極真分裂.01  後継者の資格
2020年10月25日 更新

極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。

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若獅子寮に住む内弟子の修業は1000日行といわれ、1日24時間空手漬けの生活を3年間続けて卒寮となる。
総本部周辺の清掃の後、6時から5㎞のランニング。
このとき踏切などでどうしても走れなくなると腕立て伏せを行う。
その後は坂道ダッシュを数本。
縄跳び。
腹筋、背筋、拳立て伏せ、スクワット。
当番が朝食を作っている間、他の者は道場に整列し寮歌を合唱。
朝食後は、館内の清掃。
9時30分、整列して大山倍達を待って朝礼。
その後は昼まで、受け付け、電話番など各自の仕事を行う。
昼食後は、週2回、内弟子稽古。
深夜まで続く稽古が終了するのを見届け就寝する。
毎年、全国から100名の応募があり、約10名が選ばれ入寮するが、脱走者が続出し年末には3、4名になった。
卒寮すると国内や海外の支部道場に指導員として派遣されるが、企業から採用を申し込まれることもあった。
内弟子を含め、総本部で修行をする者は、厳しい稽古に耐えているという誇りがあり、比較的アットホームな雰囲気で修行する支部を見下す風潮があった。
支部出身の黒帯(初段)が総本部に移籍した場合、1つ下の茶帯(1級)に戻るというしきたりがあったが、松井章圭はしなかった。
腕を組んで話を聞いていると殴られ、目をみて挨拶すると殴られ、組手で全力で倒しにこられるなど、一部の総本部の先輩たちからかわいがりを受けたが、総本部の習いと受け容れ、雑念を払いのけようと酒を流しこみ稽古に励み、なんとか総本部に溶けこもうと努力した。
「逃げることは許されない。
強くなって年に1度の全日本大会で堂々と決着をつけてやる」
夏の合宿では腕相撲大会が行われ、松井章圭は、理不尽なイジメを行ってくる先輩と対戦。
双方、ケンカ腰で勝負し、松井章圭は、1勝2敗で敗れたが、精神的には一歩も退かなかった。
また総本部で松井章圭は、マンガや本を通して憧れていたスター空手家に接っすることが多く、虚像と実物のギャップに愕然とさせられることもあった。
松井章圭は
「人間には表と裏がある。
人間を理解するには『清濁併せ呑む』ということが大切」
と考えるようになった。
松井章圭は、先輩から紹介され永田一彦トレーナーの指導を受けるようになった。
永田一彦は、パワーリフティングの日本記録者で、
「人間には計り知れない潜在的パワーが宿っている」
という信念を持っていた。
永田一彦のジム「ワークアウト」は山手線、五反田駅徒歩5分のところにあるビルの3階にあったが、弱音を吐くジム生を3階のベランダの手すりにぶら下げ、泣いて救いを求められても生まれて1度もできなかった懸垂ができるまで冷ややかに眺めていた。
