孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山!
2017年8月7日 更新

孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山!

日本クルーザー級のパイオニアとしてその名を轟かせた西島洋介山を知らない人はいないだろう。手裏剣パンチを武器に闘った地下足袋ファイターは、そのボクサー人生の多くをアメリカで過ごした。またボクサーとして現役を退いた後には、日本国内で総合格闘技やキックボクシングにも出陣することに。様々なバックボーンを持ったファイター達とリング上で相見えてきた西島洋介山、孤高のボクサーはその拳にどんな想いを乗せて闘っていたのだろうか。

20,144 view

1992年3月、18歳でプロデビュー

プロデビューまでは自身でもラッキーと語るほど、順調に進んでいったのだという。

中学でマイク・タイソンに憧れた男は高校2年でボクシングを始め、高校卒業と同時に憧れの男と同じ世界に飛び込んだのだ。

7人のボクサーを参考にしてファイトスタイルを創り上げた

ミド編)憧れのマイク・タイソンのテクニックを研究されましたか?
もちろん研究しましたよ、でもパンチ力が違うのでマネは出来ない。
7人のボクサーを参考にして、そのエッセンスで自分のスタイルを創り上げました。
「地下足袋で闘うボクサー」

「地下足袋で闘うボクサー」

地下足袋スタイルに手裏剣パンチ、宇宙パンチ。
当時所属していたオサムジム会長のアイデアで、西島選手の個性が生まれた。
日本のボクサーはあまり観ずにアメリカのボクサーを観ていました。
印象として日本のボクシングはド付き合い、アメリカのボクシングはエンターテインメント。

日本は「あしたのジョー」の世界でストイックに体を絞る。でもアメリカではとにかく食べてヘビー級にすること、アメリカのボクサーはみんな(ビッグビジネスになるので)ヘビー級を狙っていましたね。
デビューしてほどなく「日本国内唯一のヘビー級選手」として注目を集め始めた西島選手は1995年にNABO北米クルーザー級、1996年にOPBF東洋太平洋クルーザー級、1997年にWBF世界クルーザー級と続けざまに王座を戴冠。

この頃に、メディアを通じて「西島洋介山」を知った読者は数多いことだろう。

所属ジム会長との仲違い、渡米

プロボクサー人生の後半、西島選手は所属していたオサムジムとの確執から渡米してカリフォルニア州でライセンスを再取得することに。

当時のことを西島さんはこのように語ってくれた。
僕に投資してくれた会長は、ボクサーとして負けなしでずっと勝ち進んでから、行く行くはジョージ・フォアマン等のビッグマッチを!といったプランを考えてくれていました。そして怪我をする前に引退をと。
だけど僕はマイク・タイソンに憧れて、ただひたすら強くなりたかった。

ビジネスとしてのボクシングも理解出来たし、でもボクシングが強くなりたかった。

当時の周囲は自分の気持ちを考えてくれて「絶対アメリカに行った方がいい」と。
けれど、会長を裏切るような形でアメリカ行きを決断したことは心のどこかに引っかかっていて。

後悔はしていない、だけど出来れば会長とは和解したいですね。。。
ボクサーとしての強さを追い求めたかった西島選手。
プロボクサーとしてのキャリア形成で意見の異なった会長と袂を分かち、ボクサー人生の後半は渡米してカリフォルニア州のライセンスで闘うこととなる。

当時の決断を後悔はしていない西島さんだが、「踏みとどまっていたら最後までプロボクサーとしてのキャリアを全う出来ていたかも知れない」という一言が、とても率直で印象的だった。

ボクサー引退から総合格闘技、キックボクシングの世界へ

西島選手のボクサーとしての引退試合は2003年7月10日、カリフォルニア州クルーザー級王座決定戦だった。
勝てばカリフォルニア州クルーザー級王座戴冠となったこの試合、結果は2RTKOで敗北。
勝てば日本国内での試合可能性も見えてくるはずだった一戦、勝ちたかったです。
ただ当時、すでに肘が相当悪くて結果としてはボクシング最後の試合がKO負けとなってしまいました。。。

引退した後に心残りだったのは「なんで強い相手と闘わなかったの?」と言われた言葉でした。

悔しくて、強さを証明したくて総合格闘技、キックボクシングへ

ボクサー引退から2年半経った2006年2月26日、PRIDE.31でマーク・ハントと対戦し総合格闘技デビューを果たした西島選手。
2009年8月11日にはK-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOでピーター・アーツと対戦し、キックボクシングの領域にまで戦いの場を広げることに。

ミド編)総合格闘技、キックボクシングに拳のみで挑もうとされました。
ボクシングへのこだわりというわけではなくて、勝算から考えて(戦術として)拳一本に絞って闘い方を組み立てただけだったんです。シューズ履いた方が力も出るし。
ただ、こんな正直なコメントも飛び出した。
K-1やPRIDEに出ると決めた時、強い選手のDVDを全て取り寄せてもらったんです。研究しようと思って。
でも結局観てたのは、ボクシングの部分ばっかり(笑。
61 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

元K-1ファイター西島洋介をダイエットサービスのトレーナーに起用!

元K-1ファイター西島洋介をダイエットサービスのトレーナーに起用!

元K-1ファイターであり、ボクシングの元クルーザー級世界王座の西島洋介が、ダイエットサービス『BB7』のパーソナルトレーナーに起用されました。本稿では西島洋介山と名乗っていた90年代の活躍もご紹介します。
日本人初のヘビー級世界チャンピオンを期待されたボクサー「西島洋介山」の経歴と現在

日本人初のヘビー級世界チャンピオンを期待されたボクサー「西島洋介山」の経歴と現在

日本国内初のクルーザー級ボクサーとして注目を浴びた西島洋介山のボクシング、K-1、総合格闘技の戦績。引退と現在について紹介。
きちんとチキン | 77,787 view
マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。
RAOH | 4,066 view
【話題】マイク・タイソン(53)、完全菜食のヴィーガンになっていた。

【話題】マイク・タイソン(53)、完全菜食のヴィーガンになっていた。

マイク・タイソン(53)が体を作るために「ヴィーガン食」を採用していると判明し、大きな話題となっています。
隣人速報 | 12,546 view
PRIDEからHERO'S、パンクラスと格闘家の道を歩んだ大山峻護、40歳を超えてのプロレスチャレンジ!

PRIDEからHERO'S、パンクラスと格闘家の道を歩んだ大山峻護、40歳を超えてのプロレスチャレンジ!

柔道一筋の学生時代からPRIDE、HERO'S、パンクラスと格闘家としての道を歩み続けた大山峻護。眩いばかりのスポットを浴び、ときに峻烈極まる罵声に晒された彼は40歳でその格闘家人生を終え、いまはトレーニングプログラム「FIGHTNESS」を提唱して日々躍動中。そんな中、なんと42歳にしてプロレスにチャレンジするという彼に話を伺った。

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト