マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。
2021年1月7日 更新

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。

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1991年4月19日、WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオン、28歳のイベンダー・ホリフィールド vs 「象をも倒す男」、元世界ヘビー級世界チャンピオン、42歳のジョージ・フォアマンの「Battle of the Ages」が行われた。
1987年に10年ぶりに現役のリングに大きなお腹で帰ってきたジョージ・フォアマンに世間の目は冷ややかだった。
しかしカムバック後、24連勝23KO。
オールドグレートの「本気」は、ファンの注目を集めていき、ついに16年ぶりの世界ヘビー級タイトルマッチにまでたどり着いてみせた。
ジョージ・フォアマンは見た目は変わったが、パワーの凄まじさは相変わらずで、アディルソン・ロドリゲスを粉砕したハードな左ジャブ、ジェリー・クーニーを失神させた左右のアッパー、ハードブローで若くて速いチャンピオンを追い詰める場面もあった。
初防衛戦となるイベンダー・ホリフィールドは、その攻撃を堂々と受け止める威厳ある戦いをみせ、回転の速いコンビネーションで多くのヒットを奪った。
しかしジョージ・フォアマンは倒れずに強打を当ててイベンダー・ホリフィールドがふらつく場面も。
激しい打ち合いの末、116-111、115-112、117-100でイベンダー・ホリフィールドが判定勝ちしたが、両者に拍手を送りたくなる感動的なファイトとなった。
「俺は逃げなかった。
堂々と戦った。
恥じる必要はない。」
試合後、ジョージ・フォアマンはいったが、3年半後、マイケル・モーラーをノックアウトして20年ぶりにヘビー級王座に返り咲いた。
1991年6月28日、マイク・タイソンがドノバン・ラドック に12R判定 勝ち。
ドノバン・ラドックとの2連戦は、イベンダー・ホリフィールドへの挑戦権をかけたサバイバル戦だった。
ドノバン・ラドックは「スマッシュ」と呼ばれる強打の左アッパーを武器にマイク・タイソンと真っ向から打ち合った。
マイク・タイソンに打ち勝ち後退させる場面もあったが、勝つことはできなかった。
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1991年11月8日、イベンダー・ホリフィールド vs マイク・タイソン戦が行われる予定だったが、マイク・タイソンのケガにより延期。
1991年11月23日、イベンダー・ホリフィールドは代役のバート・クーパーとの2度目の防衛戦に臨んだ。
バート・クーパーは、元NABFチャンピオンで、クルーザー級上がりながらハードパンチと常に前に出るエキサイティングな試合で人気を博していた。
1R、イベンダー・ホリフィールドはスピードに乗ったコンビネーションで硬いパンチを打ちこみ、体格で劣るバート・クーパーをボディブローでダウンさせた。
3R、イベンダー・ホリフィールドが左ロングフックをダブルヒット。
バート・クーパーはボディを返す。
イベンダー・ホリフィールドは頭をつけてボディを返した。
バート・クーパーの右フックをもらったイベンダー・ホリフィールドがふらつき、さらに右を被弾してロープ下に膝をついた。
イベンダー・ホリフィールドの初のダウンだった。
バート・クーパーはここぞとばかりにフックを振り回したがイベンダー・ホリフィールドはふらつきながらクリンチ。
そして右クロスカウンター。
今度はバート・クーパーがふらつき左右フックで打たれるままになった。
最終的にイベンダー・ホリフィールドは7R、TKOで勝ったが、格下相手にダウンするという大失態によって世界ヘビーチャンピオンとしての評価を落とした。
1992年3月、「ミス・ブラックアメリカコンテスト」の出場者、ディズィリー・ワシントンが、1991年の夏にホテルでレイプされたとしてマイク・タイソンを訴えた。
「夜中の1時過ぎにマイクから電話があったの。
パーティをやってるから来ないかって。
それで出かけたわ。
部屋に入るとマイクは私を押さえつけて自由を奪い酷いことをしたの。
やめてって懇願したけど彼はお構いなしだった。
逆らえば殺される。
そう確信したわ」
マイク・タイソンは合意の上でのSEXだったと話した。
「あの女がホテルまで来て自分からパンツを脱いだんだ。
ファック準備完了ってやつさ。
だから俺はファックした。
体の隅々まで舐めてやった。
アソコもケツも舐めてやったなのに俺はあいつのケツをヤッた(レイプした)という事になってる。