サーキットトレーニングなど合理的なトレーニングに加え、2時間ブッ通しのスクワット、腕立て伏せ300回×3セット、腕立て伏せの姿勢で何分耐えられるかなど一見非合理的なトレーニングも行い
「鬼の永田」
と呼ばれた。
総本部に居場所がなかった松井章圭は、ジムの片隅のビニールマットで寝泊まりした。
また通常、ジムで必要なのは、ウェアとシューズとタオル、水分だけだが、松井章圭は、筆記用具と稽古&トレーニング日記も持っていた。
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また松井章圭は、週1回、埼玉県の川口駅近くのビルの地下にあった盧山初雄の道場へも出稽古に通った。
この頃の極真の道場、特に支部道場では、科学的なトレーニングと合理的な稽古法が行われることが一般的だった。
しかし盧山道場の稽古は独特だった。
まず中国拳法の修行法である立禅、這い。
立禅は、高い椅子に腰掛けるように中腰になり、踵を少し浮かし足親指の付け根に重心をかける。
両手で大きなボールをかかえるように円をつくる。
顎は軽く引いて、目は軽く開きやや上の方を観て、意識を遠くに放つ。
頭は、天から吊り下げられている感覚、脚は、地面の中に埋まって根を張っている感覚で、この姿勢を20~30分続ける。
人間の内的な力(潜在能力)を強化し、瞬間的な爆発力(気の力、火事場のバカ力)を養成するのが目的である。
這いは、立禅の姿勢のまま、ゆっくり歩を進める鍛錬法
両腕は上げたまま、腰を落としたまま、ゆっくり前後に歩を進めることは非常にキツい。
しかし下半身の鍛錬はもちろん、骨盤を中心にした重心移動を体感することができ、実戦の速い動きの中に生かすことができる。
そして極真空手の基本、移動、型、組手を行った後に、砂袋(砂が入った麻袋)に、拳、手刀、肘、膝、脛、背足(足の甲)、中足(足の親指の付け根)を、それぞれ1000回打ちつける部位鍛錬を行った。
稽古の後、盧山初雄に連れられていった埼玉県の南浦和駅前の焼肉店「トラジ」で、松井章圭は、後に結婚する韓幸吟と出会った。
高校を卒業し池袋の銀行に勤め始めた韓幸吟が、偶然、池袋駅前で松井章圭と再会したことから付き合い始まった。
幸吟の母親、任福順は、松井章圭の父親と同じ済州島出身で、
兄の韓明憲、妹の幸吟が小学生のときに父親は亡くなり、その後はパチンコ店の清掃などをしながら貯めたお金でトラジを開いた。
松井章圭は、たびたびこの焼肉店に通い、任福順が用事ができれば留守番をしたり、注文を取ったりして店を手伝った。
朝鮮高級学校時代にサッカー選手だった2歳上の韓明憲と代々木国立競技場で行われたサッカー・ワールドカップスペイン大会アジア予選、日本代表 vs 北朝鮮代表戦を観戦。
韓国籍、北朝鮮籍の在日コリアン合同サポーターの一員となって銅鑼やチャンゴと共に北朝鮮代表の応援。
大雨の中の試合で、北朝鮮ゴール前の水たまりで止まったボールを日本代表が蹴り込んだゴールが決勝点となった。
試合終了後、松井章圭は涙を流した。

