実録 スクール☆ウォーズ  この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である
2020年3月1日 更新

実録 スクール☆ウォーズ この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である

この物語は、ある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか7年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を余す所なくドラマ化した物語である。

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1977年3月21日、近畿大会で前半終了間際、山本清吾が和歌山工の選手に突っかかった。
ハーフタイムに山口良治は厳しく注意した。
「向こうが仕かけてきよったんや。
黙ってられるかい」
後半、山本清吾は怒りをエネルギーにして大活躍し、チームは試合に勝った。
しかし後味の悪さが残った。
「こんな子がいてんのやけど面倒みてくれませんか?」
山口良治は同僚教師から1人の生徒を紹介された。
奥井浩は、小人症(ホルモンのバランスが崩れ成長が止まる病気)で、135cm、29kgと体が小さかった。
「ちょっと無理ですね」
「昼休みに呼び出してあります。
話だけでも・・・」
そして3者面談が行われた。
「なんでラグビーがやりたいの?」
「そら山口良治がいてるからや。
オールジャパンのフランカーやで。
それに比べたら同級の大八木淳史なんてまだヒヨコや。
格が違うわ」
「ラグビーくわしいねんな」
「そらそやん。
男らしいスポーツいうたらラグビーしかあらへん」
「じゃあ紹介するわ。
ここにいてはるのがその山口良治や」
「アッ!」
奥井浩は現役時代の写真しか本人と気がついていなかった。
そして
「しっ失礼します」
と廊下に逃げ出した。
この日の練習の初めに山口良治は奥井浩を紹介し部員の輪の中にいれた。
そしてイギリスのラグビー雑誌を取り出した。
「この表紙にフランス代表の名ハーフ:ジャック・フーロー(ジャック・フールー、フランス代表主将&代表監督)が載っている。
この人も小さかった。
よってその人にあやかって奥井君を「フーロー」と名づける」
フーローは稲荷山のランニングで泣きながらドン尻を走った。
するとノルマを終えた部員が引き返してきて、一緒に走ったり、場合によっては背負ってくれた。
そして部活の帰り道、彼らはいろいろなことを語り合った。
ある部員が生き別れた父親のことを話した。
「きっと会えるよ。
花園高を僕らの手でやっつけるとき、きっと君のお父さんは観にきてくれるよ」
フーローは小さな手でその部員の背中を叩いた。
1977年6月11日、高校総体の決勝戦で、伏見工は花園高と対戦。
前半、14対8。
後半、18対0。
完敗した。
 (2165870)

初夏、山本清吾は次の日は練習が休みだったので、夜、久しぶりに遊びへ出かけた。
朝、家、電話が鳴った。
「お前、どこにおったんや」
山口良治が電話口で怒鳴った。
呼び出され、待ち合わせ場所に向かうと興奮した様子で告げられた。
「おい、高校日本代表の合宿に呼ばれたぞ」
高校日本代表には、1学年上に、後に日本代表で屋台骨となる林敏之、河瀬泰治らがいた。
そこに1年前まで「京都一のワル」と呼ばれケンカばかりしていた男が選ばれたのである。
「清悟、良かったな。
本当に良かったな。
でもな、お前はこれからジャパンという看板を背負っていくんやぞ。
看板を背負うとはどういうことかわかるか。
お前がジャパンの看板をはがそうとしてもはがされへんのやぞ」
不良の集まりと呼ばれた伏見工から、ラグビー高校日本代表が選ばれ、オーストラリア遠征に行くということは地元の新聞に取り上げられた。
小学校の担任は涙を流した。
「あの清悟ちゃんが記事になっとる。
しかも悪いことやない。
ええことで。
悪さしかしなかった、清悟ちゃんが」
1977年8月、夏休みに入ると伏見工はラグビーの聖地:菅平(長野県菅平高原)で合宿を行った。
5時半から練習は始まった。
この夏合宿の直後、京都大学病院で脳下垂体に腫瘍を取り除く手術を受けたフーローが亡くなった。
「たった5ヶ月の付き合いでした。
が彼は貴重なものを残していってくれました。
それは生きるという勇気です。
難病と闘う勇気を見せてくれたのです。
それと伏見工ラグビー部のジャージです。
彼がウェールズのマスコットジャージから、病床でデザインしてくれたものなんです」
1977年9月、秋の京都府大会が始まり、伏見工は敵をことごとく蹴散らした。
そして10月10日、決勝戦で花園高と対戦。
(知らなんだ!知らなんだ!)
オーストラリアでフーローの死を知らされなかった山本清吾は、猛然と攻めた。
そして伏見工は28対16で勝った。
しかし約1ヵ月後の1977年11月27日、全国大会の京都府予選の決勝戦で両校は再戦。
この大会を最後に勇退する花園高の川勝主一郎監督は、徹底的なディフェンスで伏見工の攻撃を止めて回り込んで攻める作戦を立てた。
伏見工フォワードはボールを奪取するべく全力で当たった。
高校ラグビー史上に残る好勝負は、30対18で伏見工が負けた。
「3年間の集大成。
そう思って全力でアタックしました。
しかし結果は負けです。
戦った実感として負けたという感じはしません。
泣く気も起きん敗戦でした」