どうせ最初っから全部計画してたんだろうよ。
今じゃ俺は最低のゲス野郎さ。
もう慣れちまったがな」
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1992年4月10日、平仲明信がメキシコでWBA世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エドウィン・ロサリオに挑戦。
1R、エドウィン・ロサリオをロープに詰め、怒涛の連打。
王者も逃げずに応戦したが平仲明信が打ち合いで圧倒。
エドウィン・ロサリオは立ったまま白目をむいて失神。
1R 1分32秒、レフリーが止めTKOで平仲明信がニュー世界チャンピオンとなった。
エドウィン・ロサリオはドン・キングと契約していたが、試合後、ドン・キングはリングに上がって
「ヒラナカーッ!ヒラナカッー!」
と叫び平仲明信の手首をつかんで上に挙げた。
そのとき平仲明信は初めてまじかでドン・キングをみたが、腕時計にはダイヤモンドがちりばめられ、顔は笑っていたが眼はトカゲのように冷たかったという。
1992年4月15日、婦女暴行罪の他にも2つの違法行為および監禁罪など4つの罪で起訴され、インディアナ州マリオン郡高裁により実刑6年罰金3万ドルの判決を受けたマイク・タイソンが、同州ペルドルトンの刑務所に収監された。
この裁判は、状況証拠が一切なく被害者であるディズィリー・ワシントンの証言のみの心証裁判だった。
その後、ディズリィー・ワシントンの友人、ウェイン・ウォーカーが、マイク・タイソンの冤罪を主張して控訴しようとしたが、証拠不十分で再裁判の要求は却下された。
ディズリィー・ワシントンは高校時代、友人の男子生徒をレイプで告発しようとしたことがあり、捏造だと判明して警察と学校から厳重注意を受けたという。
このようにいわくつきの裁判となったが、間違いなくマイク・タイソンが犯ったという人、素行が悪いマイク・タイソンの世間の評価だという人、そしてマイク・タイソンがハメられたと思っている人もいる。
「俺の言葉は1つとして彼ら(判事と陪審員)の心に残らなかった。
裁判は始めから有罪と決まっていた。
公正じゃなかったと今でも思ってる。
だけど彼らを恨んでも仕方がない。
すべては俺自身の未熟さが招いたことだ」
(マイク・タイソン)
「マイクは、ハメられたのさ。
夜中の2時に女が部屋へやって来て自分から下着になってベッドの中にもぐり込んできたら、あんたいったいどうする?
だいたいレイプで訴えられて会計弁護士をつけて勝てるか?
あの事件のすぐ前だがマイクがドン・キングを離れてハロルド・スミスのところに移籍する噂が流れてたんだ。
それを考慮に入れると大体わかるだろう」
(ケビン・ルーニー)
「あの裁判はでっち上げに等しいね。
ディズリーの言い分だけさ。
無罪の人間が3年半もブタ箱に放り込まれたんだ。
ディズリーとの行為は、あくまで合意の上だったと信じているよ。
俺はマイクを25年間知っているが、もし本当に彼がレイプをしていたら、この映画(『TYSON』)を絶対に製作していなかったよ。
彼は、当時あらゆる女性から声をかけられたり追っかけられていたんだ。
彼自身も認めているが、そのあらゆる女性たちといろいろなことをしてきたと話している。
だが決してレイプのようなひどいことではないんだ。
それだけは理解しなくてはいけない。
もちろん実際に起きたことは2人以外、誰にもわからないが、あの裁判はマイクの中で真実からほど遠く、不正に行われた裁判によって3年半刑務所に入ってしまった堪え難い事件と思っている。
ディズリィーとの性交は同意のもとで行われたと今でも強く主張しているんだよ。
出所後、友人たちは「あの事件から離れて生きていかなければならない」と助言したが、彼はいまだにあの不幸な結果が脳裏に焼き付いているらしく、人生を変えてしまった事件として今でもそのことを考えると「夜は眠れない」といっている」
(ジェームズ・トバック、映画監督、脚本家、マイク・タイソンの友人、映画『TYSON』では友人にカメラを向け栄光とドン底の人生を赤裸々に語らせた)
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刑務所に入ったマイク・タイソンは、最初、ほとんどの時間を電話に費やした。
「タイソン、お前、1時間も話しているぞ」
順番待ちの受刑者からいわれても
「訴訟がこじれてるんだよ」
と返し友達や女性と話し続けた。
電話をしていないときは、部屋で本を読んだ。
毛沢東、チェ・ゲバラ、マキアヴェリ、トルストイ、ドストエフスキー、マルクス、シェイクスピア、ヘミングウェイ、いろいろ読んだが、心を魅かれたのはレジスタンスや革命の話。
もともと社会に腹を立てていたが、毛沢東やチェ・ゲバラを読んで、いっそう反体制的になった。
