田中将大  グローブに縫った言葉は「気持ち」イチローのThink Baseballと江夏豊ばりの剛直さを併せ持つ最強のエース
2020年6月20日 更新

田中将大 グローブに縫った言葉は「気持ち」イチローのThink Baseballと江夏豊ばりの剛直さを併せ持つ最強のエース

『もし誰にも負けないというものがあるとしたらなんですか?』と聞かれると「気持ちです」と答え、グローブには「気持ち」と刺繍を入れている。とにかく気持ち、とにかく自信!!「マウンドに上がれば自分を疑うことはありません」「自分が自分を信じてあげないと相手と戦えないし、チームから信頼を得ることもできない」

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2007年、プロになった田中将大は春季キャンプに参加。
フリー打撃、紅白戦、オープン戦での登板がすべて雨で中止か延期となり「雨男」といわれた。
プロは最初から試行錯誤だった。
キャンプ初の紅白戦で4本のホームランを打たれた。
打たれた球はすべてストレート。
「プロは甘くない」
洗礼を浴びた。
2007年3月24日、開幕戦の西武戦に岩隈久志が2年ぶりの開幕投手を務めたが敗戦。
25日の第2戦は勝利するが、その後4連敗。
4月18日、田中将大はソフトバンクホークス戦でプロ初登板初先発。
1回2/3を投げ、打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。
チームも4月17日~19日、ソフトバンクに3連勝。
田中将大はプロ4試合目のソフトバンクホークス戦で、9回2失点13奪三振で初勝利初完投。
6月13日、交流戦で田中将大が中日ドラゴンズ戦で初完封勝利。
7月10日、96回2/3でのシーズン100奪三振(江夏豊と並ぶ最速記録)
7月、オールスターに楽天イーグルスから田中将大、松本輝、福盛和男、嶋基宏、高須洋介、山﨑武司など8選手がファン投票で選出された。
野村克也監督は
「オールスターじゃなく、オールスターダストや」
全パリーグ監督のトレイ・ヒルマンは
「ファンのマナー違反だ」
といった。
7月22日、田中将大はオールスター第2戦に先発し自己最速の153km/hを記録しながら2回6失点
8月31日、チームは15勝、田中将大は2桁勝利(高校卒新人として松坂大輔以来)達成。
9月、チームは初の2カ月連続勝ち越し。
9月29日、チームは初めて最下位脱出を決めた。
67勝75敗2分。
勝率.472。
3位のソフトバンクに7.5ゲーム差の4位。
総得点575(リーグ2位タイ)
総失点676(リーグ6位)
打撃陣がチームを牽引したシーズンだった。

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山﨑武司は、43本塁打108打点で二冠王。
野村克也監督は、頑張っている選手を何とかしてやりたいという人で、伸び悩む選手を鍛え、戦力に化けさせた。
「2度と野球なんてやるものか」
野球を大嫌いになっていた山崎武司に
「野球を好きになりなさい」
「お前が小学校で野球を始めたときに大好きだったやろ。
日が暮れるまで野球やって楽しかっただろ」
その気持ちでまた臨みなさい」
とアドバイスした。
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田中将大は新人王を獲得。
186回1/3(リーグ4位)11勝196奪三振(リーグ2位)。
グローブに「気持ち」と刺繍。
勝負どころやピンチの場面では1段ギアを上げて投げ、雄たけびを上げた。
「スイッチを入れて、ギアでいえば1番高いところに入っていって、フルスロットルでいくって感じです。
スイッチは自然に入るときもあるし自分で意識して入れることもあります」
近年、スポーツやトレーニングを科学的、合理的に考察し、プレーもクールにクレバーに行う選手が多い。
しかし田中将大は気合いを前面に押し出して勝負した。
力と力の勝負を挑む好戦的な姿勢は、王貞治にはすべて直球で勝負した江夏豊とダブる。
とにかく田中将大のプレーはインパクトがあり、何よりみていて気持ちがよく、モチベーションが上げてくれた。
そのポジティブなイメージは同性からも好感度が高く、当然、異性からも「マー君」と呼ばれモテた。
モテる姿をみて嫌いになる同性もいたが・・・・
「スイッチを入れて、ギアでいえば1番高いところに入っていって、フルスロットルでいくって感じです。
スイッチは自然に入るときもあるし自分で意識して入れることもあります」
「大切なのは、ただ熱くなるだけじゃなくて熱くなっている自分をみているもう1人の自分がいること。
闘争心と冷静さのバランスが重要だと思っています」
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楽天では野村克也監督が日々、口にするボヤキがも注目された。
「補強も大事だが教育も大事。
選手をどう教育するか。
選手の考え方が変われば取り組みが変わる」
「東北の人というのはお人好しの人が多いからね。
だからまあ長い目でみてやってください」
「愚痴は不満。
ボヤキは理想と現実の差を表現するもの」
「誰か白い紙と筆ペン買うてきてくれ。
何を書く?
辞表」
「王は私のささやき戦術をちゃんと聞いて会話もしてくれたが、長嶋は何をささやいても見当違いの反応が返ってきてさっぱり心が読めなかった」
「人には理想や欲望がある。
しかし現実はうまくいかず歯がゆい思いばかり。
ボヤキは高いところに上ろうとする意欲の変形だ」
「ボヤキは永遠なり」
ボヤキが聞きたくてプロ野球ニュースをみるファンも多かったが、それはファンへの不器用な愛情表現であり、メディア戦略であり、なにより選手へのメッセージだった。
そんな野村克也監督は田中将大を
「マー君、神の子、不思議な子」
「神様、仏様、田中様」
「だってウチのエースだもん」
といった。