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1981年11月、第13回全日本大会が東京体育館で開催された。
昨年、準決勝で三瓶啓二に敗れ4位だった松井章圭の目標は「打倒!三瓶」
そして準決勝で三瓶啓二と対戦し、突きと下段回し蹴りで攻められ本戦で判定負け。
3位決定戦は判定勝ちし3位となった。
優勝は、三瓶啓二。
昨年に続く2連覇達成だった。
この後、松井章圭は、週1回、城西支部の道場へ出稽古を開始した。
城西支部長の山田雅稔は、4名の(体重無差別の)全日本チャンピオンと5人の全日本ウエイト制チャンピオンを育てていた。
松井章圭は、城西支部で新鮮な練習を体験した。
本気で打ち合わないライトスパーリングは力まないため、正確なフォームで技を当てることやコンビネーションの習得に効果的だった。
練習や組手をビデオ撮影して後でチェックすることも自分を見直すのに効果的だった。
またこれまでウエイトトレーニングは、低~中負荷×高回数(軽い負荷でたくさん行う)方法だったが、高重量×低回数(重い負荷を少なく行う)も体験した。
公認会計士でもある山田雅稔は道場経営も練習も合理的だった。
新しい道場をつくって実力のある弟子に指導させる「分支部」制度を極真で初めて行い、分支部長は2週間に1度、山田雅稔の特別稽古を受けてミーティングを行ったり、定期的に支部内交流戦も行われた。
城西支部の道場の稽古は厳しいが雰囲気は楽しく明るかった。
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1982年11月13~14日、第14回全日本大会が行われた。
松井章圭は準々決勝で「爆撃機」と呼ばれた増田章と対戦。
増田章は、肩幅が広く、背中は筋肉が発達し過ぎて猫背にみえ、道着の間からは岩のような大胸筋がみえ、マグロのような前腕についた拳は異様にデカかった。
下半身は、大きな臀筋で道着の裾が跳ね上がり、大腿部、ふくらはぎは野生動物のように発達していた。
ベンチプレスで185kg、、スクワットでは200kgを20回挙げた。
夏合宿で茨城県の海へ行ったとき、タンクトップ姿の増田章をみた地元の子供が
「ママ~、白熊がいるよ~」
といって大騒ぎした。
そして試合場では爆発的なラッシュで数多の強豪をマットに沈めた。
増田章のパワフルな突きと下段回し蹴りに体ごと持っていかれそうになりながら松井章圭は技を合わせていった。
途中、「やめ」がかかり、開始戦に戻り「はじめ」とかかると、いきなり右上段後ろ回し蹴り。
前に出る増田章の右顔面を松井章圭の右足踵が直撃。。
しかし増田章は倒れず、その後も猛攻を続けた。
結局、3度の延長戦の後、試し割り判定で松井章圭が勝った。
増田章で燃え尽きてしまった松井章圭は、た準決勝を本戦と2度の延長戦を引き分け、試割り判定で敗れた。
控室へ戻る途中、加藤重夫に怒鳴られた。
「自分から攻撃しなければ体重判定で負けることくらいわかっていながら前に出なかっただろう」
(大切なのは肉体的な強弱だけではない。
追いつめられて弱気になったり萎えてしまったときに、もう一息、頑張れるかどうかだ)
気持ちを切り替えた松井章圭は、3位決定戦を判定勝ちした。
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第14回全日本大会後、総本部に君臨していた2大王者、三瓶啓二と中村誠が、それぞれ福島県と兵庫県の支部長となり去った。
三瓶啓二は20歳(1974年)で初出場し、1980年、1981年、1982年優勝の全日本大会3連覇。
世界大会には2度出場し2度2位になった。
1位は少し後輩の中村誠だった。
長年、全日本大会と世界大会の決勝は、ずっと三瓶啓二 vs 中村誠で「三誠時代」と呼ばれた
そして松井章圭が総本部の指導員となった。
下の者にも挨拶されても必ず
「押忍」
と返し、「殴られて、蹴られて体で覚えろ」方式だった指導も
「では正拳の握り方を解説します。
拳をつくって人差し指と中指のつけ根から第一関節にわたる部分が正拳です。
正しい握り方は、
手を大きく開いた状態から
小指から人差し指まで4本のそれぞれの指先が、それぞれの指のつけ根にピッタリつくように巻き込みます」
などと親切に解説し指導した。
また選手として自分のトレーニングと稽古も怠らなかった。
1983年11月12~13日に行われた第15回全日本は、翌年1月の第3回世界大会の日本代表選考会も兼ねていた。
日本代表は、全日本大会8位以上+大山倍達が推薦する3名。
松井章圭は大山倍達に直訴し、トーナメント3回戦から出場するシード権を放棄し、1回戦から出場。
そして1回戦、2回戦を圧勝。
3回戦も合わせ技で相手をひっくり返した。
(勝ったな)
油断した瞬間、相手の中段後ろ蹴りが脇腹にめり込み、判定で勝ったものの右の肋骨2本を折られた。
勝たなければベスト8に入れず、世界大会には出られない4回戦。
相手は、185㎝100㎏、その攻撃の破壊力は怪物と恐れられ、ウエイト制大会重量級、4回出場4回優勝の七戸康博。
体重判定がある無差別級の大会では、なぜか勝てなかったが、七戸康博は負けた後、言い訳を1度もしなかった。