売店では、日用品やお菓子、煙草などが売っていたが、金銭的に裕福なマイク・タイソンはポテトチップが欲しいが金がない受刑者に1袋渡して相手の名前を書き留め、後日、2袋で返済させた。
返済や支払いを渋る受刑者やつには力を振るい、他の誰かに借りさせても払わせた。
在庫はドンドン増えていった。
「(刑務所では)誰が1番強いのか確かめたがる奴が多いんだ。
ああいうところにいるときの俺は無敵だよ」
有名人が訪ねてくれば一緒に写真を撮り、
「おい、ブラザー、この写真をみろ。
少なくとも50ドルはする代物だ」
とファンの受刑者に売って、10ドルずつ小分けにして、50ドルを完済させた。
手紙と一緒に自分のエッチな写真を送ってくる女性ファンもいたが、マイク・タイソンは写真と手紙を別々に売った。
コレクトコールで友人に電話し、友人は女性とセックスして受刑者に聴かせるテレホンセックスのサービスも行った。
オプションで受刑者の名前を事前に伝え、
「Oh、〇〇〇〇、もう濡れてきちゃった」
とその受刑者の名前を女性にいってもらうサービスもあった。
外の友人たちに女を抱かせることもあった。
手紙を送ってきた女性を友人のクラブに送り込み、上物かどうか確かめさせた。
「あれは将来への投資だった。
いい女だったら出所したとき会いにいこうってことだ」
金を渡せばどんなことでもする刑務官もいて、マイク・タイソンは、ピザ、中華料理、ケンタッキーフライドチキン、ハンバーガー、ロブスター、バーベキューなんでも好きなものを注文して、刑務官に届けさせた。
家庭料理が恋しくなると友人に電話をして、その嫁に料理をつくってもらい届けさせた。
マイク・タイソンは、ほかの受刑者とうまくつき合い、塀の中にいる間、1度も酒を飲まずマリファナも吸わなかった。
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1992年6月、イベンダーホリフィールドがラリー・ホームズに大差で判定勝利。
しかし勝利が確実視されていた試合でKOできないイベンダー・ホリフィールドのパフォーマンスに不満の声を上げるファンもいた。
イベンダー・ホリフィールドは、実力は認められていたが、世界ヘビー級チャンピオンとして何かが足りなかった。
そんな中、マイク・タイソン不在のヘビー級戦線に2人のネクストジェネレーションが台頭してきた。
1人は、1988年のソウルオリンピックのスーパーヘビー級で金メダルを獲得したレノックス・ルイス(Lennox Lewis)
もう1人は、レノックス・ルイスに敗れ銀メダリストとなったリディック・ボウ(Riddick Bowe)
2人がプロに転向した1989年、マイク・タイソンが快進撃が続けていたが、翌年、東京ドームでジェイムス・ダグラスにまさかの敗北した。
レノックス・ルイスは、196cm、112kgの恵まれた肉体、テクニック、ハードパンチ、クレバーさを兼ね備えた次世代のファイターだった。
自慢のドレッドヘアーは
「尊敬するボブ・マーリーと、ジャマイカの神の影響さ」
という。
「ジャマイカ移民の血が流れているんだ。
生まれたのはイングランドで、12歳のとき母親と共ににカナダに移住して、そこで育った。
だから国籍は2つ持ってる。
子供の頃からバスケット、フットボール、テニス、チェス、何でも得意だったなぁ。
カレッジはバスケットの推薦で入ったんだよ。
でもいつの間にかボクシングがメインになった。
で、オリンピックで勝って、プロに誘われてね。
学問はカムバックできるけどボクシングは人生の一時期しかできないだろう。
それで中退したんだけど、引退したらもう1度勉強し直すつもり。
哲学を学んでみたいんだ。
教育って、人間が生きる上で必要不可欠なものだろう。
どんな理由があるにせよ、若い世代には学ぶ機会をつくってあげないと。
世界中すべての子供を救えはしないけれど、自分にできることをやろうと、ロンドンにレノックス・ルイス・カレッジを設けた。
カレッジっていっても、通うのは小中学生だけどね。
今はイングランドに家を持っていて、トレーニングはアメリカでして、バケーションはジャマイカっていうスタイルなんだけど、いずれはジャマイカに住みたいね」 
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一方、リディック・ボウは、マイク・タイソンが育った場所と目と鼻の先のニューヨーク、ブルックリンブラウンビルで13人兄弟の12番目として生まれた。
朝、通りで人間の死体が転がっているのは日常だった。
ボクシングをみつけ、犯罪人生を脱出し、ニューヨークで最高のファイターに成長し4つのゴールデングローブで優勝した。
1988年のソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、1989年、プロに転向し、1990年、アメリカ国内のヘビー級チャンピオンとなった。