平尾誠二

 (2165868)

1977年10月10日、京都ラグビー祭で、陶化(現:凌風)中 vs 修学院中の試合が行われた。
そこで山口良治は衝撃を受けた。
「あのスペースを突いたらチャンスになるやろうな」
そう思いながらみていると、華奢な体つきの陶化中のSO(スタンドオフ)が、その通りにボールを動かした。
試合後、名前を聞くとバンビのような純粋な目で
「平尾誠二です」
と答えた。
試合後、山口良治は、数名の中学生を、学校名とポジションで呼んで起立させ、アドバイスを与えた。
ラグビー祭の後、山口良治にアドバイスを受けた中学生たちが自発的に伏見工の練習を見学に訪れた。
「君ら黙ってみとらんと一緒に走れよ。
ただし走るだけやぞ。
当たったり、タックルいったりはアカン」
そういわれ中学生たちは練習に入った。
しかし時間が経つと
「コラッしっかりタックルせんか」
「そこで当たるんだ」
と山口良治は熱くなってしまっていた。
平尾誠二は、花園高へ特待生で進学することが決まりかけていた。
山口良治は自宅を訪ねた。
「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年は勝てないやろうと思った。
チームはようやく力をつけてきていたが、まだ学校はワルの集まり。
親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。
親を説得するのは難しかった。
少しでも望みがあるのならと必死で本人を口説いた。
俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。
必ず日本代表に育ててやると」
帰り際、両親に深々と頭を下げた。
「無理やろうな」
1978年4月、平尾誠二は伏見工に入学した。
平尾誠二はラグビー祭で山口良治に、試合状況を的確に判断すること、もっと走力をつけるようにいわれた。
「ズバッと急所でした。
人にいわれたくない僕の弱点で、僕自身よく知っているところなんです。
最初、クソッと思いました。
ところが聞いていくうちにもっと早く指摘してほしかったなあって思い始めたんです」
また修学院中の高崎利明も伏見工に入学した。
高崎利明は、オール京都(京都選抜)で平尾誠二とSH(スクラムハーフ)とSO(スタンドオフ)でコンビを組んでいた。
SH(スクラムハーフ)は、スクラムの近くにいてボールをさばく戦略家で、SO(スタンドオフ)は、スクラムから離れて立ちボールを受け取り、どこへ走るか、どこへパスするか、どこへ蹴るか、攻撃を選択する司令塔である。
「母親の実家が学校から近い伏見稲荷にあったので荒れているのは知っていた。
親には大学に行かせたいから普通科に行けといわれていたけど建築の勉強がしたいと説得しました。
僕らが入ったときには土台ができつつあった。
1年ごとに確実に成長していていい時期だった」

大八木淳史

 (2165854)

