカ一代」を読み、中学生になると通信販売で買った道着を着て自己流で稽古に励んだ。
「小さかったからこそ、大きい奴には絶対に負けない、けんかに強くなりたいと思っていました」
極真会に入るために上京。
ヤンチャで有名だった私立目黒高校に入学。
方言をしゃべると笑われ、ホームシックで島へ帰ろうと思ったこともあったが、ケンカでは負けなかった。
「負け犬になるために東京に出てきたんじゃない」
と城南支部の稽古には台風が来ようが雪が降ろうがまじめに通う一方、都会の甘い誘惑にも素直で、酒、タバコをやり、ストリートファイトで派手に暴れた。
警察に捕まり留置所で
「このままではいけない」
と一念発起。
黒帯を取得し、城南支部渋谷道場を任された頃には空手一筋になっていた。
第4回世界大会(1987年)をベスト16で終わると引退し奄美大島に帰った。
「このままでいいのか」
空手も人生も投げ出してしまった感じで家業を継いだ。
しかし大山倍達にヨーロッパへ行くように指示され、さらに現地で急遽、試合に出ることになり、アンディ・フグと対戦し判定負け。
これにより復帰を決意し猛練習に明け暮れた。
第5回世界大会(1991年)で優勝したときは「小さな巨人」といわれた。
ちなみに千葉県大会で松井章圭と対戦したときは165㎝55㎏。
世界大会で優勝したときは、165㎝70㎏だった。
決勝戦に進んだ松井章圭は、加藤重夫の道場の先輩で、プロのキックボクシングの試合にも出場していた五十嵐裕己に敗れた。
加藤重夫は手紙で、大山倍達に、高校3年生の松井章圭を全日本大会に出場させてほしいと頼んだ。
大山倍達は加藤重夫を呼び出した。
「高校生を出させてケガでもしたらどうするんだ」
しかし加藤茂夫は一歩も引かず、2時間の押し問答の末、ついに大山倍達が折れた。
その手紙は大山倍達の死後も机の中にしまってあった。
そんな経緯を知らない松井章圭は、全日本大会出場を喜び、スタミナ不足という弱点を克服するため、毎日、3㎏のウエイトベルトをつけて5㎞を走り始めた。
1980年11月、第12回全日本大会に、松井章圭は最年少で出場。
1回戦、右上段回し蹴りで1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、跳び後ろ回し蹴りで技ありを奪って勝った。
4回戦、前年の全日本大会6位の三好一男に2回の延長戦の末、勝利。
準々決勝戦も2回の延長戦の末、判定勝ち。
準決勝は、第2回世界大会2位の三瓶啓二の下段回し蹴りの連打の前に本戦で判定負け。
松井章圭は3位決定戦でも集中的に下段回し蹴りで攻められ負けた。
三瓶啓二は松井章圭より9歳上。
この全日本大会で初優勝(1980年)し、1981年、1982年も優勝し史上初の3連覇を達成する。
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松井章圭は、全日本大会優勝を目標に計画を立てた。
「大学に進学したら東京でアパートを借りて総本部へ移籍する」
そして中央大学商学部経営学科への入学を決めた。
こうして松井章圭は13歳から18歳まで千葉県で加藤重夫の指導を受け、18歳か東京のら総本部道場へ移り大山倍達の指導を受けることになった。
1981年の春、大学に進学した松井章圭は、西池袋に古い木造2階建てのアパートに引っ越した。
若獅子寮に住む内弟子と朝稽古と朝食を共にした後、大学に通い、授業のない日は昼間も稽古に励み、夜は三瓶啓二、中村誠、川畑幸夫、柳渡聖人、 三好 一男、 七戸康博らの指導を受けた。
1食で3人前を食う松井章圭の胃袋は、月10万円の仕送りもすぐに消化した。
お金があるときは、安いラーメン屋に通い、お金が減ってくると、そのラーメン屋でどんぶり飯だけ注文し塩コショウをかけた。
さらにお金が無くなってくると、インスタントラーメン。
たまに若獅子寮でご飯を盗み食いした。
「400㏄献血すると1万円もらえる」
といわれ採血され待っていると、
慢性的なオーバーワークのため肝機能障害という検査結果が出たため、
現金ではなく牛乳を1パックもらって帰ったこともあった。
着るものは、
総本部に武道具メーカーやスポーツメーカーが持ち込んだ試供品で間に合わせ、
冬はミズノのジャージ、夏はTシャツに道衣のズボンにサンダルでどこへでも出かけた。
また総本部に移籍後、黒帯の名前を「松井章圭」という通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)から「文章圭」という本名にした。
大学も本名で通い、まだ偏見はびこる日本社会で自らの出自を公にし、在日本韓国学生同盟に加盟し、同年代の同胞を交流を深めた。
中国に属国とされ、日本に植民地とされた歴史、
中国の漢字を拒否しハングル文字をつくった誇り高き母国の文化、そして韓国語を学び始めた。