真っすぐ

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2008年、野村克也監督が掲げたスローガンは「Smart & Spirit 2008 考えて野球せぃ!」
2月、沖縄県久米島でキャンプで田中将大は大声を出しながら先頭を走った。
そして練習に没頭し自分を追い込んでいった
「どうしても1年目だからとか高校出たてだからとかそういうふうにしかみてもらえなかった。
それが自分の中では悔しくて・・・」
「僕たちは挑戦者。
相手に向かっていく」
プロ2年目、19歳の田中将大の目標は、前年をすべてにおいて上回ることだった。
誰もが認める超一流のピッチャーになるために、カギとなるのはストレートだった。
その理由は前年の最も悔しかった試合にあった。
200年9月26日、負ければチームの4位以下が決定する北海道日本ハムファイターズ戦は、ダルビッシュ有と田中将大の投手戦となった。
田中将大は、8回裏までヒット2本、無得点に抑えた。
そして9回裏、1点リード、1アウト、ランナー1塁で、バッターは首位打者の稲葉篤紀。
田中将大は、ストレートに自信がなかったため、スライダー、カットボール、チェンジアップと変化球を重ねた。
そして6球目のスライダーを完璧に合わされライトの頭上を越えるツーベースヒットを打たれ同点にされた。
なお1アウト2塁。
(ストレートは来ない)
バッターは変化球を待った。
フォークボールをヒット。
ランナーは3塁を駆け抜け、ライトからの返球を受けたキャッチャーを避けるように回り込んでホームへスライディング。
プロに入って初めてのサヨナラ負けだった。
大事な試合の勝負所でストレートが投げられなかったこと、何より勝負から逃げてしまったことが悔しかった。
「いい変化球を持っていても真っすぐ(ストレート)がもっとよければ、真っすぐでも勝負できるし(バッターは)その真っすぐを意識するから変化球にも手が出るし・・・
そういった点で僕のストレートはまだまだだと思う・・・
目指すのは、来るとわかっていても弾き返すことができないキレのあるストレート」

