こうして、憧れの千葉真一とJACの元で修行することになった志穂美悦子。
しかし、慣れない東京暮らしの中での千葉真一の指導と練習は、16歳の少女にとっては想像を超える厳しさだったのだ。
しかし、慣れない東京暮らしの中での千葉真一の指導と練習は、16歳の少女にとっては想像を超える厳しさだったのだ。
1972年10月のJAC入団以来、僅か1年での映画デビューは正に驚異的!
もちろん、1973年12月に公開された「燃えよドラゴン」の大ヒットにより、日本の映画界がカラテ映画製作へとシフトする時期だったこともあるが、時代の流れさえ味方に付けるその強運!もちろん志穂美悦子の生まれ持ったスター性だけでは無く、本作に描かれている血の滲むような努力の積み重ねによる物なのは言うまでもない。
実は「ボディガード牙」の1作目にも、渡辺やよいのスタントとして参加しているのだが、この時は本名である塩見悦子での出演だった。その後「ボディガード牙・必殺三角飛び」で正式デビューする際に、千葉真一の本名である前田禎穂(まえだ さだほ)から「穂」の一字を取って、「志穂美悦子」の芸名が誕生することになる。
もちろん、1973年12月に公開された「燃えよドラゴン」の大ヒットにより、日本の映画界がカラテ映画製作へとシフトする時期だったこともあるが、時代の流れさえ味方に付けるその強運!もちろん志穂美悦子の生まれ持ったスター性だけでは無く、本作に描かれている血の滲むような努力の積み重ねによる物なのは言うまでもない。
実は「ボディガード牙」の1作目にも、渡辺やよいのスタントとして参加しているのだが、この時は本名である塩見悦子での出演だった。その後「ボディガード牙・必殺三角飛び」で正式デビューする際に、千葉真一の本名である前田禎穂(まえだ さだほ)から「穂」の一字を取って、「志穂美悦子」の芸名が誕生することになる。