ストイックな七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​は、酒、タバコはもちろん夜遊びもせず、1日は稽古、練習、トレーニング、休養に費やした。
総本部指導員時代、
「歯をみせるな」
「手を抜くな」
と厳しくやりすぎ、ついていけない道場生が続出。
先輩に
「みんな緊張している
飲み会を開いて打ち解けよう」
と提案され、
「自分も代表入りしたばかりの頃は、先輩たちに緊張していた。
早速、飲み会を開こう」
となった。
道場生たちが呼ばれて行ってみるとテーブルの上には多量のミネラルウォーターとプロテインが並べてあった。
「おう、まあ座れや♪」
と七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​は上機嫌だった。
その七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​の巨体が松井章圭を圧した。
(気持ちだ)
松井章圭は踏みとどまって下段回し蹴りを連打。
下段回し蹴りをもらい続け後退した七戸康博にとどめの右下段回し蹴りで「技あり」をとった。
直後に本戦が終了し、松井章圭は勝った。
しかし5回戦は棄権した。
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1984年1月20~22日、第3回世界大会が、92ヵ国、207名の選手が集い開催された。
大会前、松井章圭は、大山倍達に
「大韓民国代表として出場させてください」
と懇願した。
(プロ野球の張本勲のように自分の民族を明らかにした上でチャンピオンになれたら、在日の人や日本人にとって本当の意味で有益な人間になれる)
しかし大山倍達は
「いずれわかるときがくる」
といって許さなかった。
松井章圭は世界大会の出場申込書に
本名「文章圭」
本籍「大韓民国」
と記し提出した。
しかし大会パンフレットとには
「松井章圭」
「東京」
と印刷された。
(自分が日本代表として責務を果たさなければ申し訳ない。)
20歳の松井章圭は、複雑な思いを誰にも打ち明けず世界大会に出場した。
大会初日、1回戦を左中段突きで1本勝ち。
大会2日目、2回戦を判定勝ち。
3回戦、反則勝ち。
4回戦、左下段回し蹴りで1本勝ち。
大会3日目(最終日)、ベスト16に残った日本人は、中村誠、三瓶啓二、田原敬三、大西靖人、増田章、そして松井章圭の6名だった。
松井章圭は、5回戦でアンディ・フグと対戦し下段回し蹴りを連発し圧勝した。
19歳のアンディ・フグは、2年連続スイスチャンピオンの肩書をひっさげ初来日。
回し蹴り、後ろ回し蹴り、後ろ蹴り、前蹴りが、左右どちらの脚からも、しかも上段中段下段に繰り出せる蹴り技で勝ち進み、松井章圭の下段回し蹴りで足を刈られ倒れそうになったところを松井章圭の道着をつかんでしまい「掴み」の反則をとられ判定負けした。
この夜、メトロポリタンホテルのアンディ・フグの部屋のトイレのドアがブチ抜かれた。
4年後、別人のように生まれ変わって世界大会に戻ってきた。
準々決勝の松井章圭の相手は、大西靖人。
松井章圭が肋骨を折って棄権した前回の全日本大会の優勝者だった。
183㎝、89㎏。
ベンチプレス186㎏、スクワット290㎏。
その豪放磊落な性格そのままの組手は「魔王」」といわれた。
5回戦で肋骨を5本折られた魔王は笑いながら試合場に上がった。
松井章圭の大腿骨を潰すような下段回し蹴りから膝蹴りを連打。
さらに間合いが詰まるとボディへのフックを打ち込んだ。
蹴りを返され倒された松井章圭は立ち上がり、大西靖人をにらんだ。
大西靖人の右下段回し蹴りからの左ボディフックで松井章圭の体はくの字に曲がり宙に浮いた。
本戦は、大西靖人の猛攻を松井章圭が必死に耐えて引き分け。
延長戦に入ると大西靖人は失速。
松井章圭もダメージが大きく攻められない。
再延長戦になると大西靖人の動きはさらに衰え、松井章圭の技も力がなかった。
「オッシャー」
3度目の延長戦に入り、大西靖人は気合を入れ攻撃を開始。
しかしそれも10秒だけだった。
それ以降は松井章圭の攻撃を受け続け、判定で負けた。
松井章圭の準決勝の相手は、これまで2戦2敗の三瓶啓二。
松井章圭は試合巧者のヘビー級と真正面から打ち合った。
本戦、延長戦は引き分け。
「オラァ」
再延長戦で松井章圭は気合を入れたが、判定で負けた。
結局、松井章圭は三瓶啓二に3戦3敗。
試合で勝つことはできなかった。
その後、3位決定戦でアデミール・ダ・コスタに判定勝ちし3位になった。
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1984年11月3~4日、松井章圭がケガで欠場した出場できなかった第16回全日本大会で、黒澤浩樹が初出場初優勝を果たした。
無表情のまま一撃必殺の下段回し蹴りで次々と相手を倒していく黒澤浩樹は「格闘マシン」と呼ばれた。
また三瓶啓二は4回戦まで勝ち上がったが負傷により棄権。
(これが最後の大会出場となった)
松井章圭は、黒澤浩樹を最強の敵と認め、来年の全日本大会で勝つべく、その対策を始めた。