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すでに150㎞/hを超えていた田中将大のストレートには何が足りないのか?
埼玉西武ライオンズのエース:涌井秀章は2007年の最多勝投手だった。
そのストレートは140㎞/h前後だが、バッターは「速い」を感じる。
スピードガンで測る速度とバッタの感じる速さはまったく別物だった。
涌井秀章は力みのない流れるようなフォームから左足を踏み出し、体重をスムーズに前に移動させる。
ここで強靱な下半身が体重をしっかり受け止め、体が前に流れない。
そして腰を回転させ、ボールを投げるとき腰が打者に正対している。
下半身で蓄えられた力が、上半身、そして肩-腕-手-指と伝達され、ボールが真っすぐ打者に向かって放たれる。
バッターの手前で伸びるようなキレのあるストレートは、多少甘いコースに入って打ち返されることはない。
これに比べ田中将大の投球フォームは、ボールを放す瞬間、腰が打者に向かって正対せず、横に開いていた。
この違いがストレートの質に決定的な差を生んでいた。
「すべては1つ1つの積み重ね。
チャレンジャーらしく攻めます」
ストレートに磨きをかけるため、まず取り組んだのが「下半身づくり」
前年の秋、シーズン終了後から走り込みを始め、このキャンプでも下半身強化を意識したメニューを行った。
2008年2月11日、紅白戦に初登板し2回無失点。
2月17日、2度目の紅白戦も2回無失点に抑えたが、1回表の先頭バッターを三振をとりにいって球が浮いてヒットを打たれた。
夜、チームメイトが外出する中、田中将大は1人部屋に閉じこもった。
なぜ打たれたのか。
足の運び、腰の回転、ボールの握り、理想のストレートを投げるために何が足りないのか。
考え出すと止まらなかった。
「寮の部屋もやっぱり自分1人なんでふと考えてしまうんです。
野球のことを深く・・
どうしたらいいんだとかこうすればいいんだなとか、いろいろ考えますね。
自分1人の時間っていうのは1番考えられるんじゃないかなって思いますね」
田中将大は、あまり他人に相談したり助けを求めたりしなかった。
勝てなかったり結果が出ないときは、悩み、弱くてネガティブな気持ちになり
「どうしよう?」
となるが周りにはいわなかった。
「自分のことなんで・・・
ほんとに細かいところは人にいっても伝わらないと思う。
やっぱり自分で考えて自分で解決するしかないなって思うんです」
また明日もひたむきに投げ、考える。
それだけだった。
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3月、キャンプに入って1ヵ月。
その瞬間は突然きた。
全体練習の後、キャッチボールをしていた田中将大は、しきりに手首の動きを確認していた。
なにかこれまでと違う手応えを感じていた。
「なんか真っすぐがつかめそうな感じがあるんです。
だから野球って面白い!!」
翌日、ストレートが走り始めた。
田中将大は笑みをこぼした。
「いいっスね、今の」
キャッチャー:松比良平太のミットは何度も快音を響かせた。
「あの真っすぐはほんと完璧ですね。
多少甘いところに来ても抑えられる威力を感じました。
自分でも納得していたと思うんですよね。
普段はなかなか納得しないですけど」
(松比良平太)
オープン戦では、確かめるようにストレートを投げ、長打を浴びて点は失ったが自信は奪われなかった。
「球自体の勢いが変わってきているんじゃないかと思います」
3月7日、阪神タイガース戦で北京オリンピック予選で日本代表の4番を打った新井貴浩と対戦。
第1打席は、ストレートで追い込んで最後は変化球を投げて見逃し三振。
第2打席、初球、変化球でストライクをとった後の2球目の145㎞/hのストレートをレフトスタンドに運ばれた。
この日の登板は5回までの予定だったが、田中将大は続投を志願。
6回に3度目の対決。
2ストライクまで追い込んだがセンター前に運ばれた。
結局、この試合は6回2失点。
「勝負って逃げてちゃ負けじゃないですか。
やっぱり打たれたら次は抑えないと。
しっかりともう1回勝負しないといけないかなと思ったんです。
6回までいっても、また新井さんに打たれて点を入れられるかもしれないから、5回2失点のほうが数字的によかったかもしれないですけど、勘違いしたまま結果を残してもしょうがないじゃないですか」
野村克也監督は、開幕投手を田中将大に決めた。
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3月22日、シーズン開幕。
福岡ソフトバンクの先頭打者:川崎宗則は、前年、田中将大を14打数7安打と打ち込んでいた。
しかし田中将大は初球から最後までストレートで押し切った。
4回、2アウト満塁のピンチでも田中将大はストレートを選択し抑えた。
しかし気負いがあったか、力みから制球が悪く、8回までにすでに134球を投げていた田中将大を野村克也監督は降板させた。
9回裏に逆転サヨナラ3ラン本塁打を打たれた。
3月29日、地元仙台での開幕戦に田中将大が先発。
1回、北海道日本ハムファイターズの3番:稲葉篤紀にストレートをセンター前に弾き返され、続く4番:ターメル・スレッジにもストレートをライトスタンドに運ばれた。
ストレートが走らずキレもなかった。
「打たれてもしょうがない。
次の打者に気持ちを集中する。
負けてもしょうがない。
次の試合に全力を尽くす」
そういう田中将大は攻め方を変え、三振が狙える場面でも変化球を打たせてとるピッチングをした。
やがて回を負うごとに調子が戻ってきてストレートも走り始めた。
7対2とリードして迎えた最終回に3番:稲葉篤紀との4度目の対決。
田中将大はゆっくりをふりかぶり、気持ちを込めたストレートを投げた。
稲葉篤紀はつまらされてライトフライに倒れた。
4番:ターメル・スレッジに対して初球、150㎞/hのストレート。
その後もストレートで押した。
粘るターメル・スレッジに対し6球目もストレート。
打球はファールとなった。
来るとわかっているストレートを前に飛ばすことができない。
そして7球目のスライダーにまったく動けず三振。
田中将大は9回を投げ切り、7対2で勝利した。
耐え抜いた末にストレートで勝負を挑んで勝利をつかんだ。
「野球をみて勇気づけられる人がたくさんいると思う。
希望とか夢とか勇気とか感動とか、いろいろなものを感じとってもらえる選手でありたいです」
チームは開幕から4連敗した後、7連勝し初の単独首位となった。
(2日後には陥落)
5月、交流戦を13勝11敗で初の勝ち越し。

北京オリンピック

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7月23日、田中将大は右肩痛で初めて出場選手登録を抹消された。
3日間のノースロー、2日間のキャッチボールを経て、北京オリンピックへの出場を米田純球団代表に直訴した。
20分間の会談後、
「予定通り参加する方向で決まりました」
と特に「予定通り」強調して話した。
8月、田中将大は24名の侍の1人として北京オリンピックに出場。
19歳とチーム最年少だったが3試合7回無失点の力投をみせた。
1984年のロスアンゼルスオリンピック以来、6大会で野球日本代表がメダルを逃したのは1回(2000年シドニー)だけ。
前年北京で行われたプレ大会では星野仙一監督率いる侍ジャパンはチェコ、フランス、中国を下して優勝していた。
しかし予選リーグで
キューバ戦 2対4
韓国戦 3対5
アメリカ戦 2対4
と3敗し4位で通過。
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