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しかし大山倍達は、松井章圭に日本への国籍変更を求めた。
「どうして自分で自分の民族を否定するようなことをしなければならないんですか」
(松井章圭)
「そう深刻に考えることじゃないんだ。
日本に住んでいる以上、便宜上、日本の国籍を取得するだけなんだよ」
(大山倍達)
「便宜上であればなおさら日本の国籍を取得する必要はありません」
(松井章圭)
「君は将来、私の片腕となって働かなければならない。
そのときに韓国籍ではどうしても困るんだ」
(大山倍達)
「総裁は自分の国に生まれて自分の国の言葉を知っていて民族の習慣や歴史やすべてを身をもってご存知です。
総裁は中身の詰まった韓国人なんです。
ですから日本の国籍に変更するというのは、おっしゃる通り日本人の衣を着るということだけなのかもしれません。
けれども私は日本で生まれ日本の教育を受けて日本の名前で今まで生きてきたんです。
その私から国籍というものを除いたら一体何が残るんですか。
民族を証明する根拠そのものがなくなってしまいます」
(松井章圭)
松井章圭は、日本に住み日本で活躍する「在日」という生き方にこだわりと誇りを持っていた。
力道山は、プロレス界の英雄なのに朝鮮人であることを隠し続けた。
一方、張本勲は、韓国人2世であることを隠さずプロ野球で第一人者となり、日本でも韓国でも英雄になった。
松井章圭の理想は後者だった。
大山倍達は1968年に日本国籍に帰化した。
プロレスラーの力道山も北朝鮮出身だったが、すべてが日本人のようでそうだとはわからなかったが、韓国出身の大山倍達は別段それを隠そうとせず、話し方などからすぐにわかった。
「法人認可や土地登記の問題で帰化しないと面倒なことが多いから帰化してくれと頼まれたんですよ」
(大山智弥子)
「主人は国籍なんて自分の好きなように生きやすいように選べばいい。
今は日本に住んで日本の人たちにお世話になって生活の地盤もこっちにある。
だから日本を大事にするのは当たり前だ。
韓国の故郷だって自分が生まれ育った場所だからさびれれば淋しいし切れないものはあるっておしゃってました」
(大山智弥子)
大山倍達は日本人以上に日本的精神を大事にした。
その一方で故国を大切にした。
「頼まれれば嫌といえない人だったので、いつも家族以外の人がうちに寝泊まりしてましたからね。
日本の人もいましたけどやっばり韓国の人が多かったですよ。
あちらから絵やバレエを習いに来た若い人たちをうちでお世話して」
(大山智弥子)
「父はよく私たちにいってました。
『君たちは日本人なんだからね。
日本人の心を忘れてはいけないよ』って。
そのくせ怒ったときなんか急に韓国語で怒鳴りだしたりして。
父が韓国人だったということを聞いたのは私が18歳くらいのときですね、
道を歩いていたときに急に『お前、知ってるのか』って。
私は小学校からインターナショナル・スクールに通ってましたからそんなことは大したことじゃないと思ってたんで、『知ってるよ』っていったら黙り込んじゃいましたけどね」
(大山喜久子、三女)
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極真分裂.03 他流試合

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大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。
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極真分裂.04  みんな極真を愛していた

極真分裂.04 みんな極真を愛していた

2000年以降、極真の分裂は沈静化。いろんなことがあったが、結局、みんな極真空手が好きだった。
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角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。
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佐竹雅昭  生涯一空手家 永遠の空手バカ

佐竹雅昭 生涯一空手家 永遠の空手バカ

あくまで最強の男を目指し、「闘志天翔」というテーマと、「1位.夢、2位.健康、3位.お金」という人生価値観を実践し続ける男。 空手を武器に総合格闘技のリングにも立った空手バカ一代男は、90年代の格闘技ブームの立役者となった。 批判されることもあるけど、ほんとうに強いし、ほんとうにナイスガイ。 間違いなく格闘技ヒーローである。
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