阿久悠の長男・深田太郎によるエッセイ『「歌だけが残る」と、あなたは言った ――わが父、阿久悠』が刊行!!
テレビや雑誌には決して見せることのない阿久悠さんの日常のワンシーンや家族との関係などが、深田さんの柔らかな言葉で語られています。
書籍では盟友である久世光彦さん、上村一夫さんとの仕事の様子も、少年時代の深田さんの目線を通して描かれています。
さらに200ページに集約された阿久悠さんとご家族との生活はファンなら必見。深田家を彩っていた母親や祖父母をはじめ、犬猫や鳥、植物までが登場し、賑やかで温かな日々が綴られています。
多忙を極める父親の帰りを楽しみに待つ少年が、家でも「作詞家の顔」を崩さない父親を観察し、一風変わった関係を築いていきます。
深田さんがバンドマンとして、作曲家としてどのように音楽と関わってきたか。父・阿久悠(多夢星人名義)との父子共作でのメジャーデビューなど、知られざるエピソードが満載です!!
深田太郎へインタビュー!!
柔和な笑顔が印象的な深田さんに色々と質問をしてみました!!
書籍にて伊豆・宇佐美での阿久悠さんの仕事部屋である「書斎」について語られる部分があります。書斎は明治大学「阿久悠記念館」で忠実に再現されていますね。
実は私もこちらへお伺いしたのですが、同書でも触れられているダンベルの配置などとてもリアリティのある展示でした。
宇佐美の書斎を知る深田さんから見て、第一印象はいかがでしたか?
書斎の再現に関して、業者さんに「書物の順列、小物の配置など、宇佐美の時と1ミリも違わず再現してほしい」と無茶を云わせてもらったのですが、そんな遺族の気持に応えてくれた素晴らしい再現度だと感じました。机と本棚の間に布団を敷いて寝転がって仕事をする阿久悠が見えてくるようです。
阿久悠さんは「多夢星人」というペンネームでの活動もされていました。 フォークやニューミュージック系の作曲家と組む時は、阿久悠の名前が出ないほうが気楽でいいと配慮されていたそうですね。
深田さんも1994年の「BB(べべ)ちゃん雲にのる」(本田美奈子.さんのアルバム「JUNCTION」に収録)などで、作曲家としてお父様と組まれていますが、どういった心持ちで制作に臨まれていたのでしょうか?
1992年に私が在籍していたロックバンド(ジェンダ・ベンダ)に、父が詞を提供してくれた時も、私に気を使ってやはり「多夢星人」のペンネームを使ってくれました。
1994年の本田美奈子.さんの時は、バンドが解散して私も作曲家として活動していこうと決意した矢先でしたので、作詞家の大先輩「阿久悠」に力を借りるつもりで無我夢中で曲を作リました。
父の詞はよく言われる通り非常に映像的ですぐに情景が浮かびます。そしてじっくり丁寧に向き合えば、ことばが自然とメロディーを導いてくれる感じがしました。
書籍で「二十四時間阿久悠だった」と常に作詞家であったと表現されています。
阿久悠さんにとって趣味でもあったと思われる”絵を描く”行為は、表現者としてはどのような位置づけだったと思われますか?
一種の「浄化作用」があったのではないでしょうか。何にも縛られていない自由な父が、絵の中にいるようです。
小児喘息の症状に長らく悩まされていた深田さん。書籍では後に”原因”は判明しますが、当時は思春期ということもあり、なかなか治らない持病に不安感は強かったのではないでしょうか?
小児喘息は暗い思い出です(笑)。高校で寮生活を始めて、ようやく症状が収まるまでは、月に一度は東京の病院で大きな注射を打ったり、体力をつけるために地元の道場で空手を習ったりと体質改善の努力をしておりました。
そんな私の小児喘息が長引いた”原因”がわかった時は、怒りを通り越して笑ってしまいました。でも誰にも罪はないのです。今ではこれも思い出の一つです。
作詞家、放送作家、小説家など多彩な才能をお持ちだった阿久悠さん。
子供の頃の深田さんは、忙しくなるにつれてなかなか会えない父・阿久悠さんを書籍で「とびきりスペシャルなお客様」と表現されています。
そんな阿久悠さんとの大事なコミュニケーションツールとして”映画鑑賞”が度々語られています。今回登場していない作品で、他にも思い出深いものはありますか?
ある年のお正月の深夜、テレビでキューブリックの「2001年宇宙の旅」を2人で観ていたのですが、あまりの難解さに2人でただ呆然と画面を眺めていた事を覚えています。
他に「薔薇の名前」「汚れた血」「バーディ」「マリリンとアインシュタイン」「アリゾナ・ドリーム」「バッファロー’66」など、自分がお勧めした映画を父に「面白い」と言ってもらえると、まるで自分自身が褒められたかのような気持ちになりました。
出版社: 河出書房新社