196㎝という身長を生かしたボクシング、優れたジャブと鈍器のような重いパンチで
「モハメド・アリの再来」
といわれ、才能ではオリンピック決勝で2度ダウンを奪われRSC負けしたレノックス・ルイスに決して負けていなかった。
1992年10月31日、レノックス・ルイスは、かつてマイク・タイソンを苦しめ、自身がアマチュア時代に唯一負けた相手、ドノバン・ラドックと対戦し、3度ダウンさせて2RTKO勝ち。
これで22連勝。
WBCランキング1位になった。
1992年11月13日、イベンダーホリフィールドとリディック・ボウが対戦。
試合はボクシング史上に残る大激戦となった。
2人は開始から激しく打ち合い、イベンダー・ホリフィールドは大柄なリディック・ボウに燃えるような闘志で前に常に出続けた。
リディック・ボウはジャブとアッパーを駆使してイベンダー・ホリフィールドはダウン。
キャリア初のダウンを奪われたイベンダー・ホリフィールドは、あきらめずにファイトし続けたが、10Rにはストップ寸前にまで追い詰められた。
それでも果敢に打ち合いを挑んでいき、最終ラウンド終了のゴングが鳴ったあと、立ち尽くすイベンダー・ホリフィールドの姿はたくさんの人に勇気と感動を与えた。
しかし判定で負け、王座から陥落。
リディック・ボウは体がシャープでパンチもコンビネーションもキレていた。
体格で優っているため遠い間合いでは必然的に有利だったが、接近戦でもインサイドからパンチを打ち、10Rには右アッパーでイベンダー・ホリフィールドをフラつかせた。
こうして26歳のリディック・ボウは、プロ4年目、32戦無敗でWBA、WBC、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
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その後、リディック・ボウは、ジョージ・フォアマンと初防衛戦話が持ち上がったが、フォアマンサイドが高額なファイトマネーを要求したため破談。
WBCは、指名試合でリディック・ボウにWBCランキング1位のレノックス・ルイスとの対戦を義務づけた。
しかしリディック・ボウは拒否。
記者会見でWBCのベルトをゴミ箱に捨てるパフォーマンスを行った。
これについて、ボウが逃げた、ボウは精神病、ボウは脳障害だった、ボウはルイスとの試合を望んでいたがマネージャーとの確執があったなど、いろいろいわれたが真相は不明。
しかしリディック・ボウはすごく体が大きいが精神的には子供であることは間違いないだろう。
1992年12月14日、WBCは、タイトルの決定戦を行わず、レノックス・ルイスルイスを新チャンピオンに認定すると発表。
こうして1987年にマイク・タイソンが統一した最重量級の主要3団体のベルトは分裂することになった。
両親の祖国、ジャマイカで休暇を過ごしていたレノックス・ルイスは、国際電話でそれを告げられた。
世界ヘビー級チャンピオンの座がイギリスが来たのは1899年以来のことだった。
「夢に描いていた世界ヘビー級チャンピオンになれたのだから、当然、嬉しかった。
でも少なからず虚しさも感じたよ。
やっぱり戦ってベルトを手に入れたかった。
ボウとはやりたかった。
もちろん勝算もあったしね。
オリンピックのファイナルが楽な試合だったとはいわないし、ボウもプロとしてキャリアを積んで進歩していただろう。
でも自信はたっぷりあったんだ」
レノックス・ルイスがそういうように認定による王座獲得はあまりよいことではなかった。
チャンピオンベルトを他国に持ち去られたアメリカのファンは、レノックス・ルイスを
「ぺーパーチャンプ」
と非難。
長年、世界ヘビー級タイトルを独占していたアメリカにとって認定で王座に就いたイギリス人は腹立たしい存在だったのかもしれない。
以降、レノックス・ルイスはアメリカのリングに上がるたびにブーイングを浴びた。
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1993年11月6日、リディック・ボウに敗れてタイトルを失い「もう終わった」といわれたイベンダー・ホリフィールドが1年ぶりに復帰。
WBCのベルトをゴミ箱に捨てた後、WBA・IBF世界ヘビー級チャンピオンとして2度、防衛に成功していたリディック・ボウとのリマッチに挑んだ。
試合開始直後からガンガン前に出るリディック・ボウに、イベンダー・ホリフィールドは右を振り回してジャブを放ち、リディック・ボウの長いジャブで顔を弾かれながらイベンダー・ホリフィールドは果敢に前に出た。
5R、リディック・ボウは目の上をカットし流血したが、ガードを固めながらの攻撃でもパワーの差を見せつけた。
リディック・ボウはよりダメージを与えるパンチを、イベンダー・ホリフィールドは速いコンビネーションなど見栄えのよいパンチを当てた。
