そもそも「親子鷹」の意味は?
一つの目標に向かって努力する父と息子の事をいう語。その語源は 、勝麟太郎(勝海舟)と、その父小吉を描く子母沢寛(しもざわかん)の長編小説「親子鷹」による。同小説は、1955年5月から1956年8月まで読売新聞に連載。1956年に映画化。度々TVドラマ化もされている。近年では野球など、スポーツの指導者の親、その指導を受けて奮闘する子という親子関係を指して使われることが多い。
「親子鷹」の代名詞、原貢・原辰徳親子(東海大相模)
福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任した原貢監督は、拳骨は当たり前、たるんでいるとみるや至近距離からノックの雨を降らせる「熱血指導」で、全国では無名の三池工を、1965年第47回全国高等学校野球選手権大会で甲子園初出場に導き、更に優勝へと導きます。主力産業である炭鉱の低迷で暗く沈みがちだった市民に明るい話題を提供した同校の優勝は「三池工フィーバー」とも言われる社会現象となり、凱旋パレードには人口21万人の町に、30万人が駆けつけ沿道を埋めたと言われています。
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この三池工での戦いぶりに目を付けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きにより、原貢は東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。その東海大相模高校に息子の辰徳が入学。部内では親子の関係を一切断ち切り、練習中何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせました。
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その厳しい指導の下、原辰徳が高校1年生だった1974年夏を皮切りに、通算4度甲子園出場。(1974、75、76夏。1975年春)。1975年春には決勝戦まで勝ち進み、延長の末5-10で高知高校に敗れたものの、準優勝。夏は74、75年夏の大会ではいずれもベスト8に進出しています。2人の「親子鷹」関係は高校卒業後も続きました。1976年ドラフトの目玉だった原辰徳はドラフト目前でプロ入りを拒否し、東海大学に進学すると、父の貢も東海大学硬式野球部監督に就任。首都大学リーグ7連覇を達成します。
その後も東海大相模、東海大の監督で監督を務め、名称として名をはせた貢は1996年(平成8年)に勇退。以降は再び東海大学系列校野球部総監督を務めていました。孫の菅野智之が、2011年のドラフトで、日本ハムが強行指名し交渉権を獲得した際「日本ハムからあいさつが一言もなかった。これは人権蹂躙」「あいさつもなしに指名するなんて“だまし討ち”」というコメントを発表しています。2014年5月29日に永眠。
斎藤一之監督・俊之親子(銚子商)
銚子商業を率いた斎藤一之監督は、第47回全国高等学校野球選手権大会で準優勝。(決勝では上記の原貢監督率いる三池工業高等学校に敗れる)。昭和48年の夏の大会では怪物・江川卓選手擁する作新学園を雨中の死闘の末撃破。
S48夏 銚子商vs作新学院
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1974年の第56回全国高等学校野球選手権大会では土屋正勝投手、三塁手で4番打者の篠塚利夫(現 篠塚和典)を擁して全国優勝を果たした名将でした。
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そんな全国的にも名将として知られた斎藤一之監督率いる銚子商業に、長男の俊之が入学。この際、監督の息子という事で陰口を叩かれることもあったと言います。ですが千葉県大会の準決勝で、前年の甲子園優勝校習志野を相手に、2-2で迎えた延長10回。斎藤俊之がサヨナラ本塁打を放った。これは、陰口を叩く者すべてを黙らせる一発となり、帰宅後「ようやく銚子商の一員になれた」と語ったという逸話が残っています。1976年夏の第58回全国高等学校野球選手権大会で1番・二塁で出場。準々決勝で優勝した桜美林に敗退。翌1977年の春は俊之が主将で出場しています。
銚子商業高等学校を春夏併せて11回、甲子園に出場、甲子園通算23勝10敗(春夏合算)という成績を残した斎藤一之監督。上記の篠塚和典選手の他にも宇野勝ら多数のプロ野球選手を輩出しています。1989年1月9日、肝臓がんのために60歳で病没しました。
俊之さんは父の一之さんが他界後、銚子商業の監督に就任。2005年夏には親子2代で監督として甲子園に出場し、3回戦まで進出。現在も古豪復活に向けて球児の指導に当たっています。