松井章圭と黒澤浩樹は、同年齢で、同体格(174cm)。
しかし黒澤浩樹は、ベンチプレス189㎏、スクワット280㎏を挙げるのに対し、松井章圭は、ベンチプレス130㎏、スクワット175㎏。
ウエイトトレーニングに力を入れパワーアップに励んだ。



技術的には、黒澤浩樹の攻撃のリズムが単調であることに注目。
「あの下段回し蹴りは脅威だがまともにもらわなければいい」
と黒澤浩樹が蹴りを出すタイミングや角度を研究。
それに技を合わせていく合わせ技を練習した。



大西靖人、増田章、黒澤浩樹は、みんな山田雅稔の指導を受ける城西支部の所属だった。

彼らは映像や防具、ライトスパーリング、科学的なウエイトトレーニングなど合理的に練習やトレーニングを行うことで強くなった。
「楽しむ」「プラス思考」なメンタるトレーニングを実践し、道場の雰囲気は明るかった。
松井章圭はそこに精神的な穴を見出していた。
「彼らの弱点は自己肯定的な性格、自己評価の高さにある。
彼らは自信家であるが故に、相手を尊重せず、自分本位の試合展開のみに終始してしまう」
そういう松井章圭は相手と相手の技を最大限に尊重して技をかけることを心掛けたてい。
単純明快な西洋的なやり方や考え方だけではなく、深遠な東洋の神秘的思考の持ち主だった。

こうして松井章圭は、テーマを決めてトレーニングと稽古を消化していった。
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1985年11月3日、第17回全日本大会が開催された。
前年度チャンピオンの黒澤浩樹は、さらにパワーアップしていた。
1回戦、1分17秒で1本勝ち。
2回戦、1分19秒で1本勝ち。
3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦、2分25秒で1本勝ち。
準々決勝、1分16秒で1本勝ち。
準決勝、1分11秒で1本勝ち。
決勝まで、6戦中1本勝ちが5つ、すべての試合を延長戦なしの本戦で決めた。
対する松井章圭は、1回戦を本戦で判定勝ち、2回戦、本戦で判定勝ち、3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦で自分より小柄な堺貞夫と対戦。
楽勝かと思われたが大苦戦。
「なぜ攻めている松井の勝ちじゃないんだ?」
と大山倍達が審判を入れ替えるハプニングもあり、2度目の延長戦で判定勝ち。
もし体重判定にもつれていれば負けていた。
準決勝で増田章と対戦。
増田章は突きの連打と左右の蹴りで直線的に攻め込んだ。
本戦、延長戦、2度目の延長戦と引き分けたが3度目の延長戦後の判定で松井章圭が勝った。
「負けなかった」
そうつぶやきながら松井章圭は、大きくうなずいた。
増田章は相手をねじ伏せて勝つ空手。
松井章圭は、それに対して受けて返す、負けない空手で、一瞬でも隙があれば上段への鋭い蹴りを放った。

Kyokushin - Matsui Akiyoshi vs Kurosawa Hiroki

決勝戦は、松井章圭 vs 黒澤浩樹となった。
松井章圭は
(下段では絶対に倒れない)
そう自分にいい聞かせ小走りで試合開始線に向かった。
黒澤浩樹の左右の下段回し蹴りは、強いだけでなく正確に松井章圭の脚の急所を蹴った。
松井章圭は必死に返すが黒澤浩樹の突進力とプレッシャーに崩され、試合中、2度も黒澤浩樹の顔面に左の突きを入れてしまう。
黒澤浩樹は口から血を流しながら連続攻撃。
松井章圭は必死にそれをよけ、受け、返すが、たびたびもらって膝を内側に曲げられてしまう。
その下段回し蹴りの威力に松井章圭は何度も腰を落としたが、すぐに体勢を立て直し反撃。
合わせ技で黒澤浩樹のバランスを崩してから上段、中段へ蹴りを放った。
本戦は引き分けとなり、延長戦に入った。
延長戦も、黒澤浩樹は前進して下段回し蹴り、松井章圭は合わせ技から大きな蹴りいう展開だったが、やがて両者共に失速。
「ラスト20秒!」
セコンドの声で、まるでなにかにとりつかれたように松井章圭は体をよじらせながら左右の突きから左右の下段回し蹴りを連続で放った。
そして延長戦が終わり、1人の主審と4人の副審による判定が行われた。
そのとき
「赤ぁー」
という声が上がった。
声の主は婚約者の韓幸吟だった。
しかしこの試合は、松井章圭は、2回、反則を犯した上、受けたダメージも明らかに上だった。
黒澤浩樹はほぼノーダメージのまま負けた。
「黒澤は、ケンカに勝って試合に負けた」
といわれその強さは疑う者はいなかった。
しかし一方、その格闘マシンに強い精神力で立ち向かい勝った松井章圭も
「Mr.極真」
と称賛された。