6月、高校総体の京都予選で伏見工は準決勝で負け3位になった。
山口良治の怒号が飛び、練習は地獄と化した。
ハードな練習にケガ人が続出したが、山口良治は
「ケガに強くなれ!」
とハッパをかけた。
「人間ラグビー」を目指す山口良治は、スタンドプレーが目立つ選手は容赦なく外した。
あるフォワードは、柔軟な肉体と根性があり、我武者羅に縦横無尽にボール奪取に走り、好感が持てた。
しかし強引さが目立つようになると2軍に落とされた。
「要はそのときのベストを組むこと
ベストとはその陣容が部員間で信頼されるかどうかや」
そのフォワードは悩み続けた。
数ヶ月後、練習で1軍の選手が倒れたため、水がかけられ、日陰に寝かされた。
そのフォワードは水を持っていった。
「お前は我武者羅にボールを奪るだけではアカン。
奪ったらその後が大事や。
生卵を渡すように俺にくれ。
これは俺の勝手な願いかな」
そのフォワードは顔色を変えた。
そして翌日の2軍の紅白戦で荒々しいボール奪取ときれいな球出し、そして確実なフォローで他のフォワードを圧倒した。
「明日、1本目(1軍)でいってもらうで」
数日後、山口良治にいわれたときは涙を流した。
1年生の平尾誠二は、初めて殴られた後、1週間ほど練習を休んだ。
山口良治先生は、ここぞというタイミングで、あえて厳しく指導する。
それを乗り越えたとき、ある程度、生徒が成長するのを知っているからである。
すでに中学時代に指摘された弱点をクリアし、その走りは強くしなやかで走路も理にかなっていた。
2年生の大八木淳史は、大工の父親に憧れ建築科に入ったが、入学した日に山口良治にスカウトされラグビー部入り。
中学ですでに180cmを超えていた巨体と身体能力、そしてメンタルタフネスで、スクラムでは「壁」と呼ばれ、ボールを持てば、キックやパスはほとんどせず、基本的に突進し、ハンドオフ(相手選手を突き飛ばす)で敵をなぎ倒していった。
ある練習試合で、伏見工のスクラムが急に押せなくなった。
犯人は大八木だった。
山本清吾ら3年生に理由を聞かれ答えた。
「休んでまんねん。
僕が休むことでほかの奴らを鍛えてますねん」
 (2165866)

1978年11月19日秋、全国大会の京都府予選決勝。
伏見工 vs 花園高。
1年前は18対30で負けたが、3年生に山本清吾、2年生に大八木淳史、1年生に平尾誠二を擁する伏見工は、力でも機動でも、そして闘志でも上回っていた。
しかし花園高は巧く試合の流れを掌握し、4対3でリードして前半を折り返した。
それでも伏見工は勝てると思っていた。
「負けるわけがない。
それが間違っているとは今でも思えない。
敗因は痛恨のミスが出たからです」
後半、花園高がボールを落とし、ノックオンかと思われた。
が、笛は鳴らず、一瞬動きが止まった伏見工ディフェンスを花園高は容赦なく攻めてトライ。
結局、12対6で伏見工は負けた。
「判定は厳正です。
怒鳴りつけたいようなレフリーでも笛は厳正です。
そりゃ・・・・・
表彰式で準優勝の記念トロフィーが全員に贈られた。
試合会場から阪急西京極駅までの帰り道、天神川にかかる橋で平尾誠二は手に持っていたトロフィーを投げ捨てた。
以後、平尾誠二は、学校から帰宅して夕食をすませると、近所の公園でキック練習をこなし、夜道を走るのを日課にした。
山口良治が練習を終え、学校の業務を済ませて、帰路につくと阪急桂駅までの電車の中から走り込みをする平尾誠二の姿をみることがあった。
「平尾の家の近くになると、よう1人で走っているのをみた。
厳しい練習をさせていたが家に帰ってからもまだやっていた。
『おっ、また平尾がやっとる』
そう思いながら、彼を見つけるのが楽しみやった」
山本清吾は、3年生時にも高校日本代表に選ばれ、イングランド遠征に行ったが、最後の最後で花園高には勝てなかった。
伏見工でのラグビー生活が終わり、山口良治にいわれた。
「お前は悪いヤツの気持ちがわかる。
そういうヤツを救ってやれ。
教師を目指すんやぞ」
山本清吾は、山口良治の母校:日体大へ進んだ。

Enjoy Rugby!