7R、パラシュート男がリングに落下。
試合は20分中断。
再開後、イベンダー・ホリフィールドはステップを踏んで間合いを取ってジャブ。
右ストレートを被弾したリディック・ボウは右アッパーを返した。
2人は12Rを戦い抜いた。
判定は115-114、115-113、114-114。
2-0でイベンダー・ホリフィールドが勝利し2団体(WBA、IBF)統一世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
一方、リディック・ボウは3度目の防衛戦で王座から陥落した。
この試合の判定は今でもよく議論されるほど微妙で、リディック・ボウが勝っていたというファンも多い。
1994年4月22日、WBA、IBF世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドは、初防衛戦で元WBOヘビー級チャンピオンのマイケル・モーラーと対戦。
マイケル・モーラーは、ライトヘビー級世界チャンピオンとして9度の防衛に成功した後、WBOとマイナーながら、サウスポーとして初めて世界ヘビー級チャンピオンとなった。
ヘビー級として体格は小さいものの左のパワーは凄まじかった。
この試合、イベンダー・ホリフィールドの動きは重く、2Rにダウンを奪いながらも右ジャブと左ストレートを駆使するマイケル・モーラーにフラつかされる場面もあり、一進一退の攻防の末に判定負け。
わずか半年で王座から陥落したイベンダー・ホリフィールドは、ネバダ州アスレチック委員会に心臓病と診断されたことを理由に引退を発表。
ネバダ州アスレチック委員会は、イベンダー・ホリフィールドの心臓病は、禁止薬物であるヒト成長ホルモン(hGH)の使用による副作用の可能性があると発表した。
その後、イベンダー・ホリフィールドは、テレビで宗教家のベニー・ヒンをみて興味を持ち面会を希望。
2人は友人関係となった。
イベンダー・ホリフィールドは多額の寄付をし、ベニー・ヒンは心臓の治療を行った。
そしてネバダ州アスレチック委員会の再検査を受けると心臓病は完治していたので引退を撤回した。

LENNOX: THE UNTOLD STORY - OUT NOW ON DIGITAL & DVD

1994年9月24日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスが、4度目の防衛戦で、身長は188㎝ながらリーチが208㎝もあるハードパンチャー、オリバー・マッコールと対戦。
1R、レノックス・ルイス優勢。
2R、オリバー・マッコールの右でレノックス・ルイスはダウン。
ダメージは大きく、なんとか立ち上がり続行の意思を示したものの、レフリーがストップし、TKO負け。
プロ26戦目にして初敗北し王座から陥落した。
「派手にやられたな。
カークラッシュのような敗戦だった。
まあラッキーパンチってやつじゃないか。
でもあの敗北のお陰で強くなれたと思う。
モハメド・アリだって2度王座から滑り落ち、強さを増して帰って来ただろう。
負けがメンタル、フィジカルをパワーアップさせたのさ。
俺も同じだよ」
レノックス・ルイスはオリバー・マコールのコーナーにいたエマニュエル・スチュワード(Emanuel Steward)をトレーナーとして迎え入れ、自身の弱点を熟知した指導者と共に再スタートを切った。
「彼はビッグファイトの経験が少ないので、知名度の低いチャンピオンなのかもしれません。
ですが今後、誰もがレノックスの名前を覚えることになるでしょう。
間違いなく現在最強のヘビー級ボクサーです。
ホリフィールドと戦っても、タイソンと戦ってもKOで勝つでしょう。
彼の特徴は、左右の破壊力抜群のパンチを、正確に、シャープにヒットできる点です。
さらにスピードのあるコンビネーションを覚えれば、歴史に残るヘビー級王者になれるでしょう。
1年後には、驚くほどの選手になっていると思いますよ」
そういうエマニュエル・スチュワードの最高傑作といわれるのが、驚異的な射程距離、スピード、破壊力を併せ持ったフリッカージャブでKOの山を築いた、「ヒットマン」、トーマス・ハーンズだった。
「ハーンズは尊敬するボクサーの1人だし、エマニュエルの論理的な指導には説得力があるんだよ。
彼のいうことはすごく理解しやすいんだ。
もう1度出直して、さらにスケールの大きいチャンピオンを目指すには、どうしても彼のアドバイスが必要だった」
この後、距離を取り、緩いボクシングをすることもあったレノックス・ルイスが、徹底的な攻撃的スタイルへと変貌していった。

バーナード・ホプキンス vs セグンド・メルカド 第2戦

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