100-man kumite. Shokei Matsui

全日本チャンピオンになった松井章圭の次の目標は、

・全日本大会2連覇
・世界大会優勝

だった。
また大学卒業後は、総本部の指導員として正式に極真会館に就職することを決めた。
1986年2月、松井章圭は大山倍達に呼ばれ、いきなりいわれた。
「君、ところでいつやるんだね」
「なにをでしょうか」
「君、なにいってるのかね。
100人組手だよ」
「押忍、わかりました」
即座に答えたが1つだけ要求を出した。
「3ヵ月だけ時間をください」
松井章圭が相手として参加した中村誠、三瓶啓二、三好和男の100人組手は真夏に行われた。
松井章圭は、猛暑も失敗の理由と考え、夏を避けた。
1986年5月18日、松井章圭の100人組手は、極真のドキュメンタリー映画の一部として使われるため、東映大泉撮影所のスタジオ内に総本部道場そっくりのセットが組まれ行われた。
巨大なスタジオの中にできた道場を、数百個のライト、5台のカメラ、200名近いスタッフが囲んだ。
外部の音を遮断するためにスタジオは閉じられ空調も
「音がする」
と切られた。
スタジオ内はサウナ状態となり松井章圭の目論見は崩れた。
松井章圭の100名の相手と共に、最前列右端に正座。
極真会館の昇段審査は、初段が1人2分ずつ10名と戦い、その半数以上に1本勝ちを収めなければならない。
2段なら20人、3段なら30人。
100人組手は、それを100人行う。
過去に100人組手を完遂したのは2人(ハワード・コリンズ、三浦美幸)だけ。
「ドン!」
開始の太鼓が打たれ
「はじめ!」
審判の声が響き渡った。
1人目は、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
2人目は、上段回し蹴り、1本勝ち。
3人目、突きと下段回し蹴りで技あり2つをとって合わせて1本勝ち。
4人目、後ろ回し蹴り、1本勝ち。
5人目、足払いと中段回し蹴りで技あり2つ、1本勝ち。
次々かかってくる相手を松井章圭は華麗に退けていった。
15人目、下段回し蹴りを合わされ膝をついた松井章圭は
「よし来い、コラ」
と気合を入れ、左右の突きの連打から上段回し蹴りで倒した。
16人目、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
17人目、上段回し蹴り、1本勝ち。
スタジオ内は40度を超え、松井章圭は肩が上下させて息をし、バケツの水をかぶったように汗をかいた。
21人目、初めて判例負け。
(まだ1/5なのに・・・)
30人目が判定勝ちで終わると、いったん中断され冷房が入れられ、松井章圭は道衣を着換えた。
34人目、2度目の判定負け。
(まだ1/3なのに・・・)
46人目、金的に蹴りをもらい中断された後、右下段回し蹴りで技ありを奪った。
50人を超えると、相手の技が皮膚に触れるだけで全身が痛み、体はフラフラ、思考も途切れ途切れになった。
(もうダメかもしれない)
松井章圭は視線を落とした。
その瞬間、盧山初雄の怒声が響いた。
「松井、途中で止められると思うなよ」
59人目、判定勝ちし開始線に戻った松井章圭は嗚咽を上げた。
75人目、左上段回し蹴りを出した松井章圭は腰から崩れ落ちた。
80人目、夢遊病者のようにフラつきはじめる。
85人目、上段後ろ回し蹴りを出すも崩れ落ちる。
90人目、腕は上げられず足も動かず、意識は朦朧としていた。
92人目、中段回し蹴りをもらった松井章圭がキレた。
「よしこい」
突きの連打で突進し頭突きをかました。
もはや組手ではなかった。
相手を門下生たちが座っている中に突き倒し、倒れた相手にさらに攻撃を加えようとする松井章圭の襟首を主審がつかんで試合場の中央に投げ飛ばした。
松井章圭のうつろな目に狂気が宿っていた。
95人目、右上段回し蹴りで1本勝ち。
これが最後の1本勝ちとなった。
96人目から100人目まで、松井章圭は格下の門下生に、ただ殴られ蹴られ、顔を歪めた。
(やっと終わった)
総時間、4時間、組手時間、2時間24分、75勝12敗13分、3人目の100人組手完遂だった。
松井章圭は救急車で病院に運ばれる途中、担架で嘔吐し、そのまま入院した。
拳、肘、つま先、足甲、脛、膝は、ドス黒くパンパンに腫れていた。
(やっぱり空手は肘から下、膝から下を徹底的に鍛えることが基本だな)
そう悟った空手バカだった。
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