1992年3月、18歳でプロデビュー
プロデビューまでは自身でもラッキーと語るほど、順調に進んでいったのだという。
中学でマイク・タイソンに憧れた男は高校2年でボクシングを始め、高校卒業と同時に憧れの男と同じ世界に飛び込んだのだ。
中学でマイク・タイソンに憧れた男は高校2年でボクシングを始め、高校卒業と同時に憧れの男と同じ世界に飛び込んだのだ。
7人のボクサーを参考にしてファイトスタイルを創り上げた
ミド編)憧れのマイク・タイソンのテクニックを研究されましたか?
もちろん研究しましたよ、でもパンチ力が違うのでマネは出来ない。
7人のボクサーを参考にして、そのエッセンスで自分のスタイルを創り上げました。
日本のボクサーはあまり観ずにアメリカのボクサーを観ていました。
印象として日本のボクシングはド付き合い、アメリカのボクシングはエンターテインメント。
日本は「あしたのジョー」の世界でストイックに体を絞る。でもアメリカではとにかく食べてヘビー級にすること、アメリカのボクサーはみんな(ビッグビジネスになるので)ヘビー級を狙っていましたね。
デビューしてほどなく「日本国内唯一のヘビー級選手」として注目を集め始めた西島選手は1995年にNABO北米クルーザー級、1996年にOPBF東洋太平洋クルーザー級、1997年にWBF世界クルーザー級と続けざまに王座を戴冠。
この頃に、メディアを通じて「西島洋介山」を知った読者は数多いことだろう。
この頃に、メディアを通じて「西島洋介山」を知った読者は数多いことだろう。
所属ジム会長との仲違い、渡米
プロボクサー人生の後半、西島選手は所属していたオサムジムとの確執から渡米してカリフォルニア州でライセンスを再取得することに。
当時のことを西島さんはこのように語ってくれた。
当時のことを西島さんはこのように語ってくれた。
僕に投資してくれた会長は、ボクサーとして負けなしでずっと勝ち進んでから、行く行くはジョージ・フォアマン等のビッグマッチを!といったプランを考えてくれていました。そして怪我をする前に引退をと。
だけど僕はマイク・タイソンに憧れて、ただひたすら強くなりたかった。
ビジネスとしてのボクシングも理解出来たし、でもボクシングが強くなりたかった。
当時の周囲は自分の気持ちを考えてくれて「絶対アメリカに行った方がいい」と。
けれど、会長を裏切るような形でアメリカ行きを決断したことは心のどこかに引っかかっていて。
後悔はしていない、だけど出来れば会長とは和解したいですね。。。
ボクサーとしての強さを追い求めたかった西島選手。
プロボクサーとしてのキャリア形成で意見の異なった会長と袂を分かち、ボクサー人生の後半は渡米してカリフォルニア州のライセンスで闘うこととなる。
当時の決断を後悔はしていない西島さんだが、「踏みとどまっていたら最後までプロボクサーとしてのキャリアを全う出来ていたかも知れない」という一言が、とても率直で印象的だった。
プロボクサーとしてのキャリア形成で意見の異なった会長と袂を分かち、ボクサー人生の後半は渡米してカリフォルニア州のライセンスで闘うこととなる。
当時の決断を後悔はしていない西島さんだが、「踏みとどまっていたら最後までプロボクサーとしてのキャリアを全う出来ていたかも知れない」という一言が、とても率直で印象的だった。
ボクサー引退から総合格闘技、キックボクシングの世界へ
西島選手のボクサーとしての引退試合は2003年7月10日、カリフォルニア州クルーザー級王座決定戦だった。
勝てばカリフォルニア州クルーザー級王座戴冠となったこの試合、結果は2RTKOで敗北。
勝てばカリフォルニア州クルーザー級王座戴冠となったこの試合、結果は2RTKOで敗北。
勝てば日本国内での試合可能性も見えてくるはずだった一戦、勝ちたかったです。
ただ当時、すでに肘が相当悪くて結果としてはボクシング最後の試合がKO負けとなってしまいました。。。
引退した後に心残りだったのは「なんで強い相手と闘わなかったの?」と言われた言葉でした。
悔しくて、強さを証明したくて総合格闘技、キックボクシングへ
ボクサー引退から2年半経った2006年2月26日、PRIDE.31でマーク・ハントと対戦し総合格闘技デビューを果たした西島選手。
2009年8月11日にはK-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOでピーター・アーツと対戦し、キックボクシングの領域にまで戦いの場を広げることに。
ミド編)総合格闘技、キックボクシングに拳のみで挑もうとされました。
2009年8月11日にはK-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOでピーター・アーツと対戦し、キックボクシングの領域にまで戦いの場を広げることに。
ミド編)総合格闘技、キックボクシングに拳のみで挑もうとされました。
ボクシングへのこだわりというわけではなくて、勝算から考えて(戦術として)拳一本に絞って闘い方を組み立てただけだったんです。シューズ履いた方が力も出るし。
ただ、こんな正直なコメントも飛び出した。
K-1やPRIDEに出ると決めた時、強い選手のDVDを全て取り寄せてもらったんです。研究しようと思って。
でも結局観てたのは、ボクシングの部分ばっかり(笑。
当時所属していたオサムジム会長のアイデアで、西島選手の個性が生まれた。