 (2165864)

1979年、山口良治はスティーブン・ジョンソンという神戸の商社に勤めるイギリス人から神戸の外国人クラブで一緒にプレーしないかと誘われた。
スティーブン・ジョンソンは元ウェールズで高校教師をしていたが、もっと自分の可能性にチャレンジするために来日していた。
(教師には可能性がないというのか)
山口良治は相手にしなかった。
しかしスティーブン・ジョンソンは熱心に誘った。
「良治、君のラグビーはバトル(戦争)だ。
我々のラグビーはエンジョイ(楽しみ)だ。
君のラグビーは30歳を過ぎたら続けられない。
我々は70歳でも80歳でもプレーを楽しみたい」
この一言に、久しぶりにラグビーをプレーしたいという気持ちがこみ上げ掻き立てた。
「よし、いっちょやってみるか」
翌週の日曜日、伏見工の練習を終えると急いで神戸に向かった。
そしてフランカーに入って、10分ハーフを4回戦った。
疲れて口もきけなかったが、それはこれまで経験したことのないラグビーだった。
「エンジィラグビーか。
これは大きな命題やな」
それから土日は、山口良治は神戸に、スティーブン・ジョンソンに通うようになった。
スティーブン・ジョンソンは伏見工の練習に入った。
そして選手の欠点や弱点は指摘せず、適正なパスの位置と走るコースを教えた。
またハードなだけでなく、もっと楽しい練習をやるようにいった。
「まずかったか・・・」
山口良治は不安になった。
1979年2月24日、近畿大会予選決勝で伏見工は西京商を80対0で一蹴した。
この日、スティーブン・ジョンソンは、1973年に山口良治がウェールズに遠征したとき、オールジャパンとの試合に出られなかったことを告白した。
「君のプレーはすばらしかった。
不調だと聞いていたが観戦している僕らに君のファイティングスピリッツは十分伝わった。
1度、日本にいって君に会いたい、君と戦いたい、そう思っていた。
それも果たせた」
伏見工の練習は、楽しむラグビーに変わっていった。
それまではいかにハードで苦しい練習をたくさん行うかだったが、17時半には練習を終わるようになった。
最初、不安だった山口良治も、その指導法が効果的だとわかると、その秘密を探り始めた。
そしてわかった。
例えば、弓は弦を張りっ放しにしているとイザというときに使えない。
普段、弦は外しておいて使う前にかける。
選手も長時間、緊張を強いられると、精神も肉体も弾力を失ってしまう。
うまく緊張と弛緩をうまく使うことで最大の力が発揮できる。
それまでの山口良治の指導や伏見工の練習は、どれだけハードな練習をどれだけこなせるかというもので、緊張が強すぎたのかも知れない。
しかし山口良治に優しく指導振するのは無理だった。
「その分はスティーブンに任せよう」
こうして不安は消えた。
スティーブン・ジョンソンの楽しいラグビーを教え、山口良治は、各部員の欠点を指摘し、そして部員同士の信頼を訴えた。
1979年6月9日、伏見工は高校総体予選の決勝で花園高と対戦し、60対4で圧勝した。
山口良治は4点の失点について
「精神的な甘さ」
と叱責した。

よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ

 (2165860)

日体大ラグビー部に入った山本清吾は、理不尽な上下関係や想像を超えたしごきを受けた。
そしてラグビーが楽しくなくなった。
腰痛が悪化し、満足に走れなくなり、精神的にも追いつめられ、過酷な練習に耐えられなくなった。
大学1年生の夏、意を決し長野県菅平高原での合宿を抜け出し京都の自宅に戻った。
「清悟が逃げた」
それは同じ菅平で合宿中だった伏見工にも伝わった。
京都の山本清吾の家の電話が鳴った。
「俺や。
今から帰るからそこにいろ。
ええな」
山口良治だった。
「絶対にボコボコに殴られると思っていた。
むしろ殴られてボコボコにされて全部ゼロにしたかった。
それで先生との縁を切る。
京都にはおられへんくなるから、どっかよそに行こうと思っていた」
久しぶりに山口良治と向かい合った。
殴られる覚悟で頬に力を入れて恩師の顔をみた。
「清悟、1年の愛知遠征を覚えてないんか。
あのとき、俺はお前にバスの中でにぎり飯を渡したよな。
あれをもう忘れたんか」
殴られることはなかった。
山本清吾は声を出して泣いた。
「先生、俺、もう1回、頑張ってくるわ」
家に放り投げたバッグを持ってすぐに駅へ向かった。
「あいつからラグビーを取ったらどうなってしまうんや?
またチンピラに戻るだけや。
荒んだ生活に戻るだけや。
そんなことは絶対にさせたくなかった」
後に山本清悟は、奈良朱雀高の教師となりラグビー部の監督となった。
「よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ。
僕らは、男は人前で泣くもんやないって教わったときにね。
いつもまた泣いてる、なんで泣いてんねんって思っていたわけよ。
でも指導する立場になってわかりますわ。
涙ってええなって。
涙を流せる人間にならなあかんなって。
当時は思いませんでしたけどね。
涙を流さんやつはあかん。
感情のあらわれですもん。
今の子は感性が緩いっていうか、そういうところが時代なんですかね。
感じる心。
それって大事ですわ」

花園高を破り全国大会初出場

 (2165859)

1979年10月22日、全国高校ラグビー大会京都予選が開始。
伏見工は、立命、絡東、西京、絡水、東山、大谷に勝ち、11月25日の決勝戦に進出。
相手は、花園高。
両校が花園ラグビー場への出場権を賭けて戦うのは5度目だが、すべての対決で花園高が勝ち、京都代表となり全国大会に出場していた。
山口良治は試合前、円陣の中でいった。
「目を閉じて聞いてくれ。
そして隣同士、手を握ってくれ。
今日まで本当にご苦労さんだった。
先生の小言をよく聞いて我慢してくれた。
今お前たちが握っている手は誰の手かわからんはずだ。
しかしそれは伏見工のフィフティーンの手だ。
まかり間違っても花園高校とは違う。
目を閉じても俺たちはつながっている。
そう思って横や後ろにいる味方を信じて欲しい。
今日1日のために1年があった。
悔いを残すな。
結果の責任は全部、俺にある。
いいか!
後ろに退くな。
一歩でも早くボールに追いつけ。
前へ出ろ。
それだけや」
花園高のキックオフで試合開始。
ファーストスクラムは伏見工が押し勝った。
1年前、天神川に準優勝のトロフィーを投げ捨てた平尾誠二はキックすると見せかけ、走った。
スクラムでも展開力でも伏見工が勝り、連続攻撃で押しまくり、花園高は自陣に釘づけになった。
前半が終わりハーフタイムで山口良治はいった。
「フォワードはおしてみてどうや。
軽く感じるならトコトン押して敵にラグビーをさせるな。
バックスは当たってみてどうや。
弱く感じるなら早めに勝負しろ。
「敵に1つもトライさせてはならん」
後半も伏見工は攻めまくった。
「山田、一歩早く!」
「平尾、迷うな!」
「点差を確かめるな。
奪るだけ奪れ」
「容赦するな。
叩きのめすのが礼儀や」
「突け」
「飛び込め」
「タックルで潰せ」
「キックで相手陣を突き刺せ」
「気を抜くな」
山口良治の口からは呪文のように独り言が漏れ出て、体は小刻みに震えていた。
目は真っ赤で、今にも血が滴り落ちそうだった。
点差が開き、伏見工の勝利は間違いなかった。
伏見工のロングキックがタッチを割らず、花園高がボールを確保しカウンター攻撃を開始した。
「せめて1トライ!」
凄まじい形相で意地とプライドを賭けた突進だった。
「潰せ!」
山口良治は叫んだ。
そしてボールを持った花園高の選手は崩れ落ち、ボールは中央ライン付近を転々と転がった。
長い笛が鳴り、試合が終わった。
55対0。
「勝った!!」
「やった!!」
伏見工は喜びを爆発させた。
女子マネージャは泣いていた。
山口良治の胸の中で熱いものが何度もこみ上げどうしようもなかった。
ここまで5年間かかった。
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  • くまちゃん 2022/3/22 04:59

    私の母校なので訂正して頂けたらと思います。伏見工業の京都府予選の相手として名前が出てくる学校。「絡東」高校ではなく「洛東」高校です。同じく「絡西」ではなく「洛西」高校。3箇所ほどあります。

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